第十九話【ふたつの傷痕】
雨がどんどん強くなっていく。流石にシャレにならない、早く帰らないと。
頭ではそうやって冷静に考えられているのに、どういうわけか脚は止まってはくれなかった。
「……何が…………僕は何を見たんだ……?」
何かを見落としている。
いいや、見落としてなんていない。
何かを見て、気付いて、その上で……?
忘れてしまっているのか、それともそれがなんであるのかにあの時気付けなかったのか。
川に水を汲みに行った時、確かに何かを見つけているんだ。
それがなんなのか……確かめなければならない。
「…………っ! こりゃ……ちょっとどころじゃなくヤバイな……」
近付く前から既にゴウゴウと音が響いていたからなんとなく分かっていたけど、昼間に水を汲んだ川は既に氾濫一歩手前だった。
いや……堤防なんて無い訳だから、既に氾濫していると言うべきかのかも。
少なくとも、川幅は既に倍以上に広がっていた。
水なんて汲んでる場合じゃない。邪魔になりそうな借り物の土器を土の上に置いて、ゆっくり慎重に砂利道へと足を踏み入れる。
「……どこだ……どこで見つけたんだ……?」
確かあの辺で……と、昼間に水を汲む為に瓶を下ろした場所を必死に思い出す。
けれど……どうしようもなく景色が違う所為で、自分がどこに腰をおろしたのかなんて分かりやしなかった。
けれど……それでもやらなくちゃいけない気がした。
使命感にも似たそれは、或いはアギトの肉体に刻み込まれた勇者としての責任感なのかもしれない。
世界を救え……という、あの人の言葉を裏切りたくないと。そういう呪いみたいな……
「……アホかよ、ったく。突き動かされてやった訳じゃない。僕は僕の意思で……あの時だって…………っ」
膝が震える。
寒さもある、もうすっかりびしょびしょになってしまった。
けれど……体を震わせる一番の原因は、やはり途方も無い恐怖だった。
この濁流に飲み込まれれば、まず間違いなく死んでしまう。
泳ぎが得意とか不得意とか、そんな次元じゃない。この大きな力には逆らえない。
そう思わせる轟音が、どうしてもあの最期の瞬間をフラッシュバックさせる。
まだ…………まだまだ暫くは克服出来そうにない。
けれど、あの瞬間の衝動を、誰かに言われたからだなんて考えそうになる悪いアギトが出る度に、僕は本心からそれは違うと突っぱねることが出来た。
全て僕の意思で、僕がやりたかった……なりたかった姿になる為の……
「——っ! あれ…………そうだ、あそこで……っ!」
もうすっかり暗くなってしまった渓流を、それもぐしょぐしょになって滑る危険な河原を、僕は強い意志を持って突き進んだ。
目指した先には大きな岩……と言っても、石碑とかそういう感じではない。
腰掛けるのに丁度良いと思った、このなだらかな渓流には似つかわしくない、粒の大きな岩があった。
そうだ……僕はそれに腰掛けて、よっこらしょなんてジジくさい独り言を言いながら瓶に水を汲んで…………
「…………っ……うわぁっ!」
ばしゃぁん! と、全身に水を浴びて、僕はつい情けない声を出してしまった。
今の今にも増水し続ける川の水が、自然に出来た堤防のとでも呼ぼうか、少し段になっている所に当たって撥ねたらしい。
その拍子に河原の石が崩れて一気に決壊…………っ! という最悪の展開はどうやら免れたっぽいけど……
「……急がないとな……ごくり」
それが文字通りの呼び水になって、川の幅は更に広がってしまった。
足元だってぐちゃぐちゃ過ぎて、もう河原に立っているのか浅瀬に立っているのかも分からないくらいだ。でも……っ。
踏ん張って、歯を食い縛って。ようやく辿り着いたその場所で、僕は信じ難いものを見つけてしまった。
「…………? これって…………っ! くそ……もうちょっと明るければ……」
暗くてハッキリとは見えない。けれど……確かにその岩には何かが刻まれている。
どうして昼間に気付かなかった、気付いたのに足を止められなかった。
ミラのところに早く戻って、解析を急がないと……って、そんな人任せな義務感に追われたからか。
暗くてどんなものが刻まれているのかまでは見えない。
指が悴んでしまって、なぞってみても分からない。
けれど…………けれど確かなのは……っ。
「……なんとかしてこれを…………っ。持ち帰るのは無理でも、せめて覚えられるだけ覚えて……」
風が吹き付ける度に、しゃがみ込んだ体が大きく揺らぐ。そのまま転がされてしまったら、最悪川に転落なんてことになりかねない。
こんな状況じゃ、お尻が冷たいのなんて気にしてられない。僕は岩に抱き付くようにしながら、地面にどっかりと座り込んだ。
出来るだけ脚を広げて接地面を稼いで、ちょっとでも安定感を出せるようにしながら。
「…………くそ……読めないよな……っ。だけど……ちょっとだけでも良いから……」
