第三十一話【ターン】
側にいてあげて。マーリンさんは僕にそう残して、部屋を後にした。
自分よりも僕が共にいる方が良いと、例え記憶が無くとも僕と一緒にいる方がミラにとって良いのだと。そんな願いみたいな感情が、寂しそうなあの人の表情からは窺えた。
「……ミラ……っ」
なんで……っ。なんでお前がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ……っ。
分かってる。それは……それらはかつてのコイツを蝕んでいたものと同じだ。
マーリンさんに言われてみれば、成る程その兆候は当時から見えていた。
ガラガダに行く前……まだ、別々の部屋で眠っていた頃。アイツは必ず僕よりも先に目を覚ましていた。
食事も普通の女の子と同じか、それよりもやや少ないくらいの量で満足していた。
レヴについての怯えは……今更何を考えるまでも無い。
ぎゅっと手を握って、気付いてやれなかったことへの後悔を深め続ける。
「…………アギト……さん……?」
「——っ! ミラちゃん!」
握っていた手が弱々しく握り返されて、そしてミラはゆっくりと身体を起こした。
まだ——っ。不意に大きな声が出そうになって、咳払いひとつして落ち着いたフリをする。
まだ横になっていた方が良いよ、と。けれど……
「すみません、私……ご迷惑をお掛けしました。ちょっとだけ……えへへ、疲れが溜まってたみたいで」
「……っ。なら、尚更無理はいけないよ。ほら、横になって」
そういうわけにもいきません。と、ミラはふんふん鼻息を荒げてすっかり起き上がってしまった。
私は元気ですってアピールするみたいに、僕の手をぎゅっと握り返して。
「…………ごめん……ごめんね、ミラちゃん……っ。俺が……無理させ過ぎた所為で……っ」
「いえいえ! 無理なんてそんな……アギトさんには、むしろいっぱい助けて頂いて……」
僕の所為で……っ。
僕があの時、もっと良いやり方を思いついていれば。死んでさえいなければ……っ。
あの冒険の後を、そのまま地続きて過ごせていたなら……お前はきっと、今も元気でいられた筈なのに……っ。
精神的な負荷が原因だと言うのならば、先の召喚での最期もかなり影響している筈だ。
本当はどこまで覚えているんだろう。
僕は……あの時で本当に意識が完全に途切れていた。
でもミラは……或いは死の瞬間まで意識が残っていたんじゃないのか……?
自己治癒の力があるミラなら、多少身体が悪くなった程度じゃ死んだりしない。
だから……コイツは、本当の本当に渇いて死んでしまうその時まで…………
「ミラちゃん、無理しないでね。俺は大してアテにならない、信頼出来ないかもしれないけど。でも……それでも目一杯頑張るから、頼って欲しい。
マーリンさんだっている。君のことを大切に思ってる人は、この国には大勢いるんだ。だから……本当に無茶だけは……」
「……大丈夫ですよ。それに……大切に思ってくれている人よりも、期待して下さっている人の方がずっと多いですから。だって私は……」
マーリン様に見出された勇者なんですから。ミラはそう言ってベッドから立ち上がった。
まだフラフラしてて、血色も随分と悪い。
それなのに……僕に弱っている姿を見せまいと————勇者として頼もしい姿を見せようと……
「大丈夫だよ、この部屋には俺しかいない。俺は君の兄弟子で、君よりも大人なんだ。
けれど、マーリンさん程かしこまらなくちゃいけない相手でもない。
だから大丈夫だよ、ちょっとくらいは弱音を吐いたって……」
「……いえ。私は勇者なので。決めたんです、旅をしている間に。
まだその時は勇者様の力も完全には覚醒していなくて、それに魔術も今よりずっとずっと下手でした。
それでも……決めたんです。あの方の……マーリン様の理想の為に、あの方と共に戦うのだと」
