第六十七話
僕らはまた街を一望出来る最上階の同じ部屋に戻って来た。今日は休んで……なんて気分でも無い。昨日、確かに僕らはあの二人の態度、言動に腹を立てた。だが、たった今僕の胸中にあるのは、不安と嫌な胸騒ぎだけ。ミラは……分からない。きっと、ミラも自分のことが分かってない。ぼうっと窓から見える屋敷の屋根に、何か弾ける粒が見え始めた。この世界に来て初めての雨だ。
「……ねえ、アギト? 次はどんな所に着くかしらね」
それは質問? それとも希望を聞いているの? 僕は意地悪な返事をしたと口にしてから思った。僕はこの世界を知らない。だが彼女もアーヴィンの外は知らない。僕らは……行く先々でどんな人と出会い、どんな関係を築くのだろう。少なくともここクリフィアでは、友好的な関係は築けなかった。
「……なんだか、思ってたのと違ったなあ。もっとキラキラして、ワクワクして。アーヴィンから出れば変われるって、思ってたんだけど」
「それは……戦い方の話? それとも……」
分からない。分からない分からない分からない! 一体このモヤモヤはなんなんだ! 僕らは確かに……虐げられている人達を助けたいって。誰かの為に、善い事をしたいって思って立ち上がった。そして勝ち取った。それなのに……なにが引っかかる……?
「…………頑張ったら……変わるって。思ってたんだけどなあ」
ミラはそれだけ言ってシーツにくるまった。外は暗くなったがまだ夕方だ、眠るには早いだろう。そうだ、ここで彼女の側に居てやれたらきっと幾らか格好もつくのだろうか。僕はそう考えて……一緒になって隣のベッドのシーツに潜り込んだ。また……震えて朝を待つのだろう。そんなのは……慣れっこだ…………
倦怠感に見舞われた起床だった。最悪の目覚めと言って差し支えない、そんな朝。時刻は午前……二時。朝ですらない。そうか、そう言えば昨日は早寝だった。理由は忘れたが、早く眠ろうとばかり考えていた覚えがある。むくりと起き上がって、僕は使い慣れたスマートフォンに手を伸ばした。本当に最悪の朝だ。こんなモヤモヤを抱えたまま二日過ごさなければいけないなんて……
今朝こそは。と、僕はまたゲームで潰す時間を少し短くして、二人よりも先にリビングにやって来た。午前五時。このままここで待機して、降りて来た母さんの手伝いをしよう。小学生のお小遣い稼ぎじゃあないが……何かしたい、と。いや、何か気を紛らわせていないと苦しくて仕方がない、と言うべきだ。こっちにアギトのことを持ち込む事は避けようと何度も思ってはいるのだが……あんな顔をされたら…………
三十分ほど過ぎた頃、母さんは降りてきた。ああ、クソ。出て来るな。今はこの母に恩を返す時間なんだ。今は……
「おはよう、アキちゃん。顔色が悪いけど……大丈夫?」
「え……? う、うん。ちょっと変な夢を……ううん、なんでもない」
夢、という言葉を口にすると、僕の胸はギュウと締め付けられたように苦しくなった。夢か幻か。未だ原理も理屈も、理由や切っ掛けすらも分かっていないのだが、あの少女との生活をそんなものと呼ぶ事を僕の心が拒んでいるのだろうか。きっとこれは……依存なのだろう。
「おはよう。お、アキ。今朝は随分早いな」
「おはよう。兄さんだって」
それから確か、僕は母さんを手伝って。他愛も無い話をして、ご飯を食べて。今朝の献立は……あれ? なんだっただろう……あれ? 僕はさっき兄さんと挨拶をして……? 二人は……? 母さんがそろそろ起きてくる時間で……? あれ…………? 何か……今日は何かあるんじゃなかったっけ……?
