第六十八話
一日が長い。でも、何も覚えていない。僕は今日、一体何をしていた? 初めてバイトがあって、それすら忘れてて。あっという間に過ぎたくせに時間は全然減っていない。煩わしい、もどかしい、鬱陶しい!
「……くそっ……僕の人生はCMじゃないんだぞ……っ!」
興味が無くて、続きが気になって、時間が惜しくて。いつも無意識にスキップしている録画したアニメのCMを一々全部見ているかの様な感覚に、僕は自分自身に毒突いた。分かっている。ここで今焦ったって何も変わらないし、時間が早く流れるわけでもない。それでも落ち着かなくて、僕は晩御飯も食べずに布団に潜った。まだ夕日が出ている頃のことだった。
目が覚めたのはまた早い時間で、流石に昨日ほどモヤモヤは酷く無くなっていた。相変わらず分からなくなったままの時間の使い方を模索する時間。一体、秋人はいつになれば満足いく人生を送れる様になるのだろうか。ゲームをする気にもなれずに、僕は誰もいない、まだ暗いリビングに向かった。
長い、長い夜だ。どうしてしまおうか。リビングの電気を点けると、そこには服屋の大袋が置いてあった。僕のだろうか、兄さんのだろうか。分からないが男物の服が数着、出来れば僕のであって欲しいが……いい加減自分で服を買いに行くという事くらいはすべき気もするので、僕のじゃない方が……いや、やっぱり僕のだと嬉しい。
手持ちぶたささえ持て余して、逃げる様に僕は家の外に出た。別に時間さえ潰せればなんでも良かったのだが……しまった、こんな暗い住宅街で怪しい男がほっつき歩いていれば、下手すると不審者情報が流れかねない。近所の公園まで歩いたところでその思考に巡り合ったのは、いつかここで防犯ブザーを鳴らされたトラウマからだろう。この時間なら……子供もいないし平気だよ……な?
「……懐かしいなあ。兄さんと父さんと、サッカーしてたっけ」
幼い日の記憶を、慣れ親しんだ公園の見慣れない姿に思い浮かべる。あの頃は時間の使い方なんて考える間も無く、次の楽しいことを考えたものだが……これが老いか……
「…………父さん……」
僕は一つの決心をして家路に就いた。真夜中の誰もいない風景は少しだけ特別感があって、なにやら胸踊るものが無くも無かったが……いかんせん通報が怖い。急いだわけでは無いが、しかしのんびり歩きもせず、出来る限り速やかに帰宅する。まだ……新聞も来ていないみたいだ。
静かに玄関を開けて、静かに部屋に戻って。別に音は立たないが、静かさを心がけてスマホを手に取った。見るとまだ未読のメッセージが一件……あ、やっべ。早く寝よう寝ようとデンデンさんからのメール無視してたんだった。
『明日からクラウンサーガ体験版が一般公開されますな! オラワクワクしてきたぞ!』
明日……明日? となれば、もしかしなくてももう出来るんです? 僕は急いでPCを立ち上げる。おっと返信は……っと。
『メンゴメンゴ、美少女と戯れてたわ。今からやってみる』
こんなところでいいだろうか。嘘は言ってないし、うん。えーと体験版体験版……ここからダウンロードね。正直な話、このPCもだいぶお古だから、動作保証というか……ファイル数増えるとそろそろ処理落ちが怖いのだけど。えーとダウンロード時間は……出ました308分。騙されんぞ! ここからなんだかんだあって表示は一時間くらいまで短くなるんだ! でもって結局本当に四、五時間かかるんだろ⁉︎ 僕知ってるからな‼︎
ピコン。と、着信が一件入った。デンデンさんの生活サイクルが危うい……
『妄想乙。拙者ももうプレイしてるでござる。もしよかったら一緒にどうですかな?』
妄想ちゃうわ! 非実在美少女だけど実在するんじゃい! しかし……このダウンロード時間では一緒には難しいだろう。
「ダウンロードに後二億年かかるから待ってて♡」
『二億年遊べるRPG。キャッチコピーキタコレ、応募しますか』
くそう……デンデンさんにうちの可愛いミラ(ゲームキャラクター)を見せてやりたかったが仕方ない。同名の少女(上司)の話は出来るもんでも無いが、これならこっちでも自慢できる。どうだ、うちの子は可愛いだろう、と。
「……向こう戻ったら励ましてやらないとな」
別に落ち込んでいたわけじゃなかった気もするが……まあ。あれでナイーヴなところもあるし、支えてやれるところは支えてやらないとな。まったく、ほっとけない妹が出来たもんだ。
「今めっちゃ暇で時間持て余してるからおしゃべり付き合って♡」
『えー、拙者ゲームするでござる』
縋る気持ちでデンデンさんにメールを送るが、それ以降本当に返信は途絶えた。薄情者! 本当にゲームしているのか流石に寝たのかは分からないが、僕はまた暗い部屋の中で一人に戻った。下手にあの少女の事を考えたもんだから……ああ! 時間が長い!
