第五十六話【第二の世界】
ザック達のブラッシングがひと通り終わると、エルゥさんはそそくさと部屋を出て行ってしまった。
ああっ、美少女がっ。美少女が減ってしまう! ではなくて。
「……さて、じゃあ……」
マーリンさんは僕をベッドに座らせると、何やらぶつくさと……考えごと……? 言霊は必要無いって言ってたもんね。
じゃあ……うーん。マグルさんも加わることだし、ちょっとだけ勝手が違うのかな。
「よし、術式終わり。いつでも寝て良いよ。君の肉体の維持と精神の引き上げは任せて」
「はやっ。相変わらずそれ……」
無詠唱、ズルイ。
いつやったのかも分からなかったと言うか……いえ、言霊があったとしても、それがどういう術なのかなんて僕には分からないけどさ。
それにしたってやっぱりインチキだ、ゲームバランスを考えろ。
「思いっ切り楽しんで、その上で世界を救っておいで。いつかもそうしたようにさ」
「はいっ! よっし……じゃあ、おやすみなさい!」
そんなに気合い入れると眠れなくなるよ。と、マーリンさんは笑って…………僕はすぐに後悔した。
ちょっと気合い入れたら目が冴えちゃった……うぐぐ。
「…………アギト。眠れないなら、ちょっとだけ眠ってしまいたくなるお小言をあげよう。
そうだね……まず、君の良いところでもあるんだけど……あまりその世界に入れ込みすぎないように。
世界を救う、その為に人々と打ち解ける。必要不可欠なことだけど、何ごとにも限度がある。
別れがつらくなるかもしれないし、失敗した時……その滅びを目の当たりにした時、君の心が——精神が深く傷付いてしまうかもしれない。
難しいかもしれないけど、自分はその世界においては部外者なのだ……と、少しだけ距離を取るくらいが丁度良いだろう」
「距離を……ですか。それは……」
難しいのは重々承知の上だよ。帰る場所があるんだって意識を持つくらいでも良い。と、マーリンさんは僕の手を握って微笑んだ。
うん、それは……すっごく難しい。
その考え方を持つには、そもそもとしてこのアギトという人間が——精神が、人格が異質過ぎるのだ。
それを認めて仕舞えば——世界にとって異物であるという考えを持って仕舞えば、僕がここにいることにも疑いを持たなくてはならなくなる。
だって僕は、別の世界の住人なのだから。でも……
「…………やってみます。と言うか……それはミラにも伝えておけ、ってことですよね。俺よりアイツの方がずっと……」
「……そうだね。あの子は優しいし、それに別れが苦手だ。最初からある程度の距離を保たないと、あの子はまた簡単に壊れてしまいかねない」
そうならない為にも……そうなってしまう前に、僕がアイツの記憶を取り戻してやるんだ。
記憶さえ……思い出さえ戻れば、アイツはまた居場所を手に入れられる。
僕の横に帰って来れば良い、って。
ここに家族がいるんだってことを思い出せば、アイツは絶対に大丈夫だから。
「……アイツの記憶が戻ったら、レアさんを探しに行かないといけませんね」
「ふふ、もう世界を救った後の話かい? さっすが、救世くらいお手の物だね」
そ、そういうわけじゃ…………うん、そういう話なのかも。
アイツにとっての家族が僕ひとりで良いわけない。
レアさんも神官さんも、絶対に探し出さないと。
でないと、あの旅の思い出の最後には、悪い出来事ばかりが残ってしまう。
あんなに楽しかったんだ、思い出したくない出来事になんてしてたまるもんか。
「……眠れそうにないね、どうやら。どうする? ぎゅーってしてあげようか?」
「だ、大丈夫です…………いや、マーリンさんが話し掛けるから眠れないんじゃ……」
これはうっかりした。と、マーリンさんはちょっとだけバツが悪そうに目を逸らした。
こいつ、本当にうっかりしやがったな? それだけ僕達のことが心配なんだろうけど。
さて……じゃあそろそろ……
「……明かり、消すね。行ってらっしゃい、アギト。また……また何度でも僕に見せておくれよ。君が紡ぐ奇跡の物語を」
「頑張ります。じゃあ……おやすみなさい」
ぽんぽんと頭を撫でられて、僕の意識は急速に沈んで行った。
相変わらず簡単に出来てるなぁ、僕って。さて……
——手足の感覚が無くなってきた。
ズブズブと底なし沼に沈んでいくみたいに、身体がじわじわと重たく——動かなくなっていく。
恐怖は無い。だってこれはただの入眠だ。
死ではない。
あの時の神経が焼き切れるような苛烈さはどこにも存在しない。
穏やかで、そして暖かな意識の終わり。
眠る——。そしてまた、あの場所へ向かう。
水の底、召喚の中継点。
僕はそこでまた——女の人の影を見つけた————
「——行ってきます」
その人はうっすらと笑った気がした。
暗くて相変わらず顔も見えないけど、その片翼を広げて道を指し示してくれているみたいだった。
浮かぶ————意識の浮上が始まる。
明かりの先には世界が待っているのか、それとも別のアギトの肉体が待っているのか。
どちらも結果は変わらないけど————僕はその水面から飛び出して、そして勇者として世界に降り立った————
目を開けると、そこは随分と長閑な………………長閑過ぎる、大自然のど真ん中だった。
遠くに山が見えて、その中腹から麓に掛けて木々が生い茂り森となっていて。
それよりももう少し手前には、どうやら街のようなものもあるふうに見える。
ふむ……レンガの屋根かな、赤い頭の建物がいっぱいだ。
ここから見える感じでは、どうやらアギトの生きている世界と文明レベルはそう変わらなさそうだ。
うーん、しかし……
「…………目……めっちゃ……」
めっちゃ視力良くなってね…………?
