第九話【灯り】
その小屋には窓が無かった。
この世界にはまだガラス窓なんてものは無いのだから、当然のようにも思えるが……ただそれでも、この空間だけは——と。
村にあった建物の殆どは、とても原始的な造りで、木材を組み上げただけのこの箱でさえも革新的なものに思えた程だ。
釘……鉄なんて使われていなくて、古来の日本建築のように嵌め合わせだけで作られたこの小屋の気密性は驚く程高く、かつてアーヴィンで震えながら眠ったあの役所よりも隙間風が少ない——いいや、皆無と言って差し支えない。
だからこそ……ガラス製と言わず、木製の窓……いいや、この際蓋の無い覗き穴のような窓でさえ、あって然るべきだと思った。むしろ……
「……っと、外ももう真っ暗ですね。全然気付きませんでした」
「しょうがないよ、この暗さだもの」
実際に村の家々にいちいち上がり込んで確かめたわけではないが、それらには窓というものが間違いなくあった。
なんらかの方法で雨風の侵入を防ぐ蓋を設けて、それでも光を取り込む為に屋根の一部に穴を開けていた筈だ。
それがどうしてか、この小屋にだけは無い。
どの建物よりもしっかり作られていて、まるで別の文明がここにあったかと思ってしまうくらい進化したこの建物にだけ、外から光を取り込む方法が準備されていなかったのだ。
「……不思議なもんだよね、しかし。コイツだけ異次元から飛ばされて来たみたいに、この世界の中であまりにも浮いてしまってる」
「目的も不明ですしね。居住用でないことは間違いないとしても、何かを保存する為の倉庫にしたってこう暗くては……」
そんなわけだから、僕達は真っ暗な中で、入り口のドアだけ開け放しておしゃべりをしていたのだ。
それも随分長いことやっていたらしい、外はもう真っ暗だ。
外が真っ暗になるよりもずっと前に小屋の中が真っ暗になってしまったもんだから、ミラともあろうものが日の入りにすら気付けなかったみたい。
まあ……コイツは暗闇でも夜目が利くし、困らなかったから気にしなかったのかもしれないけど。
「そろそろ眠りましょうか。明日は……どうしましょう。やりたいことはいっぱいありますけど」
「取り敢えずはこの小屋を使いやすく……変に手を加えて壊してもいけないけど、まずは入り口に階段を……せめて梯子を作ろう。そしたら村に向かう道を整備して……」
ミラの言う通り、やることはいっぱいだ。
いっぱいいっぱいあり過ぎて……もう、ちょっと鬱入りそう。
やりたいことが多いのは良い、なんだかキャンプっぽくてワクワクするし。
でも……やらなきゃいけないことが更に多いからさ、やりたいことやってる時にもそれがチラついて……はあ。
忙しい時程部屋の掃除をしたくなるの法則。いえ、僕の人生の中で、部屋の掃除が出来る状況で忙しかった記憶なんて無いんだけど。
「——アギトさんアギトさんっ! 見てください!」
「? どうかしたの——っ。これ……」
もう寝ましょう。と、そう言ってミラは虫や蛇……危険の侵入を防ぐべく、ドアを閉めようとしていた。
しかし、外に何かを見つけたようで、嬉しそうに僕を呼ぶのだ。
なんだろう……? と、可愛らしい彼女の姿にひとりほんわかしながら、靴も脱げない玄関に向かうと……
「——すっご……いや、これは…………綺麗だね」
「綺麗ですね。王都にも、アーヴィンにも。旅の間に訪れたどんな街にも、この美しさはありませんでした」
ほら。と、ミラが指差した先は空だった。
満点の星空……って、そんな言葉を使うなら、今この時に限られるのかもしれない。
都会とはおよそ呼べない秋人の住む現代の町や、それよりも遥かに明かりの少ないアギトの住むアーヴィンでさえも見ることの出来ない、黒と星の輝きだけの世界。
こんなものを見てしまったら、もうプラネタリウムじゃ満足出来ないかもしれないなぁ……なんて。
きっとそれはそれで楽しいんだろうけど、ついそんな風に思ってしまう程圧倒的な光景だった。
「…………星が見えなくなるのは、文明が……街の明かりや背の高い建物が覆い隠してしまうから。それに排気ガスなんかで空が曇るから。なんて……そういう無粋な話になっちゃうけどさ。ここだから……この未発達な世界だからこそ……」
「そうですね。未熟故に失われていないものがある。それに是非を求める必要はありませんが、今この瞬間は……間違いなく、ここに来られて良かった、と。そう思います」
換気に気を使いながらだったら、ミラの炎魔術で明かりを準備出来たかもしれない。
でも、それをしなかったお陰でこうして美しい星空を見上げられた。
魔術を使っていれば便利だったし、これから先も快適さを求めて幾度となくその力に頼ることだろう。
だけど……使わなかったとしても、その先には別の良い結果が待っていることもある。
どっちにも逆の目があり得ることだが、今回は良い方に向いてくれたみたいだ。
僕とミラはそんな景色をじっくり堪能して、それから明日に向けて眠りに就くことにした。
————バチン——ッ! と、激しい光とともに、僕の手がスパークした。
一瞬だけ見えなくなった世界の真ん中に、どんどん小さくなっていく背中が——ぐんぐんと突き進んで行くアイツの姿が現れた。
ああ——
「————っ。分かってんだよ——そんなことは————」
振り返れば、きっとそこに絶望の使者がいる。
僕を殺す——アギトを終わらせる、悪夢の使者が。
九つ目の龍の首が、その大きな口を開けて僕に迫り来るのだろう。
