第六十六話
昼を過ぎて間もない今、僕は三度目となる屋敷への訪問を試みていた。目の前の大きな扉、隣のちんまいミラ。そして中には恩を受けたノーマンさんとあの少年が待っているのだろう。正直な話、もう帰りたい。
「じゃあ行くわよ! たのもー!」
「たのもーって……す、すいませんお邪魔しまーす!」
ノックの一つもせず力強く扉を押しあけるミラの勇ましい挨拶に、急いで僕も謝罪を挟み込む。事情を知らない少女は横目に睨んでくるが、そもそも厄介になったのはお前だ!
「……三度目だな。そろそろ学習してはどうか」
「すいません……本当にすいません…………」
声はまた奥から聞こえた。今朝と同じ様に、ノーマンさんは奥の扉から姿を現した。本当に申し訳無いのだが、このバカ娘に付き合っていただきたい。などとは口が裂けても言えない風格のある男は、ミラを見てから僕の方に視線を戻して少し頰を綻ばせた。
「どうやら、何事も無かった様だ。いや良かった」
「その節は本当に……お騒がせしました」
当事者は蚊帳の外の様な扱いを受けている事にご立腹で、説明を求められたのだが……なんと説明したものか。お前が全然起きないから心配で心配で、助けを求めてここへ駆け込んだんだよ。とは絶対に言えない、死んでも言うもんか。そんなこっぱずかしい事言うくらいならもう一回鉄拳喰らう方がマシだ。
「して、此度は何用か。まさかとは言わんが礼をしにきたなどと、そんな殊勝な顔には見えんが如何に」
「勿論、キッチリお礼しに来たわよ」
本当に申し訳ない! ギラギラした目付きで、ミラは挑発交じりに拳を構えてそう言った。知らないとは言え、人はここまで失礼な態度を取れるものだろうか。
「なんだ。また其方か、ハークスの娘よ。なにやら随分と息巻いている様子だが……よもや、余に一宿一飯の礼を。などと、ようやく弁えた行動が取れる様になったわけでもあるまいな?」
さっきノーマンさんに言われたような事を、今度は頭上から言われてしまった。少年が今朝の事を知っているのかは分からないが、もし知らないならお前にそんな事を言われる筋合いは……全然ある! ご馳走様でした! ご飯美味しかったです! あと、一宿二飯です! ごっつぁんです!
「見下してんじゃないわよお坊ちゃんが! 昨日の借り、利子付きで叩き返してやるから降りて来なさい‼︎」
本当……ちょっと一回黙ってくれ! どんどん顔が険しくなるノーマンさんに、僕はひたすら頭を下げ続けた。心臓が保たない……これ以上のハラハラは心臓が……
「……元気になった様で何より。だがそれ以上は看過出来ん。また叩き臥されたいと言うなら話は変わるがな」
「……上等!」
この脳筋! 頭良いんじゃないのかお前は‼︎ いつも通り戦闘態勢に入ったミラは、全身に青白い雷光を纏い出す。だがそれは昨日破られた技だ。二つの意味で僕は不安を募らせる。
「……むっ‼︎」
さっきまでとは違う、怒りや呆れでは無い真剣で集中した顔付きになったノーマンさんの周囲に、黄金色の渦が巻き起こった。ソレが彼の引き起こしたもので無いと理解するのは、ミラが唱えた言霊を聞いてからのことだ。
「雷雲の揺り籠!」
破裂音にも似た、空気に無理矢理通電した音が響く。ヒラリと身を翻したノーマンさんのすぐ側に一瞬三角錐を描くように雷が光った。そしてそれが戦いの火蓋を切り、少女と男は目にも留まらぬ速さで接近し、互いに互いの拳を避けながら必殺の一撃を撃ち込もうと拳を振り抜いた。
「昨日とは……成る程。今朝も思ったが、魔力の枯れた姿は、あくまで昨日限りだった……と」
「……舌、噛むわよ?」
すぐさまミラは二撃目、体を一回転させての後ろ回し蹴りを放つ。半歩下がりながら上体を反らして躱すノーマンさんに、第三、第四の攻撃が飛びかかる。足払い、ローキック、視線を下げてからの顔面を狙った蹴り上げ、その勢いのまま踵落とし。クルクルと演舞でもしているかの様に回りながら、彼女は無数に蹴りを放った。しかし、それらが彼の体に届くことは無い。全てすんでの所で躱され、いなされ、弾き返される。だがどうだろう、押しているのはミラの方に見えた。
「……くっ! なんだお前は。魔術師でありながら格闘家の様なその熟達した武術。その成り立ちは大いに矛盾している!」
「あら、アンタも似た様なもんじゃ無い! それだけの錬金術師が、私を相手してまだ立ってる方がどうかしてると思うけど⁉︎」
