第五十七話【変わった世界】
ワンちゃんだ! ワンちゃんだっ! と、はしゃぐミラを他所に、僕は冷静にこの状況の整理を始めた。
いえ、ちょっと……あまりの出来事に、脳みそを再起動していると言いますか……
「よしよーし……えへへ。良い子良い子……ふふ、大きい……もふもふ…………えへへー……ヴェルグルハイド……」
いや、その名前まだ諦めてなかったん——僕とティーダを同じ扱いにするんじゃねえ⁉︎
よし、よしよし! なんとなくだけど脳みそが考えられる状態にまで回復した。
ここは……ちゃんと異世界、召喚術式は成功してる。
ミラが目の前にいて、そして僕も五体満足でここにいる。
だが……問題なのは……
「ちょっ……み、ミラちゃん。犬じゃない、犬じゃないってば」
「っ⁉︎ 喋っ…………お爺さんも喋るものね。そういうこともあるわよ。えへへー、ヴェルグルハイド、お手。ほらほら、お手っ」
犬じゃねえ! どちらかと言うとお前が犬じゃい!
ってか犬が喋ってると思うならもうちょっと驚けや——ッ‼︎
分かってる、マグルさんだって見た目は狼みたいなもんだったしな。じゃなくて……ええい、鬱陶しい!
久々にくっ付いてくると、可愛いが四割、愛おしいが四割、守らなくちゃが八割。そして一割程のでぇい鬱陶しい! が、心の中にひしめき始めた。
え? 多い? それだけうちの妹は可愛いんだよ。
「ちょっ……お手じゃなくて。ミラちゃん、俺だってば。アギトだよ」
「えへへ……ヴェルグル…………あぎと…………アギトさん——っ⁉︎」
ぴぃっ! と、悲鳴を上げて、ミラは僕の上から飛び退いた。
そ、それもそれで……寂しい……ぐすん。
ミラは僕のことをじーっと見つめて…………また目をキラキラさせて、そわそわと落ち着きなく僕の周囲をうろつき始めた。
これは……研究対象を前にした好奇心ではない。
大型犬を前にテンションが上がってるだけ、ティーダの時と全く同じだ。遺憾である、誠に。
「……アギト……さん……? ほ、本当にアギトさんなんですか……っ⁈ ちょっと見ない間にこんな姿に……」
「違う——っ⁉︎ 違うよ! 確かに顔を合わせるのは久し振りだけど、だからってそんな——十日ちょっとで人はここまで変わらないよ! 変わったってレベルじゃないだろ⁉︎」
そう言われてみれば……と、ミラは珍しくボケボケな答えで小さく頷いた。
そうしている間も僕から目を離すことはなく、じろじろと僕の様子を窺っていた。
珍しいものを見る目じゃなくて、やっぱり大きい犬にじゃれ付くタイミングを計ってるって感じだ。コイツ……
「……どうやら召喚術式に変なものが混じったっぽい……? ミラちゃん、体に異常は無い?
俺の方は……目がめちゃめちゃ良くなってて、鼻も良く利くようになってて。
手とか体もこんな…………ち、因みに顔ってどんな風になってる…………?」
そんなの聞くまでもないんだけどさ。
うん……さっきから視界の真ん中下にチラついてるんだ、黒っぽい毛に覆われた鼻が。
およそ鼻が高くなったなんてレベルじゃない、口ごと前に突き出した、ながーい顔が……
「え、ええっと……ワンちゃん……です。私の方は…………うーん? 特に変わりないような…………あっ、えっ⁈ 何これ⁉︎ 耳っ⁈」
うーん。と、頭を抱えた時、その頭上に追加されたケモミミに気付いて、ミラは大慌てで身体中をチェックし始めた。
し始めたが…………うぐぐ。どうやらミラの方は本当にそのくらいしか差異が無いらしい。
「…………まさかとは思うけど……マグルさんが関わったから……? 獣人だから……とか、そういう意味じゃなくて。その…………」
「………………興味本位で、術式に変なものを介入させた……って、ことですか……?」
あり得なくない。
ふたりともそういう認識があるから、笑いもせずにただひたすら沈黙してしまった。
あり得なくない。そう、あの老人はそういう人物なのだから……っ。そして……
「……俺の方は……もしかしてティーダか……? マーリンさんもマーリンさんで…………はあ。
何かの準備中にティーダが紛れ込んで、その時に毛かなんかが巻き込まれて……」
「…………マーリン様は立派な方ですから。そんなミスはそうなさらないでしょうし…………も、もしそうだとしても、イレギュラーにも関わらず術式を成功させたのはやはり流石ですよっ! ええ!」
必死にフォローして……お前もなんとなく覚えがあるんだろ……?
もしかしてあのポンコツ……やらかしたか……?
ミラの方はマグルさんの気まぐれで。僕は…………それに加えてティーダが乱入したとかで。
とにかく、精神は無事にやってこられたが……肉体は……
「……取り敢えず、現状をしっかり確認しよう。魔術や錬金術は使えそう? 自己治癒の能力とか、他にも異常が起きてそうなところは……」
「わ、私は大丈夫です。それより……変化の度合いはアギトさんの方が大きいんですから……」
僕の方はもう違い過ぎて、今更何が変わってるか分かんないよ!
って言うかもう全部違うじゃん! 犬じゃん! 言いたかないけど、こんなこと。犬じゃん! これ!