結局、ダウンロードは全然終わらないまま朝を迎えた。その間僕がやったことといえば、特にハマっているわけでもないソシャゲのスタミナ消費と自家発電と、七割くらいはキャラクリを見直していた。なんだろう、最近ずっとこの子ばかり見ている気がするぞ……? 僕は名残惜しげに見つめてくる(幻覚)少女を振り払ってリビングに向かう。母さんか兄さんにお金を都合して貰わねば。
「おはよう母さん。その、朝っぱらから悪いんだけど……お願いがありまして」
ドアを開ければ、もう母さんは朝食を作っていた。不思議そうな顔をする母さんに、僕は今更忍ぶ程も無い恥を忍んで小遣いをねだる。
「……父さんのところに行こうと思って。電車賃だけ、貸して貰えないかな」
「…………うん、分かった。気をつけて行ってくるのよ」
何も疑うこともせず、母さんは頷いた。あとで玄関にお金は置いていくから。と、食器を並べてくれと急かされた。今日の献立は……うん、ちゃんと分かる。昨日よりはいくらか冷えた頭をさっぱりさせる、冷たいかけうどんだった。
二人を見送りシャワーを浴びて、やはり僕のものだった新品のシャツに袖を通す。玄関にはちゃんと三千円が、鍵とメモと一緒に置いてあった。電車で二駅いった小さな田舎の駅。そこから歩く十五分程の道。父さんの墓の位置。全部が書いてあるメモに、いい加減自立せねばと固く誓う。さあそろそろ出かけよう。と、決心したのは、クラウンサーガのダウンロード時間が592分に伸びているのを見た時だった。本当にこのゲームで遊べる日が来るのだろうか。
流石に平日昼間だけあって人影は殆ど無い。ガラガラの駅でガラガラの二両編成の電車に乗り、ガラ……ボロボロの無人駅で僕は降りる。小さい頃、年に数回来ていた父さんの実家。祖父の家がある町。父さんは今、祖父母と一緒のお墓に入っている。父さんだけじゃなく、よく遊んでくれたお祖父ちゃんお祖母ちゃんにも挨拶しないとな。なんて考えながら、地図とスマホのナビを頼って歩き続けた。
「……あっついなあ。もう夏は終わるって言うのに」
強い日差しに汗が滲む。せめてタオルくらい持って来るべきだった。そして人がいないことを有難いと切に思う。きっと今の僕は……臭うぞ? アイツだって今の僕なら抱きついてきたり出来まい。あれ……? なんだか目からも汗が……? 救いの無い自虐に涙しながら、僕は二十分かけて墓地へやって来た。花とか……買って来るべきだったのでは……?
「……何したらいいか分かんないや。ごめん父さん、とりあえず顔だけ見せに来たよ」
置いてあった桶に水を汲んで、僕は原口家ノ墓と彫られた立派な墓石の前で頭を下げた。謝ることはいっぱいある。謝りたかったことはもっといっぱいある。でも、僕はそれらを飲み込んで笑って話せる話をした。
「ようやく受かったバイトの初日……昨日なんだけど、遅刻しちゃってさ。でも、お客さんが来なかったから問題ないよって言われちゃって。パンも美味しくないし、折角見つかった初めての仕事だけど。すぐにまた逆戻りかも、なんて兄さんと話したんだ」
ひとつだけ残っていたミニクロワッサン。美味しくないからと誰も食べたがらなくて残ってるあのパンを持って来ていれば、父さんにも見せられただろうに。僕は本当に準備が悪い男だ。父さんが倒れて、入院して。一度もお見舞いに行くこと無くこうしてお別れをして。その間にあった何も無い時間の事と、ようやく何かを残そうとし始めた最近の事。話してみれば本当に一瞬で終わってしまうくらい、まだ短くて少ない僕の足掻きを包み隠さず父さんに話した。そして……
「…………僕さ、もう一人大事な友達が出来たんだ。そいつは僕の恩人で、上司で、隣人で、旅の道連れで、妹みたいなやつで。父さんには合わせてやれない、見せてやれないけど。綺麗な世界なんだ。綺麗で、凄く厳しい。今だって……悩んでて……」
言葉に詰まってしまう。周りに人がいないのだから、この妄言を口にする事に抵抗なんて無い。でも、何をどう説明したら良いのかが分からなくなって立ち尽くしてしまう。
「……いつかまた話すよ。秋人の事と、アギトの事と。じゃあ今日は帰るね。また、絶対来るから」
人が増える前に帰ろう。お昼ご飯も待ってる。僕はまた人気の少ない道を急いで帰った。少しだけ——気のせいかもしれないけど、少しだけモヤモヤが晴れた気がした。