第二十話【しとしと】
外はまだ小雨がパラパラ降っていた。
連日の雨に加えて、元々の地質もある。足元はとても心許ない状況にあった。
いつ滑り落ちるか分からない下り坂を、僕達は一歩一歩丁寧に進む。
「アギトさん、気を付けてください。この先、随分とぬかるんでいます」
「うん、分かった。この先……か……」
気を付けて。と、そう言ったミラは、すいすいと先へ進んで行く。
時折立ち止まって僕を待ってくれるが、ひとりだったならこの程度は苦にもしないのだろう。
この先とミラが注意した通り、数メートル先の土は随分と湿気を含んで見えるが………………ここまでも十分ぬかるんでたし、目一杯気を付けてたんだよ……?
「違う文明、違う文字。アギトさん、本当に間違い無いんですね?」
「うん、多分……って、本当はそう言わなきゃいけないかもしれないけど。でも……僕が見た限り、とても同じものには思えなかった。あの石版の物とは、明らかに一線を画していた」
結局の所、僕はあの文字群を解読出来たわけではないのだから。当然、違うものなんだろう。と、言葉を濁さざるを得ない。
けれど、少なくとも別の時代か、言語か、或いは…………かな文字と漢字のような関係だったとか、どちらかは数字を表していたのかも。
あれ、その場合は同じ時代の同じ文明の人が使っててもおかしくないのかな?
「とにかく急ぎましょう。また雨が強くなってもことですし、それに……」
「それに……?」
いえ。と、ミラは小さく首を振って、何か隠しごとを…………言い難い、言いたくない言葉を飲み込んだ。
今のミラの考えは、以前のようになんだって分かるとは言えない。
コイツは随分変わってしまっている。それは別に悪い意味じゃないんだけど……この時に限っては少し寂しい。
ずぶずぶと足が沈んでいくような最悪の地面に苦戦しながらも、僕達はまた渓流へと辿り着いた。
まだ……まだまだ川の水は増えたままだ。
それでも昨晩ほど流れは速くなくて、鉄砲水なんて心配は無さそうだ。無さそうだけど……
「…………っ。昨日のあの岩……もしかして川の中か……?」
僕が必死にしがみついたあの岩。よく考えなくてもあそこまで増水してきてたんだから、とっくに水底に沈んでいる……僕達じゃ手が出せないところに隠されてしまっている可能性が高い。
それに……あれだけ勢いがあったんだから、或いは何処かへ流されて……削られて…………
「……? アギトさん、これって……村で借りてきた物でしたよね?」
「うん? 村で…………ああっ! いっけねー…………忘れてた、そういえばここに置き去りにしてたんだ……」
ミラが見つけたのは、満タンとまでは言わないが、随分水の溜まった土器だった。
昨日邪魔になりそうだからとここへ置いていったんだ。
口が広い瓶だとは言え、降り注いだ雨水だけで容器は半分くらい満たされていた。ひと晩でどれだけ降ったんだ……
「丁度良いですから、水を汲んで帰りましょうか。なんの為に借りて来たか分からなくなってしまいますから」
「そうだね……いや、本当は昨日汲んで帰るつもりだったんだけど……」
僕の不用意な発言にミラはムッとした表情を浮かべて、もう二度と危ないことはしないでくださいね。と、釘を刺した。ご、ごめんって。
ミラは瓶をごろりと転がして中の雨水を捨てると、そのまま両手で持ち上げて河原へと足を踏み入れた。
ミラの頭が小さいのもあるけど、こうして見ると瓶意外とデカイな……ミラの頭一個半くらいはある。
いえ、リアルな話、ポリバケツとさして変わらないんですけどね? 素材の問題で結構重たいんだけど。
「……昨日アギトさんが居た場所……なんですよね。その文字が彫られた岩があったのって」
「うん……だけど……」
自分の足で近寄って、そして思い知らされる。やはりあの岩は……っ。
昨日腰を下ろしたあの場所はとっくに水の中、そして水面に顔を覗かせている岩はどこにも見当たらない。
こうなっては見つけようもないし、場所を覚えていても辿り着けそうにない。
「今日は引き返しましょう。水を汲んで、それから村へ行って。もし余裕があれば粘土を採りに…………アギトさん?」
「…………えっ? あっ、っとと。ごめん……ボーッとしてた。えっと……村へ行く……んだね?」
大丈夫ですか? と、ミラは甲斐甲斐しくも不安げな顔で僕の顔を覗き込んできた。
うん……大丈夫。大丈夫だけど……っ。
自分の能力の無さを痛感してしまう。
あの岩を持ち上げられる程の怪力があれば…………オックスやフリードさんだったなら或いは……って。
あの暗闇の中でも文字を覚えてしまえる程記憶力が良ければ……ミラやマーリンさんだったなら……って。
僕以外の誰かだったなら、きっとこんなことで手掛かりを失わなかったのに……って。そう思ってしまう。
「……アギトさん、行きましょう。雨が強くなる前に」
「…………うん。あ、瓶……持つよ。重たいよね」
大丈夫です。と、ミラはそう言って、水のいっぱい入った瓶をこれ見よがしに持ち上げる。
持ち上げるけど…………ありがとうございます。って、僕に任せてくれた。