二足歩行は出来る、けれど……かかとと言うか、後ろ足の関節は……どちらかと言うと犬寄り。
背筋を伸ばして立てるから違和感はあまり無いんだけど…………違和感が無いのが尚更怖いと言うか何と言うか……
「……ミラちゃん、これからどうしようか。マグルさんじゃないけどさ、流石にこの姿で人前に出るのは憚られる。
誤解を生みかねない、そうなったら世界を救うどころの話じゃない。
僕は一度どこかに身を隠して、その間にあんまり変わってないミラちゃんに情報収集をして貰うしか……」
「そう……ですね。うう……こんなことなら、お爺さんの結界魔術、教わっておくんでした……」
教えてって言ったら教えてくれるものなのかね。
と言うか……よしんば教わってても、今のミラにそれが使えるかどうか。
レヴの存在を気にして、魔力の行使に抵抗を覚えている……と、マーリンさんは説明してくれた。
魔力にリミットは掛かっていないけど、むしろその所為でレヴを近くに感じ過ぎてしまっている、と。
だから……今のミラは、かつて程魔術を巧みに扱えない。
「取り敢えず……街だよね、アレ。行こう。行って……この世界に訪れる終焉を——絶望の影を。なんとしても先に見つけ出して食い止めなくちゃ」
「……はい。今度こそ、なんとしても」
正直、理想的なスタートとは呼べなかった。
僕の身体能力はどうやら大幅に向上しているみたいだが、しかしその為に人の姿を捨てていては本末転倒だ。
僕に出来るのは戦うことじゃない。その為の力を貰っても活かしきれない。
いや……ミラの代わりに戦えたら……とは何回も思ったけど。
でも……いざ世界の終わりなんて前にして、真っ直ぐ立って戦っていられる自信はまるで無い。
いくらなんでも弁えてるよ、そのくらいは。
僕に出来るのは、逃げ回ること。逃げて逃げて、そして……
「……ごめん、じゃあ……」
「はい。すぐに戻ります、待ってて下さい。何かあったら…………うーん。こちらから合図を送りますから、その地点から西へ行ったところで落ち合いましょう」
頼もしいこの背中が、憂いなく戦えるようにしてやるしかない。
僕達の目指した勇者の形は、どれだけ情けないと言われてもそういうものだったのだから。
僕達は草原をしばらく進んで、そして……ミラだけが街に向かった。
耳は髪でうまく隠せばなんとかならないわけでもない。
でも……それでも、バレれば何があるか分からない。
マグルさんはその姿の所為で、酷く迫害されたと言っていたし。
そうなってからでは、言葉も届かなくなってしまいかねない。
「…………はあ。ったく……」
マーリさんめ、とんだポンコツ魔導士じゃないか。
まあ……マグルさんには感謝しよう。散々文句を言いましたが、僕はケモも結構嗜みますので。
と言ってもあまり深い所までは……そうだなぁ。二足歩行してるレベルなら大体いけますね。
てなわけだから……でへ、ケモ耳ミラ、略してケモミミラは中々良いものでしたぞ。
うちの妹は何着せても可愛いからなぁ……でへへ。
「…………? あれ……アイツ……」
しばらくと言う程の時間も経たない内に、街の方から人影がやってきた…………いいや、戻ってきた。
小さくて草に隠れてしまいそうだが、それでもこの状況で唯一の頼りを見失うわけがない。
まるで何もして来なかったのか、ミラはあまりにもすぐに戻って来てしまった。
どうしたんだろう…………も、もしかして……っ。
「おかえり、ミラちゃん。随分早かったけど……その……もしかして、もう街は……」
「いえ……その…………なんと言えば良いのか……」
そんなに酷い有様だったのか……っ!
あの時と——王都を目指して、ふたりでアーヴィンを出たばかりの時と同じだ……っ。
魔獣に襲われ、そして乗っ取られてしまった小さな村。
故郷を出て最初に訪れた場所は、間に合わなかった——と、その後にも積み上げることになる後悔のひとつ目だった。
この世界でも……同じことが…………っ。
「……行きましょう、アギトさん。見て頂くのが一番早いかと……」
「……? えっと……うん、分かった。ごめん、ひとりだけつらい思いさせて」
ミラは何も言わず、また街へ向かって歩き始めた。
しかし……どうやら街に行けば何かが分かるらしい。
この世界に訪れようとしている終焉の、その一端が既に見えているのかもしれない。
そうだ……あの最期の召喚から、既に一年近くが経過している。
三百六十五日って区切りが他の世界でも共通かは知らないけど、少なくとももう二百日以上前なんだ。
とっくにみんなの記憶が消費されていてもおかしくないし、残っていたとしても消滅の瀬戸際である可能性は十分にある。
「……急がないと……っ」
だから……この世界の滅びが明日——いいや、一時間後に来たっておかしくないんだ。
マーリンさんがどれだけ準備をして長い期間ここにいられるようにしてくれたって、世界が僕達をいつまで受け入れてくれるかは分からない。
早く……早く情報を集めなくちゃ…………っ。
と、焦るばかりで視線の下がっていた僕を、ミラはぐいぐいと手を引っ張って……
「……ここから、見えますか? あの街の光景が——いいえ。この世界の————」
「————アレって——っ!」
どうやらここは——この距離は、ミラの目がその光景を捉えられるギリギリの距離らしい。
そして——それは今の僕の目にも、遠くて小さいながらもはっきりと映っていた。
まだ少し先にある赤い屋根の並んだ街には————
「——獣人——っ! この世界は獣人の世界だったのか————っ!」
遠くから眺めるだけでも分かる。
馬ののうに、頭頂部から背中に掛けて立派なたてがみを生やした男性。
リスのように、身体に対して随分大きな尻尾を持つ女性。
僕とミラの間にある程度の差はあれど、街を行き交う人々は皆、どこか獣の特徴を兼ねた姿をしていた。




