第三十九話【あゝ麗しき——】
——ちょっと、マーリンさんってば——
その人は笑ってあの方の名前を呼んでいた。
その間に確かな絆があるのだと、そんなことは側から見ていても明らかだった。
それにしたって、かつては星見の巫女として崇められたあの方を——政治に携わっていた、偉大なる権力者を前に、あの人はまるで友達と接しているように笑うのだ。
それが…………それが、不思議で不思議で仕方がなかった。
「——ちゃん……? おーい、ミラちゃーん?」
「——わっ⁈ えっ、はっ、はいっ!」
ボーっとしちゃって、どうしたの? と、その方は私の顔を覗き込んでそう仰った。
そうだ……この方はマーリン様。心優しく、気さくで暖かな方だ。
しかし……だからと言って、おいそれと馴れ馴れしくは出来ない。
伝説の中の人物、偉大なる大魔導士。そう……思っていた筈なのだ。
「そろそろ着くよ。久し振りだね、ここへ来るのも。隣町だってのに、相変わらずどことも交流しようとしないんだから」
「そう……ですね」
マーリン様は笑って馬車の行く先を指差した。
空に浮かぶ城壁、そこかしこに見受けられる魔力痕。魔術の都、クリフィア。
かつての旅で、一番初めに訪れた街。一番初めに…………
————ミラ————
「——っ」
まただ。また——誰かの声がする。
私はこの街を知っていた。私はこの街に訪れていた。
けれど…………私は、この街の何もかもを覚えていない。
私の内にあるハークスの力の源泉、古い記録ではない。
それよりも新しい記憶——所々削り取られてしまっているかのように思い出せない、勇者として歩んだかつての旅の記録。
その発端————この場所に…………何か私の記憶を取り戻すキッカケはあるのだろうか。
「…………ミラちゃん、どうかしたの? 顔色悪いよ?」
「っ……い、いえ……その、馬車にまだ慣れないもので」
マーリン様は優しく微笑んでくださる。けれど……もう、答えをくださらない。
魔女としての姿を民衆の前に晒して以降、この方はどこか変わってしまった。
旅の間は凄く元気で、溌剌とした方だった…………ような気がする。
ああ、ダメだ……記憶が……っ。
すぐ傍にずっと居てくださったマーリン様のことさえ、曖昧にしか思い出せない。
楽しかった……筈の、あの道行きのことも。
嬉しかった……筈の、数々の出会いのことも。
何もかもが……朧で…………
「……うん、そうだね。君達は歩いて旅をしたんだから。ずっとずっと……アーヴィンを出て、歩いて王都を目指したのだからね」
私はその方のその顔を知らない————忘れてしまっているのだろうか。
マーリン様は笑うのだ。
私が何かを思い出そうとすると——この霧の中でもがくと、必ず寂しそうに笑うのだ。
この方はきっと、何かを覚えている。
私の知らない何かを知っている。
けれど……それを決して話そうとはしない。
いつもいつも寂しそうに、悔しそうに……
————アギト————
あの方は彼の名を嬉しそうに呼ぶ。
キリエで出会った孤児——アギトと言う名の少年。私の兄弟子……らしい。
あの方にとって彼は、凄く大切な存在みたいだ。
凄く凄く大切な…………ともすれば、かつての勇者様の話をする時よりも、彼といる瞬間の方が嬉しそうな顔をしていると感じる程だ。
「……アギトさん、大丈夫でしょうか」
「うん? ふふ、心配かい。そうだね……あの子の弱さは目に余る。放っておいたら、そこらの犬にさえ食い殺されてしまいそうに見えるものね。
でも……大丈夫だよ。君だってあの子の強さは見ただろう? 見ていなかったとしても……君なら気付いた筈だ」
ポンポンとマーリン様は私の頭を撫でて、そしてゆっくりと停止した馬車の中で目を瞑った。
ああ……何故だろう。凄く懐かしい横顔だ。
ずっとずっと……こうだった……気がした。
そういう記憶が、思い出が。確かにあった筈なんだ。
マーリン様は凄く人懐っこくて、いつも私を甘やかしてくださった。
そんな……そんな記憶があった気さえするのに……何も……
「……さ、降りようか。アギトの心配なら無用だ。あっちには頼もしい奴らがいる。僕達は急いで王都に向かおう。
さっさと準備して、ヘトヘトになったアギトを迎えてあげないと」
あの旅が終わってから……あの戦いが終わってから、魔女としての姿を晒してから————巫女としての立場を捨ててから——マーリン様は変わってしまった…………気がする。
それまで見せていた筈の柔らかな表情は消え、何かを憂いてばかりの悲痛な面持ちを浮かべていた……ように思えた。
「——マーリン様——私はいったい————」
少し先を歩くその背中に、聞こえぬようにその嘆きをぶつける。
私は————ミラ=ハークスは、本当に貴女と共に戦ったのでしょうか——
あんなにもすぐ側にいた筈の貴女の姿が、性格が、声色が。何も……何も思い出せない……何も覚えていない——っ。
アーヴィンで共に過ごした貴女の姿を——確かに覚えている最近の貴女を疑ってしまう。こうではなかったと否定してしまう。それに……
「……? ミラちゃん? どうかした……? 顔色……やっぱり悪いよ……?」
「…………少し、馬車に酔ってしまったみたいで……」
————あの少年の名を呼ぶ時、貴女は私には見せない楽しそうな顔をするのです。
それは——私よりもずっと、彼の方が付き合いが古いからでしょうか。
