第六十五話
宿に戻ってもう少し寝かせてやるといい。ノーマンさんの言葉に従って、僕は飛び出した部屋にまた戻ってきた。そして、すっかり眠り姫と化したミラをまたベッドに寝かせて一息つく。まったく……
「人騒がせなやつだよ本当」
眠っているだけ。そう聞いたからだろうか。いや、僕が見落としていただけかもしれない。よく見れば幸せそうな、穏やかな寝顔をしているではないか。いつもこんな顔で眠っているのだろうか。僕はそうであることを願うだけだ。しかし、全く起きる気配が無いというのも考えものだ。散々揺らしたし、大声もあげたし、冷たい診察台にも乗せたし……
「…………まさか……な」
さっき助けを乞うた相手を勝手に疑い始める脳の仕様が憎い。違う。彼はそんなことをする人間ではない。少なくともノーマンさんは、翁少年(?)は別としてもあの男はそう言う人間ではないと感じたし、そう信じたい。だが、一向に目覚める気配の無い少女に不安は募る一方だ。
「……ミラ…………」
名前を呼ぶ。手を握る。体を揺する。それでも何も反応は無い。不安の隙間から僕の頭に囁きかけてくる声が、悪魔の言葉が聞こえた。
『……今がチャンスなんじゃあないのか? 昨日の朝の事、忘れたわけじゃないだろう?』
なるほど。悪魔の言う通りだ。そう言えば……
「〜〜〜〜ッ‼︎ 違う! それは犯罪だッ‼︎ あくまで合法的にッッ‼︎」
僕は一人部屋の隅で転がり続けた。ええい余計なことを考えるな! 確かに昨日、僕は彼女よりも早くに起きて、まだ眠っている彼女を……グフフ、的な事を考えはしたが! 今はそんな事を言っている場合では無いだろう! 不謹慎ですよ! 大体もしそれで起きて仕舞えば、それはもう言い逃れのしようもない……
「……もしや……怒られるくらいで済むのでは…………?」
僕の頭は余計な時にばかり冴える。事の発端は、彼女が寝付けないと僕の布団に潜り込んできた事だ。ええ、抱き枕が欲しいとかじゃないですよ。つまり、だ。今彼女が目覚めた時、僕がすぐ側にいる事は別に不自然では無い。いや、むしろ必然と言えるだろう! いやいやいやいや待て待て待て待て! 発想が変態か犯罪者かの二択だ。そもそも子供だからってこんなに長い時間うんともすんとも言わない現状を心配すべき筈だ。いやしかし……
「お、起きてー……ミラちゃーん……よし、声はかけたからな」
僕は欲望に忠実に動くことにした。まだ開かない瞼を確認して、いそいそと彼女の隣に寝転んでシーツを被る。べ、別にやましい気持ちは無いんだからね! 起きた時に僕がいないと寂しがるかなって、気を利かせているだけなんだから!
「ぐふ、ぐふふ……いざ……」
向けていた背中を彼女から背けて、僕は眠り姫と向かい合う。いや、ほーんとうに全然起きないじゃないですか。まったくもって無防備過ぎる。無防備過ぎるミラが悪いんだぞぅ。
「…………まったく」
髪を撫でた。サラサラと、フワフワとした感触が手のひらを包む。僕に妹はいなかったが、もしいたらこんな感じだったのだろうか。現実の妹は兄に手厳しいと聞くが、まあそこは多少の事と目を瞑ろう。もう一度ミラに背中を向けて、僕は抱き枕の仕事に戻ることにした。ひひひひ、日和って無いわ! びびってもない! 僕の背中に離れていた体温がまた戻ってきた。
さて、もう日は中天に座しているのだが、ミラは一向に目を覚まさない。と言うか、今朝よりもがっちり僕のことをホールドして動くことすらない。おかしい。人はこんなにも長く眠ることが出来るのだろうか。どれだけ疲労を溜め込んでいたんだ。
「……そろそろ起きなよー……って聞いてないか」
僕はこの数時間の間に何回かけたかも分からない言葉を呟いた。ここまで来ると惰性な独り言でしかないのだが。
「……んん……もうちょっと…………」
バクンッと心臓が跳ねる。半日聞かなかっただけで彼女の声一つに異常に驚いてしまう。しかしなんて寝坊助な寝言だろうか。もうお昼なんですよ?