暗闇に目が慣れてきたのか、それとも顔が近付いたから多少マシになったのか。ちょっとだけだけど、そこに掘られている何かが視認出来るようになってきた。
朧げながらさっきよりずっと良く見える。良く見えるようになって……やはり。と、その異変に身震いしてしまう。
この岩に刻まれている何か……おそらく文字であろう何かは、小屋の側で拾った石版とはまるで違うものに見えたのだ。
「どうなってんだ……っ。あれはもっと……」
あっちはもっと原始的と言うか……本当に記号という印象を受けた。
けれどこれは、硬い石に彫っているのだから、直線的でカクカクしているのは仕方ないとはいえ、どことなく……文字のとしてのイメージに沿うものだ。
アルファベット……とまでは言わないけど、線が何本、縦横斜めでどういう組み合わせが……と、そういった単純なものには見えなかった。
これは……この文字は——————っ。
「————っ! やば————」
——グシャッ——と、嫌な音がした。
僕の頭蓋が砕ける音? そ、そこまでじゃない。
でも……或いはそういう結末を引き起こしかねない、災厄の音。
たった今まで岩ひとつに集中していた全神経が、一瞬にして音のした方向へと向けられる。
砕けたのは急流に晒され続けた岩石で、目に映ったのは座り込んでいる僕なんかよりもずっと背の高い濁流で————
「————揺蕩う雷霆——壊————ッ!」
——あ、死んだ——
それが避けようのない自然の猛威で、そして……その先の結末はとっくにイメージ済みだったから。僕の頭は一瞬でその光景を受け入れてしまった。
受け入れて、諦めて。目を瞑って……そして、全身に強い痺れと突風を感じて、再び目を開く。
揺蕩う雷霆。一番知ってる最強の言霊だ。
電流による痺れは末端に熱を取り戻させて、死を受け入れた僕の意識は力尽くで川岸へと引き上げられた。
「…………ミラ……ちゃん……」
「————何やってるんですか——っ!」
たんたんっと川から飛び退いて、勇者は僕の体を安全な泥の上に投げ捨てた。
そしてそのまま思いっきり頭をひっぱたいて……凄く不安そうな、真っ青な顔を僕に向ける。
ああ……ああ、また僕は…………っ。
「……何……やってるんですか……っ。あんな場所で、こんな暗い中で。たったひとりで何してるんですか……っ!」
「…………ごめん」
少女は涙を流さなかった。
凄く不安そうな顔をしていて、凄く体を強張らせていて。凄く怖かっただろうに、それでも以前のようには涙を流さなかった。
ああ……そうだ、僕が奪ったんだ。
僕がそれを……ミラから思い出を、家族を奪ってしまった。
それを分かっていて、もう一度この顔をさせてしまった。
僕は……僕はいったい何をやってるんだ……っ。
「……早く帰りましょう。この雨ですから、外で火を起こしても暖まれません。横穴を掘っても……すぐに埋もれてしまうでしょう。
小屋のドアを開けて、入り口の近くで。必要最低限の炎なら、きっと酸素も小屋もなんとかなりますから」
「…………ごめん、ミラちゃん。それと……ありがとう」
ミラは何も言わずに僕の手を取って引っ張り起こしてくれた。
冷たい手をしていた。
雨で冷えた……なんて、そんな鈍感でいるわけにはいかなかったのに……っ。
それから小屋に戻るまで……小屋に戻って暖をとっている間も。ミラはずっと俯いたまま口を聞いてくれなかった。
十分暖まって、ドアを閉めて、眠りに就くその時にも。おやすみなさいすら言ってはくれなかった。
朝が来た…………らしい。
窓が無いから外の様子は分からない。
けれど……目が覚めて、その上で身体がちゃんと軽くて。目も過剰にしょぼしょぼしないから、きっと夜中に不意に起きてしまったということはなさそうだ。
「……おはよう、ミラちゃん。昨日はありがとう」
「…………いえ。もう……もうあんなことはしないでくださいね」
ごめん。と、また謝ると、ミラはやっと僕の方を見てくれた。
まだどこか不服そうな顔をしているけど、頑張って笑顔を見せてくれたんだ。
本当に強くなった、逞しくなった。
僕がいなくなって……お前はこんなにもボロボロになってしまってたんだな……っ。
「…………ふーっ。ミラちゃん、昨日のことで……大事な話があるんだ。大事な発見と言うべきかな」
「……発見……ですか?」
——切り替えろ————。今するべきは過去の後悔じゃない。
この世界を救う。あの時のように、何かを犠牲にした勝利じゃ意味は無い。
ふたり揃って、みんな笑顔のハッピーエンドを迎えるんだ。
その為に必要なことを、僕に出来るレベルのことで良いから、ひとつでも多く積み上げるんだ。
「また、川に行きたい。今度はふたりで。僕は昨日、あの場所で。あの石版とは違う文字を————別の文明の痕跡を見つけたんだ」
積み上げて積み上げて、必ず答えに辿り着かないと。
今のミラと一緒に始めた旅の一歩目が、最悪の終わりを迎えるだなんて嫌なんだから。