魔王を倒す為に命がけの旅を共にした私よりも、ただ少し古くから付き合いがあるというだけの彼の方が————ッ。
胸の奥の方がジンジンと痛んだ。
焼け付くようなその感情を、私はかつて一度抱いている気がする。
けれど……その記憶はどこにも無い。
私の記憶にも、私の記録にも——どこにも————
「——久しいな、ハークスよ。それにマーリン殿。話は伺っております。先代も既にこの街に……私の屋敷に待機しております」
「ああ、ルーヴィモンド翁。翁自らお出迎えとは。また背が伸びたね、まだまだ成長期だ。けれど……ちょっと細過ぎるよ。
魔術の研究も良いけど、少しは外で体を動かしたまえ。君の健康は術師界の未来に関わってくる」
恐縮です。と、少年魔術翁は頭を下げた。
魔術翁ルーヴィモンド。私は……やはり、彼についての記憶も朧だ。
その在り方、目指すところ、見習うべき点。多くを覚えているようで、しかし重大なことを忘れてしまっている気もする。
けれど、そんなことは今の彼には関係無い。
少年翁はマーリン様を案内して、相変わらず人の姿なんて見えないクリフィアの街を進み始めた。
「……しかし、マーリン殿。例の話……とても正気とは思えませぬ。術の最奥に至る道がそこにあるとも考え難く、そのようなことをどうして……」
「あはは、相変わらずだね。言ってるだろう、僕は魔術を極めたいわけじゃない。魔術はあくまでも手段、僕の目的は人々の幸福。そういう考え方……君も持ってる筈だけど?」
問いを投げ掛けた筈が、逆にマーリン様に問いを投げ返されて少年翁は閉口した。
そう、このふたりはよく似ている。今ある記憶だけでもそう確信出来る程に。
マーリン様は、あらゆる方法を以ってこの国を——この世界を平和なものにしようとしていらっしゃる。
それが先代の勇者様との約束なのだと、彼の望みだったのだと。
そして……ルーヴィモンド現翁は、魔術師の墓と成り果てたこの街の再生を目論んでいる。
しかし、彼には魔術と錬金術しかない。
それだけを教えられ、それだけを求め、それだけを極めたのだから。
故にこのふたりは、全く違う方法で同じ結果を求めようとしている。
そんな答えを、私はひどく遠いところから眺めるしか出来ない。
「戻ったぞ、ノーマン。先代を連れて参れ。魔導士殿の到着だ」
「あはは……魔導士殿、ね。そろそろ君に抜かされててもおかしくない頃なんだけどな」
ご謙遜を。と、ルーヴィモンド翁は笑った。
マーリン様の実力は誰もが認めるところだ。それは当然、この魔術の集うクリフィアの長である彼も同じこと。
知識も保有する魔力量も同等、しかし経験と特別性においてマーリン様は彼の上を行く。
勇者の一員として戦った経験値と、魔女としての異端な能力。
いかな少年翁と言えど、まだマーリン様を上回る程ではないだろう。
「ばっはっはっ! 随分と遅かったな、マーリン。あと半刻遅ければ、儂の方から出迎えに行っておったところだ。ばっはっはっ!」
「久し振りだね、マグル。しかし相変わらず自分勝手なことばっかり言って、僕にだって都合があるんだからな。手伝ってくれるのはありがたいけど、好き勝手はしないでくれよ?」
何度か訪れたことがある筈の、このクリフィアの長の屋敷の中で。私はビリビリと背筋を痺れさせながらゴクリと唾を飲んだ。
大魔導士マーリン。クリフィア現翁ルーヴィモンド。初代魔術翁。
そして現翁の付き人であり、これもまたクリフィアの中ですら飛び抜けた実力者である錬金術師ノーマン。
私だって肩書きは負けてないつもりだけど、落ち目であるハークスの当主は、この場所には少し似合わなかった。
おそらく、今この国で十本の指に入る腕利き達が目の前にいる。
いや、特にふたりの翁とマーリン様については、世界という想像も出来ない範囲ですら……っ。
旅の間には理解していなかったのか、それとも……失った記憶の中に、この人達を前に怯まずにいられる理由があったのか。
分からないけど……昔のように振る舞うのは、今の私には不可能だった。
「……さて、そんなに待ちわびていてくれたなら話は早い。行こうか、マグル。すまないね、ルーヴィモンド翁。ちょっとこの問題児を借りて行くよ」
「…………くれぐれも無理はなさらぬよう。貴女は先程、私の健康を気遣って下さった。しかし、貴女の健在こそ我々術師にとっての幸福だ。
どうかくれぐれも……くれぐれも無理はなさらぬように」
ありがとう。と、マーリン様は笑った。そして、先代魔術翁を連れて屋敷を後にする。
随分と和やかに話が進んだが、ひとつ歯車がズレていれば厄介な論争が起きていたところだ。
マーリン様の無欲さと言うべきか。術師でありながら術の最奥を求めないという、他の術師と食い合わない特性が功を奏したのだろう。
魔術翁は屋敷を出るなり無貌の結界を身に纏い、そして私達の少し後ろに付いて歩き始めた。
「相変わらずだな、マグル。ま、顔隠しは仕方ないにしてもさ。一緒に並んで歩くくらいはいい加減慣れなよ」
「……ばっはっは。すまんな、そういう性分だ。百余年そうしてきたのだ、今更変わるまいよ」
ちょっとだけ離れた距離にも臆せず、マーリン様も魔術翁も和やかに会話を弾ませる。
そしてまた馬車へと乗り込んで、再び王都を目指す進路に戻った。
かつて通った道……だった筈の、何も覚えていない景色を追い越しながら。