バチッと彼女の髪が一層強くスパークした。そして僕は彼女の姿を見失う。ああ、そうか。彼女が押している様に見えたのは、彼女にまだ余力がある事を知っていたからだ。魔獣の群れを蹴倒す彼女の姿を、僕は一度として目で追い切れたことは無い。僕の目に見える戦いなど、彼女にとってはウォームアップでしか無かったのだ。渾身の蹴りがガードの上から男の体を吹き飛ばす。
「降参なさい。そしてメズ……いえ、あの人達を解放しなさい! あんた達を叩きのめしてでも、私は彼らに自由を与えるわ!」
仰向けに倒れていたノーマンさんは、彼女のその言葉に顔色一つ変えず立ち上がった。そして、まだ戦闘の意思は捨ててなどいない。と、拳を握り直す。ミラは更に出力を上げて彼に飛びかかった。
「ぐぅッ‼︎ それならば尚更引き退るわけにはいかんな! この街は翁の治める魔術の街、クリフィア! 決して余人に荒らさせて良いものでは無い‼︎」
彼は立ち上がった。何度蹴飛ばされても、何度膝をつこうとも、彼はミラの前に立ちはだかった。ミラも息が上がって来た。それは決して疲労からだけでは無いのだろう。僕は……僕には一つの確信があった。
「……なんで……なんでまだ立ち上がるのよ。そこまで人体実験が大事⁉︎ 誰かを虐げてまでして到達した極地で、一体誰が幸せになるっていうのよ‼︎」
「…………ごほっ……それでも、守らねばならぬ。この街を……魔術の礎を……」
男はなおも構え続けた。もうミラの電撃を絶縁し切れていないのか、痺れた様に不自然な動きで、握れもしない拳でミラと向き合い続ける。ミラは……
「——もう良い。退がれ、ノーマン。これより先は余の仕事じゃ」
ガチャリ。と、奥の扉がまた開いた。背の高い——そしてその高い背に負けぬ程長い杖をついた細身の少年。翁と呼ばれているこの街の長が、遂に全貌を現した。膝をつき、涙を流しながら謝るノーマンさんを、彼は一瞥もくれずに労いの言葉をかける。もう良い。もう良いのだノーマン。と、彼は震えるミラを睨みつけて言った。
「……ハークスの娘よ。決着は一撃で着く。だが、どうあっても貴様はその望みを叶える事は出来まいよ。それでも構わぬと言うなら……良い。クリフィアの長老として——このマグウェラ・ルーヴィモンド、立ち会いに応じよう」
少年は杖をミラに向けて構えた。ウィザードらしい、杖を使う魔術師の様だ。僕が知っている魔術師は基本的に蹴ってばかりいるから……
「……では行くぞ! 玉響の——」
決着は一瞬の事だった。ミラの鋭い蹴りが、旋風を巻き上げながらルーヴィモンド少年の首元寸前でピタリと止まった。唱えかけた言霊を飲み込んで、少年はその場にへたり込んでしまう。ミラは……僕達はこの高位魔術師と錬金術師に勝ったのだ……ろう。
「……すまぬノーマン、負けてしまった。しかし娘よ。何故蹴り抜かなかった。余を殺せば、貴様の願いも或いは叶ったかもしれぬと言うのに」
「……殺しはしないわよ。この街の人にはアンタが……長老が、統治者が必要なんだから」
ミラはそう言って足を下ろす。そして、浮かない顔で僕の元へと歩いて帰って来た。どうやらまたおんぶの旅、とはならなくて済みそうだ。
「…………ミラ=ハークスよ。今日もまた宿で休んで行くといい。魔力を随分と消費しただろう。旅を続けるのであれば、それは命取りになろうと言うもの。明日の朝、貴様らの立ち会いのもとメズ達に解放宣言をしよう。ここに約束する」
そう言った少年と、少年に寄り添われる格好で膝をついている男にミラは頭を下げて屋敷を飛び出した。僕も一礼して……ありがとう、ごめんなさい。言いたかったその言葉を飲み込んで、彼女の後を追った。ひどく胸騒ぎがする。ミラのことじゃない。何か別……分からない。
「……ミラ!」
ミラは宿屋の前で立ち竦んでいた。今度は僕を待っていたのではない、いやもしかしたら僕を待っていたのかもしれないが……昨日食卓で見せたあの可愛らしい行動とはワケが違うのだろう。きっと彼女も悩んでいるんだ。
「…………これで……良いのよね? 彼らの人権を、自由を取り戻せた。私達は……彼らの為に……なれるのよ……ね?」
それは彼女にとって初めての経験なのだ。何かを手に入れる、成し遂げる為に。魔獣ではない、他の人間を押し退け、願望を押し通すと言うことが。僕は……彼女の問いに答えることが出来なかった。