ああ、分かっている。
この光景を何度見たと思っているんだ。
「——そうだ、殺せ。何回だって殺せよ。良いさ、もう。僕はもう——この結末は受け入れてるんだ————」
体がゆっくりと——ゆっくりと落下し始める。
跳び上がった勢いを全てミラに渡して、あとは身動きひとつ取れないままに落ちていくだけ。
そんな無抵抗な僕に、龍の首はじりじりと間合いを詰め始める。
なんだなんだ、今回は随分とスローモーションだな。
「——受け入れた————受け入れて——っ! でも——その先で僕はまた立ち上がった——っ! アイツとの約束を——マーリンさんがくれたチャンスを——ッ! こっちには信じるものがあんだよ——っ! 今更お前なんかに————っ!」
————怖い————
やっと視界に映り込んだ龍の姿に、僕は全身が凍り付きそうな程の恐怖を覚えた。
これからまた、殺されるのだ。
ぐちゃぐちゃにすり潰されて、全部台無しにされてしまうんだ。
怖い——怖い、死にたくない————っ。
根源的なその衝動に駆られ、ある筈のない心臓がばくんばくんと強く早く脈打っている錯覚を覚えた。
だけど————
「————負けねえよ——もう——っ。お前なんかに————絶望なんかに、もう負けるわけにはいかないんだよ——っ」
ぶつんと世界が途切れた。
真っ暗な世界に放り出されて、そして自分が死んだのだと突き付けられる。
それは知ってるんだ。今更何をショックなんて受けるもんか。
僕は死んだ。アギトは死んだ。
だけど————もう一度奇跡を起こせと、立ち直ってみせろと。あの人が僕にチャンスをくれた——っ。
だから……この結末にも、決して僕は————
「————っ。ここ——は————」
暗転すると——いいや、真っ暗な場所にいたのに、そこから更に暗転というのは変な表現かな? でも、確かに暗転したのだ。
真っ暗な中でも確かに一度幕は降りて、そして新たにスポットライトがステージを照らす。
そこは……アーヴィンだった。
「……まだ、夢か。いいや、アレは夢じゃない。夢じゃなくて、現実として。僕は確かにアーヴィンに帰って来た。だから……あの光景は夢じゃない、あの喜びは嘘じゃない。だから…………今更こんなの見る必要————っ」
アーヴィンだった。
その場所は間違いなく、僕達の故郷だった。
土の匂いがして、草木の青い匂いがして。そして……アイツの小さな背中があった。
僕が初めてアイツと出会った場所で、今度はミラが小さく蹲っていた。
小さな肩を震わせて、そこに何かを探して————
「——ミラ————っ!」
思わず声を掛けてしまった。
きっとこれは悪夢だから、どう転んでも嬉しい結末にはならない。
そんなことは分かっていたけど、声を掛けないでいるなんて無理だった。
震えてたんだ。
怯えてたんだ。
大切な家族が、寂しいって僕を探してたんだ——っ。
僕の声が届いたみたいで、小さな背中は大急ぎでこっちを振り返った。
まだ髪の長い姿のミラが、僕を見つけて満面の笑みを浮かべていた。
嬉しそうに、楽しそうに。
凄く幸せそうな顔で僕のことを見つめていて……
「————泣くなよ——ミラ——」
……そして、ボロボロと涙をこぼし始めた。
ああ——やめろ、ダメだ。
それだけはいけない。
もう——もうこの夢は終わりにしないといけない。
ここで手を伸ばしちゃいけない。
求めるな——お前はもう、夢の中にこんな幻想を求めなくて良いんだ。
もう届かないものだなんて諦めなくても良いんだ……っ。
だから……だからもう————
「————おいで——ミラ————」
僕の意志に反して、口は勝手に彼女を呼んでいた。
両手を広げて、こっちにおいで、と。
それを見て幻想のアイツは急いで立ち上がって、そしてパタパタと駆け寄ってくる。
なんて愛らしいのだろう、なんて愛おしいのだろう。
ああ————なんて————
「————分かってただろ——こうなることくらい————っ」
————なんて——残酷なんだろう————っ。
ミラは僕の胸へと飛び込んで来て、そして——霧散した。
彼女を受け止めた筈の僕の両腕は何も抱き締めることはなく、ただ虚空を掴んでそのまま腐り落ちた。
ぐずぐずと体が崩れ落ちて——そしてまた————
「————さん————トさん————アギトさんっ! 起きてください! アギトさんっ!」
「——おはよう——? ああ、ごめん……寝坊……」
大丈夫ですか? と、少女は凄く不安そうな顔で僕の顔を覗き込んでいた。
さっきまで赤らんだ笑顔で僕のことを見ていた筈のアイツの顔が——髪の短くなったアイツの顔が、今は青くなってしまっていた。
どうやら僕は悪夢にうなされていたらしい。でも……
「…………ありがとう。うん……意味分かんないかもしれないけど、言わせて欲しい」
「えっと…………? 大丈夫……なんですか……?」
うん。と、頷いて、出来るだけ笑顔で返事をした。
出来たかは分からないけど、少なくともミラはもうそれ以上何も聞いて来なかった。
前のお前だったらクドいくらい問い詰めて来たもんだけどな。
寂しいけど……それはまあ、健全な関係になったということで。
もう相互依存は無い。僕達の絆の根っこになっていたあの依存関係は解消されたのだ。
では、早速取り掛かりましょう。と、ドアを開けて眩しい外へと飛び出していったアイツの背中を追って、僕は暗い夢の中からゆっくりと抜け出した。