スマートフォンがけたたましく鳴った。見慣れない、それでも見覚えはある電話番号からの着信。時刻は午前九時半。ボケすぎだ! 全く他のことばかり考えて、目の前で流れている時間に気が行ってなさ過ぎる! ああそうだった、なんかじゃ済まされない。今日は僕の……
「すいません! すぐ行きます!」
板山ベーカリー。と、ちゃんと電話番号を登録しておこう。僕は走りながらそう思った。今日から僕は初めてのアルバイトをする。まるで学生のような事を言っているが、これでも僕は立派なアラサーだ。大丈夫、もしかしたら初めてのアルバイトでクビを経験する。に、タイトルが変わる可能性もちゃんと考慮してる。
「すいません遅れました!」
「ああ、おはよう原口くん。大物だねえ、初日から遅刻なんて」
これはジョーク? 嫌味? そんな事を判別する能力なんて無い僕は、ひたすら店長に平謝りするだけだった。ああ、本当に情けない。こんな時でも“昨日”の事ばかりが頭を過る。
「いいよいいよ、なにせお客が来ないって時間を持て余してたくらいだ。話し相手は欲しかったけど。次は気を付けるんだよ? 別に遅刻したくらいでギャーギャー怒ったりしないから」
「はい、ありがとうございます」
でも、あんまり繰り返したら怒るよ。そう釘を刺され、僕は冷や汗をかく。向こうでの二日目、夜更かしはやはり厳禁だな。それから今日みたいに引きずるのもマズイ。可能な限り解決してから眠ろう。ああ、だがその二つは……両立し得ない……
「それじゃあ着替えて来て。今日は基本的な接客と……まあ、お客さんがいない、暇な日の仕事を教えるよ」
「はい、すぐに」
必死に働けば気も紛れるだろう。僕はLLサイズの制服に袖を通し、急いで売り場に戻った。なんだろう、少しだけ気が晴れたと言うか……気が引き締まって余計な事を考えなくなった気もする。
「似合う似合う。あとは姿勢だねぇ。もっと胸張って」
「は、はい! こんな感じですか……?」
姿勢……か。そう言えば意識してなかったポイントだな。もしかしたらこれまでに落とされて来たバイトの面接も、こう言う何気無いところが悪かったんだろうか。それから彼女も…………ええい! 忘れろって言ってんだよ!
しばらく色々と接客について教えて貰って、その後一人でお昼ご飯を食べた。食後もそれまでと同じ様に、色々雑談交じりに閑古鳥の鳴いた店内を掃除して回った。
一、いらっしゃいませ。は、明るくはっきりお客さんに向けて。そっぽ向いてちゃダメよ、とは店長の談。
二、ありがとうございました。は、明るくはっきりお店の外に向けて。気持ちのいいお見送りは外のお客様が入ってきやすい空気を作るんだ。と、これも店長談。
三? 賄いのお昼ご飯は非常に美味しい。ちょっと待って⁉︎ じゃあなんでパンはあんなに残念な感じなの⁉︎ 勿論お土産のクロワッサンの感想は、オイシカッタデスとしか言えませんでした。
四? 暇な日は、本当にやる事がない。やる事が、ない!
「……お客さん、来ないですね……」
「まあ仕方ないよ。そんな日もあるさ。尤も、開店直後のパン屋で閑古鳥鳴いてるのはちょっとマズイんだけど……」
やっぱり次のバイト先は早めに探した方が……? いやいや、折角雇って貰えたんだから、今はここで頑張ろうよ! うん! 僕は店長の教えその三。店内掃除は基本的に埃がたつから、営業時間にはやらない。開店前、商品入れ替え時、閉店後に徹底的に綺麗にする。を、実践すべく、まだ遠い閉店時間を待った。正直このお店、もう既にダメかもしんない。
「……結局お客さんは朝入った三人だけ。いやはや恥ずかしい。折角来て貰ったのに」
「い、いえいえ。今日は偶々、雨も降ってたし……」
雨? 今日は晴れてたよ? 僕はまたやらかしたようだ。今日は晴れ。雨が降っていたのは昨日、それに……ああもう! 明日はバイトは無い。とにかく明日の晩さえ迎えればこのモヤモヤは晴れる筈なんだ! こんな……こんなの望んでなかった! 僕はあくまで、あの少女の助けになる事と、母さんと兄さんに恩を返す事とを両立しようって。体力も時間も両立するには問題無いのに、記憶の混線と日付感覚の崩壊があまりにも厄介だ!
「それじゃあ次は明後日だね。今日はお疲れ様」
「はい、お疲れ様でした」
何も無く。何事も無く、ではなく本当に何も無く、今日という記念すべき初出勤を終えてしまった。そりゃあ教えて貰った事は必死にメモも取ったし覚えている。だがそれ以外、ずっと余計なことばかりを考えて……ああ! だからこれなんだって‼︎ 本当にこんなんで良かったのだろうかと不安になりながらいそいそと着替えて、僕は店長に挨拶して店を出た。次はちゃんと朝起きるんだよ。と、背後から釘を刺され、僕はまた背中を丸めてすっかり夕暮れに染まった帰り道を歩いた。本当はもっと嬉しくて、誇らしい一日にする予定だったのに。明日じゃない。“昨日の明日”が待ち遠しい。それが全く良い予兆なんて感じさせないものだと、僕もアギトも分かっているのに。