第三十話【無】
頭の中が真っ白だった。
突然の出来事だったし、それに今までは一度も無かったことだ。
ただそれでも……不幸中の幸いと言うか、有事の際に真っ先に頼るべき人の顔と居場所は、頭に浮かんでくれていた。
「……うん、落ち着いたみたいだね。幸い頭も打ってないようだし、小さな打撲は自己治癒の力ですぐに完治する。すり傷切り傷は無いから、感染症の恐れも殆ど無いだろう」
ぐったりしたままのミラを抱えて、僕は一目散に役所へと——マーリンさんの所へととんぼ返りしていた。
アーヴィンにもお医者さんはいる。ガラガダから帰った後に一度お世話になっている頼もしい街医者だ。
あの先生もミラの事情を知っていたのか、はたまた知らなかったのか。
少なくとも、霊薬の存在とその副作用については理解していた……らしい。
何も知らない時に交わした会話の内容なんて、アテになる程鮮明に覚えてなんてない。
「さてと……しかし、恐れていたことが起きた……か。うん……これは困った」
「…………っ」
マーリンさんは優しげな顔で眠ったままのミラの頰を撫で、そしてすぐに眉間にしわを寄せて何か資料のような……カルテ……かな? 洗濯バサミみたいなクリップで纏められた五、六枚のA4サイズの紙を睨み付けていた。
「……ミラは……ミラはどうなってるんですか。ミラに……何が起きてるんですか……っ」
僕の漠然とした質問に、マーリンさんはバリバリと頭を掻いてため息をついた。返しにくい問いだっただろうか。
確かに曖昧模糊な問い掛けだったが、マーリンさんならそれでも……いつだって僕の言いたいことは理解してくれた彼女なら、こんな子供みたいな要領を得ない質問にだって……
「……マーリンさん……っ。何か……何か言ってくださいよ…………っ。ミラは……いったいどうしちゃったんですか……」
それでも……マーリンさんは黙ったままだった。
答えを持ってる筈だ。でなくちゃもっと慌てふためいているだろう。
答えを持っているからこそ、冷静に目の前の事実を分析している筈だ。
だと言うのに……その答えを僕に教えてくれないのはどうしてなんだ。その答えを僕に教え難いのは…………っ。
「…………お願いします、マーリンさん。教えてください……ミラの身に、いったい何が……」
「………………ふー。そうだね、君には知る権利がある。家族だものね、当然だ。けれど同時に……目を背けてはならないという義務もある。覚悟は良いかい」
覚悟なんて……っ。
僕にとって、ミラの幸せよりも大切なものなんて無いんだ。
誰よりも憧れた英雄。誰よりも愛した家族。誰よりも大切にすべき恩人。
ミラの身に降り掛かる不幸の正体も知らないで、いったいどうしてこいつの隣に居られると言うんだ。
早く——と、急かすように、僕はマーリンさんの問いに何度も何度も頷いた。
「……まず、先に確認をしておこうか。先日君達を召喚した世界……ふたりが原始的だと評した世界で、間違いなく不便を強いられただろう。
そして……その打開策として、慣れ親しんだ魔術や錬金術という技術に頼った筈だ。
アギト。君なら……その時点で既に、いくつかの違和感を覚えていたんじゃないのかい?」
違和感……そうだ、その通りだ。
アイツはあの時……植物を薙ぎ払って視界を確保しようとした時、改と付け加えた可変術式を展開してみせた。
そしてそれは……本来であれば、今現在のアイツには必要の無い追加詠唱だった。
それの主な効力は魔力の節約、出力の低減だ。
アイツはその時、威力を出し過ぎて焼け野原にしない為に……と、言い訳をした。
そして僕もそれを受け入れた。
魔力消費を抑えた方が都合が良いだろう。どれだけ消耗する羽目になるか分からない内は、節約出来る所は渋っていこう。
そういう勝手な解釈を付け加えて、アイツの異常な行動から目を背けてしまっていた。
「……話せ。この子が見せた、本来ならばあり得なかった行動の全てを。君なら幾らでも気付いた筈だ。気付いて……けれど、それをどうにも出来なくて。諦めた謎がいくつもある筈だろう」
「…………っ。あの時ミラは……」
そうだ……僕は諦めて目を背けたに過ぎなかったんだ。
ミラの中に僕への信頼が……かつての絆が無いのだから、と。
一歩踏み込んで、この事態を避ける努力をしなかったんだ。
そうだよ……っ。一番大切なミラのことなのに……今のミラがどうなってしまっているのかを知るのが怖くて……
「……魔力消費を抑えることに躍起になっているように思えました。単に魔術を使えるケースが少なかった……って、その時は勝手に納得して。
でも……冷静に思えば、それはおかしな話で。ミラは魔術や錬金術が大好きで……」
大抵のことはそれらで解決しようとする、解決出来るだけの能力がある。そういう奴だった。なのに……っ。
「それだけじゃない……アイツはロクに飯も食わないで、夜も殆ど寝ないで。
その時は……俺に気を使ってるのかなとか、見知らぬ世界に警戒心を強めているのかな……とか……っ。そんな理由付けをして……」
「……以前のミラちゃんのイメージを勝手に貼り付けて、そしてひとりで納得してしまっていた、と。
らしくないね、本当に君らしくない。けれど……その君らしくなさが、同時に君らしいとも言えるのかな。
ミラちゃんを……かつてのミラちゃんを大切にし過ぎて、変わってしまった今のこの子を受け入れられてないんだ」