空気の読める子になったね…………ううん、お前は昔から空気の読める子だったっけ。
一度地面に降ろされた瓶を、重たくて大切な飲み水を。僕は自分に出来る数少ない仕事を、絶対にやり遂げないと……なんて、ちょっとオーバーな決意を込めて持ち上げた。
重たかったけど……まあ、幾ら何でも人間ひとりよりは軽い。
いっつもミラのことおぶってたんだ、このくらいはなんてことないさ。
水を小屋へと運び込んで、僕達はそのまま村へと赴いた。
内心ひやひやしていた、だってあの増水っぷりだったし。
下流の方ではいったいどうなっているだろう。村が飲み込まれてました……なんてことになってないだろうな……って。
その姿をミラが確認するまで、ずっと気が気じゃなかった。けれど……
「おお、ふたりとも無事だったか。おはよう。随分とびしょ濡れだな、火に当たっていくと良い。あんまり冷えると身体を壊すぞ」
「ありがとうございます。大雨でしたけど、村は大丈夫でしたか?」
村には問題は起きてないんだけどなぁ。と、ミラの問いに村の男は頭を抱えてしまった。
何か別の場所に問題が……なんて、いちいち聞かなくったってその表情が物語っていた。
視線の先は砂浜……いいや、その更に先。海を見つめて、とても苦しそうな顔をしている。
「…………今は良い、食料の備蓄もある。けれど……作物はまだ収穫出来る状態に無い。だから……連日の雨で海が荒れて、このまま漁に出られないとなると……どうだろうな。あんなに激しい雨は滅多に無いから」
「……そうですか。食料、どのくらい保ちそうですか?」
十日は保つ。だから、余程のことが無い限りは平気だが……と、男は不安そうにそう答えた。
嵐に近い暴風雨……いや、そこまで風は強くなかった……のかな? 村の建物が倒壊している様子は無かったから、本当に雨の被害だけで済んでるみたいだ。
いや、済んでないんだけど、雨の被害もやばいんだけど。
幸いなのは、この村が川から離れた場所に作られていたことと、畑の水を貯水池で賄っていること。
つまり、あの雨によって致命的な打撃を受ける要素が少なかったことだろうか。
むしろ水を汲みに行く手間が減ってるくらいなのかも。
それでも漁に出られないのは痛いが、十日もあればさすがに晴れる。
梅雨にだって一週間ずっと雨なんて時は滅多に…………
「…………それじゃあ、失礼します。すみません、瓶はもう少しだけお借りしても良いですか? 晴れた日が来たらすぐに自分達で作りますから」
「ああ、良いよ良いよ。しかし……ふたりとも、本当に平気かい? 食べ物もロクに無い、水だって流れの急な所から汲まなくちゃいけない。山から降りて村で暮らせば良いのに」
その提案は凄く魅力的だなぁ。でも……うん、答えは決まってる。
ありがとうございます、ですが……と、僕達は頭を下げて、そして村を後にする。
そうだ、まだ……まだ何も分かっちゃいない。
この世界に訪れる脅威について、滅びの原因について。何も分かってない以上、出来るだけ迷惑を掛けないようにしなくちゃ。
ぬかるんで滑る泥に足を取られながら、僕達はまた小屋へと帰り着く。
照明も窓も無い、暗くて寂しい箱のような小屋に。
「…………ご飯、どうしようか」
「私は食べなくても平気ですが……アギトさんはそうはいきませんからね。昨日あれだけ体力を消耗してますし、しっかり食べて回復しておかないと……」
いや…………食べなくて平気なわけあるかよ。
本当に動物はいないんでしょうか。と、ドアから顔を出して周囲を見回すミラの背中に、ついついそんなツッコミを入れてしまいたくなる。
お前がロクにご飯も食べないなんて……その光景、割とショックなんだぞ。
「…………雨、また強くなってきちゃいましたね」
「……今日はゆっくり休もうか。水はあるから、次に備蓄すべきは食料だ。明日晴れてくれれば海に出て、村で保存食の作り方を教えて貰おう」
お腹が空かないように、出来るだけ省エネで生きていこう。
うう……永遠の食べ盛りで今まで生きてきた僕としては、ご飯抜きの一日ってのは割とキツイ。
秋人の身体はね……最近はもう、ハンバーガーをふたつ食べると胃もたれするくらいに…………歳を重ねて弱ってるけど……っ。
アギトの身体はまだまだ若い、まだまだ育ち盛り…………育つのかな、そう言えば。
いや……筋肉は成長してたし、以前のアギトなら成長しても当然かなぁ……って、思えたけど。
その…………一回…………うん。
「……雨、止んで欲しいですね」
「うん……? うん、そうだね。ふわぁ……おやすみ、ミラちゃん」
マーリンさんのことだから、出来ることは全部やってくれてる筈。多分……アーヴィンのアギトはまだ成長するだろう。
でも、今はそんなのは良くって。
優先するべきは明日に備えて体力を温存すること。
幸い(?)寝てるだけってのもこれで慣れたものだから。
おやすみ。と、ミラを急かすようにそう言って、僕はゴロンと床に寝そべり目を瞑った。
それから少しして雨の音が遠くなったから、ミラもドアを閉めて休む気になったんだろう。
勝手に何処かへ行ってないことをなんとなく気配で確認しながら、僕はそのまま眠りに就いた。