「ほら、もうお昼だよ。お腹すいたよ。ミラってば」
それでもミラは起きません。うんとこしょ、どっこい……どうせいっちゅうねん。腹が減れば起きるだろうか。何か……彼女の食欲を掻き立てるものは……思考回路が行方不明だな僕……
「ミラさーん。ミラちゃーん。ミラってばー」
なんとか寝返りをうって彼女の拘束から逃れる。落ち着いた状態で彼女と向かい合うと……うん。やはりまだ緊張する。目が大きいのは分かっていたが、じっくり見るとまつ毛も長いし……いかん、何を考えておるのだアギトよ。今は彼女を起こすことだけを考えておれば良い。
「…………ええい! 南無三!」
僕は鉄拳覚悟で彼女の顔を両手で鷲掴みにした。そして、それこそ犬でも撫でくり回すようにわしゃわしゃ撫で回したのだが……起きる気配はない。しかしこれは……変な趣味に目覚めそうだ。早く起きてくれ。
「起きろー。ミラー」
頰を引っ張ってみた。痛くない程度に引っ張ったくらいじゃ意味は無い。少し強く引っ張っても起きない。モチモチ卵肌には効果が無いと言うのか。
「ごーはーんーだーーぞーーー」
躊躇ってから首元をくすぐってみた。嫌がるそぶりは見せたが起きる気配はない。何か……何か無いのか。この際殴られてもいいから。そろそろお腹すいたんだ、僕も。
「……ええい! 起きろ! ミラ=ハークス!」
シーツを取っ払って思い切り体を揺すった。そういえば平然と体に触ってしまっている気がしたが……ええい今更! 起きろ! 起動せよ! ミラ=ハークス起動‼︎
「何か……何かないか。ミラが飛び起きるワード……いっそ呪文でも良い……」
本格的にノーマンさんに騙されている説が濃厚になって来る。いや、いやいや失礼だって! でも……あの人が僕たちを助ける理由なんて無いよなあ……いやいや。僕はミラの周りをウロチョロしながら考え込む。あの男を怪しむべきか否か……と。すると、そう言えばアレは試していなかったな。と、ミラの足が視界に入った。しからば……御免!
「……いざ」
直接触るのは気が引けたので……日和ってないわ! 女の子だし、そういうのは悪い気がしたので、シーツの端で彼女の足の裏をくすぐった。これは抱腹絶倒モンの必殺技だ! さあ起きろミラ=ハークス! いい加減起きて!
「…………嘘……だろ……? 足の裏の神経死んでんじゃないのか……?」
彼女は微動だにしなかった。ここまでくれば怖いものはない。膝、お腹、脇、首。擽り倒したが反応は無い。まさか死ん……っ⁈
「……ぜんっぜん起きない……ボロのPCだってもう少しすんなり起動するぞ……」
がっくり肩を落としてそう呟いた時だった。また犬撫での体勢で彼女の顔を鷲掴んでいた僕の目と、ばちっと開いたミラの目が合った。あまりにいきなりの事で僕は驚いて飛び上がって、急いで彼女から距離を取る。
「おっ、おおお起きたか! よし、もうお昼だ! そろそろご飯にしよう⁉︎」
誤魔化すにはあまりに無理があるだろうか。あんなに接近していたのだから、何か勘ぐられても……ち、違うからな! 決してやましい事は……ミラ?
「……不要です。ミラ=ハークス=“レヴ”、起床しました。ご命令を」
「…………ミラ……?」
あまりに無機質な言葉。いつもあんなにキラキラしている目にも光が無い。まるで人形の様に彼女は振る舞った。ゆっくり、本当にゆっくりと体をベッドから剥がすように起き上がり、その間も彼女は僕から目を離さずに……
「…………ッ⁉︎ ミラッ‼︎」
立ち上がろうとして、そのまま前のめりに倒れてしまった。少し離れていたのと、突然のことで反応が遅れてしまい、伸ばした腕が彼女を受け止める事は無かった。そのまま床に顔から倒れて行く……ああ……それは…………
「〜〜〜〜いったぁ‼︎ なに、なんなの⁉︎ アギト!」
「なっ⁉︎ お、俺じゃない‼︎」
痛そう……っ。いつも通りの子供みたいな声で、キラキラ光る目をしたミラが額を抑えながら飛び起きた。さっきのは……ガチで痛い……じゃなくて、さっきのミラは一体なんだったのだろう。
「…………なに? なによ……って嘘⁉︎ もうお昼じゃない‼︎ なんで起こさないのよ‼︎」
「起こしたよ! 散々起こしたよ! 身体中弄り倒してもまったく起きなかったのはおま……おおっと……」
余計な事を言ってしまった。彼女は散々運んだり揺さぶったり擽ったり。それからさっきのダイナミック起床のせいで乱れた着衣にようやく気付いてしまい……あの、違うんですよ? 殆どさっきのが原因で……ミラさん⁉︎
「〜〜〜〜ッ‼︎ バカアギト‼︎」
まあ……覚悟はしてたから。今朝も今朝とて鉄拳が僕の顔面を襲う。いえ、もうお昼なんですけどね……