ズキンと胸の奥が痛んだ。
そうだよ……その通りなんだよ……っ。
アイツは記憶も無いのに、変わらない笑顔を僕に向けてくれていた。
あの頃のままの姿で、あの頃と同じくらい眩しく輝いていた。なのに……っ。
「…………僕も君を責める権利は持ってない。僕だって……目を背けてきたことがいっぱいある。だけど……っ。
アギト、これから僕達は一緒に罪を背負う。もう一度聞くよ。覚悟は良いかい」
「……はい。俺に背負えるものなら……いや。俺には背負いきれないものでも、絶対に……」
マーリンさんはコクンと小さく頷いて、そしてもう一度だけミラの様子を確認して話を始めた。
ひと言ひと言を口にするだけで、凄く苦しそうに見えた。
「……まず、ミラちゃんを蝕んでいる病について端的に説明しよう。
ひとつ、この子は不眠症に悩まされている。ただ眠りが浅いなんて軽いもんじゃない、酷い時には三日間程一睡も出来ないこともある程だ。
比較的穏やかな時でさえ、日に数十分の仮眠だけで生活しているよ」
「…………不眠……っ。やっぱり……やっぱりどっかおかしかったんだ……っ。アイツ……見張りをしてたんじゃなくて…………」
眠りたくても眠れなかったんだ……っ。
変わってしまったこととして、ただそれを受け入れたフリをして流してしまっていた。
そして……まずひとつという言葉に、あの世界で見たアイツの異変が次々に浮かび上がってくる。
「ふたつ目は摂食障害。これも理由は殆ど同じ…………いや、睡眠不足で身体がボロボロだから……というのが理由になるのかな」
「摂食障害……それって……」
ご飯を少量しか食べられない、或いは全く食べられない状態になってしまっている。と、マーリンさんはぎゅっと拳を握ってそう言った。
肩を震わせているのは、アイツに対する哀れみなんかじゃない。きっとそれは……自分に向けた激しい怒りなのだ。
「……大きく分けると、次のを含めて三つ。他にも細かいのはあるけど、結局どれもこれらに由来するからね。
さて……その三つ目だけど……っ。初めてキリエで僕と出会った時とよく似た症状。
この子は今、魔術の行使に対して強い嫌悪感を抱いている。
それも、あの時の無自覚によるものとは違う。本人の意思によって避けようとしている」
「……魔術を……嫌いに……?」
それって……っ。
魔術、錬金術。それらはアイツが、心の隙間を埋める為に打ち込んできた分野だ。
アイツにとっては、逃げ込める数少ない安全地帯だった筈だ。それが……
「…………全部、元の理由はひとつだよ。ミラちゃんは今、ミラ=ハークス=レヴという内なるもうひとつの自分に怯えて生きている」
「……ミラが…………また、レヴに……っ」
でも……でもそれは、あの時レアさんによって……っ。
第一階層で起こった奇跡の再会。ミラはそこで、レヴとの……ハークスの過去との因縁を払拭した筈だった。
いや……よしんば払拭しきれていなかったとしても、それを苦に立ち止まってしまう奴じゃなかった。
その苦境はとっくに乗り越えていた。それなのに……
「元々持っていたらしいんだ、睡眠障害については。この街の医者に尋ねた所、少なくともかつての冒険よりも前……君と出会うまでは、ロクに眠れない日々を送っていたらしい。この理由を……或いは君なら知っているんじゃないのかな」
「……っ! そうだ……アイツは……レヴは、ミラが眠っている時に……」
かつて魔弾に細工した時のように、レヴはミラの入眠を見計らって活動していたことがある。
自分の意識と記憶には残っていない行動の痕跡が、自分の身に起きている。
かつてゴートマンの研究所にてレヴが目覚めた時、群青色の髪飾りを巡ってアイツは酷く取り乱したことがある。ミラは……また……
「皮肉にも、あの時レア=ハークスによって完全に解放された内なる力が、もうひとつの人格をより強く意識させてしまっている。
そして……そうなってしまっている原因。それは……君だよ、アギト。
君との思い出を失って……心休まる居場所を失って、ミラちゃんはまた強い孤独感との戦いを強いられているんだ。
いや……以前よりもずっと状況は悪い。
祖父と姉の安否はまるで分からず、君という理解者のことも忘れてしまっている。
最悪も最悪……あの子にとって現在は、生まれた時の義務感さえも失った、完全なる無の闇の中にある」
「…………っ」
生まれた時の義務感……僕を——召喚されたものを守るという、レアさんとの約束さえもアイツには残っていないのか。
僕にはその苦しみがイメージし切れない。
けれど……かつてのアイツの苦しみ方を思えば、それがどれだけの負担になっているのかくらいは…………
「……なんとかする方法って…………」
「…………一刻も早く記憶を取り戻してあげることだけだ。ただそれだけが……もう一度この子が壊れてしまう未来を防ぐ、僕達に選べる唯一の方法だ」
ぎゅっと下唇を噛んで、マーリンさんは俯いたまま震えていた。
また……また、お前はそんなにも苦しい場所に……っ。
たった一度の失敗。勝手の分かっていなかった状態に加えて、余りに理不尽過ぎる終焉だった。と、そんな言い訳が渦巻いていた頭の中に、焦燥感がボコボコと湧き上がってきた。
急がないと……急いで、そして確実にコイツの記憶を……っ。