ああ……知ってるよ、それも。全部知ってる、それは…………それらは全部、僕の前で口にした言葉なんだ……っ。
僕と一緒に過ごして、考えて。そして辿り着いた……っ。ふたりできっとやり遂げてみせるって————
「——まだまだ半人前ですが、必ずやり遂げて見せます。たとえひとりでも、絶対に。そう誓いましたから」
「——っ。そう……だよね」
————一緒に交わした約束さえ——今はお前を縛る呪いでしかないのかよ————っ。
違う……違った筈だ、そうじゃなかった筈だ。
僕達はふたりで勇者になるって……っ。
マーリンさんの教えてくれた理想に至る為に、ふたりで力を合わせて勇者になるって…………っ。
ミラは僕に頭を下げると、仕事に戻りますので、これで。と、急いで部屋から出て行ってしまった。
きっと神殿に戻るんだろう。違う……それも……違うんだよ……っ。
「……お前が仕事をする場所は…………そっちじゃなかっただろ…………っ」
そこには何も無い。
何も……アイツの心を満たしてやれるものは残ってないんだ。
レアさんも、神官さんも、ダリアさんも。
お前の家族が、お前を愛してくれていたって証明は……まだ、そこには…………っ。
「……アギト。ミラちゃん、神殿に戻っちゃったんだね」
「…………マーリンさん……っ。俺…………俺じゃあアイツを……っ」
諦めないで。と、マーリンさんは沈痛な面持ちでそう言った。
そしてすぐにゴメンと頭を下げて、バシバシと自分の頰を叩いた。
「さて、これからの予定を決めようか。勿論、最優先事項はあの子の記憶を取り戻すこと。けれど……説明した通り、今回の召喚は非常に危険だ。
うっかりなんかで君達を再び失いでもしたら、今度こそ僕はどうにかなってしまう自信がある。
まずは精神をしっかりと安定させること……つまり、どこにも切り替わることなく、この世界にアギトという存在を強く確立させることが肝要だ。
だから、少しの間召喚の準備期間に入る。その間に……」
より確度を上げておこう。マーリンさんはそう言って僕の側までやってきた。
さっきまでミラが寝ていたベッドに腰掛けて、そして僕の手を握って……
「…………こんなに冷たくなっちゃって。バカアギト……あんまり抱え込むなよ」
「…………俺は……俺はアイツに何をしてやれるんですか…………」
マーリンさんは黙ったままだった。
黙ったまま……握っていたのとは別の手で、そっと僕の頰に触れた。
こくんと小さく頷くと、彼女はつらそうな表情から、決意を固めたあの頃よく見たかっこいい姿へと転身する。
「王都へ行こう。この街にも設備はそれなりに整ってるけど、やっぱり一番はあそこだ。
ずっとずっと……かつての戦いの後からずっと積み上げてきたものがあそこにはある。
まず、召喚術式の精度を上げる。より長い時間君達が活動出来るように、より安全な召喚を行う為に」
「王都に……っ。分かりました」
それがアイツを救う最善手だと言うのなら、何処へだって行ってやる。
ぎゅっと手を握り返して頷くと、マーリンさんはやっと少しだけ笑って……僕のことを抱き締めた。
何度も何度もごめんねと繰り返しながら、かつての旅の間に培った僕達の縁を確かめるみたいに。
「さて……じゃあ今すぐ出発! なんて……そういうわけにはいかないからね。どこかのやんちゃなふたり組は、何も考えずに歩いて出発したらしいけど。流石に今の僕達でそれをやる訳にはいかない」
「うぐっ……ま、まあ……あの時に比べたらミラもボロボロですしね。マーリンさんもいるとは言え……」
一応、あの時のアイツは、督促状こと霊薬でほぼ完全回復してたからな。
マーリンさんの加入を鑑みても……………………マーリンさんが加わったなら、あの時の数倍強いんじゃね……?