遥か遠くの木の葉の数さえ数えられる……とまではいかないけど、かなり視力が向上しているみたいだ。
うーん……? これって、召喚に際して付与して貰った特性なのかな?
それとも……この世界ではこれがスタンダードで、このくらいは見えないと順応出来ない——言葉を理解出来るのと同じ要領で、本来なら見えない筈の遠くの物も認識出来るようになってる……とかなのかな。
「…………っと、そうだ。ミラちゃーん、どこに…………? すんすん……この匂い……」
遠くに見えるのは山、森、街。
けれど、近くにあるのは背の高い——そのくせ、随分柔らかい草。
草原の真っ只中に召喚されて、僕は早速ミラを見失った。見失ったんだけど…………?
「……アイツの匂いだ……鼻も良くなって……」
アレかな、マグルさんが加わったお陰で、身体能力や五感にギフトが…………理屈は良いや。
とにかく、強い草の匂いの中に、ミラの匂いが混じってる。
そしてその出所も探れるくらい、僕の鼻はよく利くようになってて…………
「——っ! いた! ミラちゃん!」
ふがふがと鼻を鳴らしながら探し回って、そして地面にぺたんと座り込んで遠くを見つめるミラの姿を発見した。
ずっとずっと遠くを…………? 遠く…………どこを……見てる……?
「…………ミラ……?」
声を掛けても、風が吹いても。ミラは微動だにしなかった。
ずっとずっと遠くの景色に見とれているのかと思ったその目は、どうやら何にもピントを合わせていないらしい。
も、もしかして……精神の定着ってやつに失敗した……?
マグルさんと言えど、召喚術式は初めてなんだ。失敗の可能性は十分にある。
もしかして…………もしかして——アイツの心は————
「————っ!」
ぴくっ。と、ミラの肩が動いた。
どうやら僕の抱いた恐怖は杞憂に終わってくれたみたいだ。
ゆっくりゆっくりと意識を——認識をこの世界にフィットさせて……ああ、成る程。今の今までミラはあの水中にいたのかも。
肉体を造って、そこに精神を……という話だったし。
じゃあ、今までは文字通り魂が入ってなかったのね。
いや、怖。冷静に考えると……めっちゃ怖。
でも、もう今のミラは抜け殻じゃない。
目の前に広がる光景に納得……適応するのに一瞬だけフリーズして、そして頭の上で耳をぴょこぴょこさせながら………………耳?
あれ、ケモミミ⁇ ケモっ子⁈ ケモミラ⁉︎
「——ミラちゃん——それ————」
ぴこぴこと忙しなく動いているミラの耳……猫みたいな、犬みたいな、とんがった三角の耳に気を取られて、ミラがようやくこっちに気付いたことに僕が気付かなかった。
じー……っと、まん丸な目でこちらを見つめ…………そして————
「————ワンちゃんだ————っ!」
——キラキラと、あんまりにも無邪気に目を輝かせながら飛び付いてくるものだから、その口から発せられた意味不明な言葉に気が回らなかった——
わぁい、おいでおいで。うふふ、ミラは可愛いなぁ。
うふ……うふふ……ずーっと……ずーーーっと、こうして抱き締めたかったんだぞぅ。
ミラはかつてのように僕に抱き着いてきて、そしてすりすりもこもこと喉元に頭を擦り付けてきた。
気持ち良さそうに頬ずりを繰り返す愛くるしい妹の、見慣れないケモミミの着いた頭を————僕は随分毛むくじゃらでワイルドな感じになった手で撫で回した————はい?
「——なん————なんじゃこりゃああああ————っっっ⁉︎」
ミラの耳にはケモミミが。
それも、なんかこう…………ヌルい。こう……ね。世のケモナーが泣くよ、マジで。中途半端すんな、って。
なんて言うの? その…………浅い。一般ウケを狙って、取り敢えず耳だけ付けときました、みたいな。申し訳程度の獣人化みたいな。
そう……僕はさ、誇り高い厄介オタクだから……そういう細かいとこ、気にするよ……?
そんなソフト獣化されたミラを抱き締めていた僕の体は——マグルさんもかくやと言わんばかりに、五割くらい獣成分の入った、ガッツリ系獣人としてこの世界に登録されていた。
爪——っ! 毛——っ! ってか肉球————っっ!
これじゃお箸使えねえ——っっ!︎ いや——そういう問題じゃねえええ————ッ‼︎