少なくとも、魔獣を相手にするのなら、この人より適任なんて思い当たらない。
フリードさんはあの時言った。マーリンさんは一対一で強敵と戦うのには向いてない……そういう想定をしていない……と。
けれど……今のマーリンさんと渡り合える魔獣なんて……
「よし、じゃあ今日は寝よう。フィーネにお願いして、王都に手紙を届けて貰うからさ。馬車と人を呼んで、出来るだけ楽に行こう。
歩き回るのって楽しいけど、流石にあの道のりをもう一度……ってのは、今やることじゃないからね」
「そうですね……長かったですから……」
馬車ならあっという間だ。と、マーリンさんはニコニコ笑ってそう言った。
まあ……その、なんだ。また……みんなでわいわい出来るなら歩いて行くのも……と、そんな考えも無くは無い。
けど……今は優先順位が違う。
あれは勇者としての素質を見て貰う為の、そして育てて貰う為のモラトリアムみたいなもの。
今は最優先で召喚の準備に取り掛からなくっちゃ。
「と、その前にだ。アギト、君には別行動をお願いしたい。と言うのも、行って欲しい場所があるんだ。
勿論、ひとりでなんて行かせない。うちの馬鹿どもの中でも、精鋭を選りすぐって護衛に着かせるとも」
「…………え。お、俺だけ別行動……ですか……?」
僕が王都に行かなきゃ意味無いし、ミラちゃんにも手伝って欲しいからね。と、マーリンさんはそう言って、あざとい仕草でごめんごめんと謝った。
か、可愛く言ったって許されないことは…………うぐぐ、逆らえん……っ。
しかし……はて、僕に行って貰いたい場所とな。
「僕らとは別の馬車に乗って、一度その場所を中継して状況を確認して来て欲しいんだ。
手紙も書いておくから、渡してくれればすぐに話も付くだろう。
これもまた、成功率を……と、そういう話じゃないから心苦しいけど。
ただ、絶対に良い方向に作用するのは間違いない。ついでと言ったらなんだけど……うん」
「……? マーリンさん?」
内緒にしておこう。と、勿体付けて、マーリンさんはまた僕に抱き付い…………ふぉおん……あったかい……髪の毛サラサラ……羽根もこもこ……天使の羽毛布団……
「あっ、こら。ふふ……くすぐったいじゃないか。折角だ、翼のブラッシングでもしておくれよ」
「ブラッシング。良いですけど……そうか…………そこも身嗜みに入るんだな……?」
これで優しく埃を落としておくれよ。と、毛の柔らかいブラシを手渡して、マーリンさんはくるりと背中を向けてちょっとだけ丸くなった。
大きくて立派な灰色の翼。
羽根の一枚一枚が銀色に淡く光っていて、それら全部がもこもこふわふわと……あふぅん。手触りめっちゃ良い……癒しグッズとして売ろう。換羽期にはそれだけで生計立てられそうだ。
「…………こっちもやって大丈夫ですか?」
「うん、お願い。あ、やりにくかったら服脱ごうか?」
脱ぐんじゃないよ————っ! べ、べべべべ別にそういうなんか下心とかがあった訳じゃなくてだな⁉︎
こっち……というのは、左の翼。
根元からバッサリと切られてしまって、十数センチしか残っていない失われた片翼。
それでもしっかりと翼の面影を残していて、羽根も変わらずふわふわで……
「……痛くないですか? くすぐったくないですか? アイツの髪に櫛を入れてやったことはありますけど……」
「あはは。まさか魔女の翼にブラシを掛けるなんて、そんな経験がある男がいてたまるかよ。
大丈夫、上手上手。強いて言うなら…………アギト、いい加減慣れなよ……別に触っても良いよ、肩とか背中くらい……」
だ、だって……っ。
翼が生えている都合仕方ないんだけど、マーリンさんの服…………背中が…………ふう。
いえ、そんな……いえいえ、性的な目で見たりとかしてないですよ?
やっぱり天使みたいだなぁと思いつつ、着るもの不便だよなぁと思いつつ。
いえいえ。セクシー過ぎて目のやり場に困るとか…………そんなの、ねえ。八割くらいしか思ってないですよ…………っ。
「ふふ……ああ、気持ち良い。こんなの人に頼む日がくるとはね。ミラちゃんの記憶が戻ったら、あの子にもお願いしようかな」
「別に今のアイツだって……いえ。願掛けってことなら……まあ」
楽しみが増えたよ。と、マーリンさんは嬉しそうにそう言ってまた背中を丸めた。
もっともっと……か。いやアンタ……なんでミラに似ていくんだ、前から思ってたんだけど。
ミラもマーリンさんに似ていくし、マーリンさんもミラに似ていくし。
うーん……まあ、どっちも可愛いから良いけど。
結局やめ時も分からず、かといってやめたい理由も無かったので、僕はしばらくはそのままブラッシングを続けた。
具体的には…………いつまでやってるの……? と、マーリンさんに呆れられるまで……っ。
だ、だって……もう良いよとか言ってくれるものだと……




