第六十二話
夕日は遠くに見えるが、眼下に広がる街並みは紅ではなく灰色をかぶっている様に薄暗かった。僕らは辿り着いた五階建ての宿で、最上階の広い部屋に通された。この街には電話か何か、あの屋敷から連絡を入れる手段があるのか。はたまたもっと別の要因で支配人は僕らを優しく出迎えたのかはわからない。僕は並んだ二つのベッドの窓に近い方へ彼女を寝かせた。
「大丈夫か、ミラ? 苦しいとか、痛いとことか無いか?」
返事もリアクションも無い。彼女はごろりと僕に背を向ける様に寝返りをうって、そのまま黙り込んでしまった。ノーマンというあの壮年の男にこっぴどくやられた事が堪えているのか、魔術の使用でまた参っているのか。それとも…………あの翁と呼ばれていた少年の言葉が……
「……ミラ」
縮こまって余計に小さくなった背中に、僕はかける言葉の一つも思い浮かばなかった。彼女の側に腰掛けて、窓の外遠くに見える大きな屋敷を呆然と眺める。そして昼間出会ったポーラと言う少女の無垢な笑顔を思い出しては胸が苦しくなった。
「……なのよ…………」
虫の鳴く様な小さな声だった。それでも彼女は肩を震わせて何か言った。悔しいのだろうか。悲しいのだろうか。僕はその肩にそっと手を……
「もーーーーーッ‼︎ なんなのよアイツ! ああーーーーッッ‼︎ イライラするッ‼︎」
「…………お元気そうで」
さっきまでの暗く淀んだ空気はどこへ。そして落ち込む少女をそっと慰めるムーディな展開はどこへ! ミラは涙を流すでもなく手近にあったふかふかの枕を殴打し始めた。そう、八つ当たりである。
「人のっ! 事をっ! ネズミ呼ばわりとかっっ‼︎ 無礼なのはどっちよっ‼︎ ああああーーーーーっっっ‼︎ もうッ!」
「お、落ち着け。どう見ても高価そうな……いや絶対高価い! 弁償とかシャレにならないから!」
僕の言葉に彼女は拳を振り下ろすのをやめ、代わりにぐりんと僕の方を向き直してポカポカと僕の肩やら胸やら……とりあえず急所は外してくれているが、そこそこの強さで殴り始める。
「もーーっ! なんなのよ! バカ! おたんこなす! 今時天術師だとか、流行んないのよ! バーカっ! やーらかいお布団ありがとうございますっ! ムキーーーっ‼︎」
「ちょっ……痛い痛い! 微妙に痛い! 怒るか感謝するかどっちかにしなさい!」
なんとか身を守……彼女を宥めようと襲い来る拳の合間を縫って肩を叩いた。よしよし、落ち着け落ち着け。どうどう……痛い! 痛い痛い!
「おちっ……落ち着け! ミラ! ミラってば!」
ようやく僕の声が届いた……のかは定かでは無いが、彼女はやっとラッシュをやめ、代わりに僕の顔をがっちり両手で捕まえてずいと近付いてきた。何度でも言おう。近い! 本当……他の奴には! 絶対やるなよ⁉︎
「アンタが怒んないから私が怒ってるんでしょうが! アイツらアンタのことネズミだなんて言ったのよ⁉︎ 怒んない方がどうかしてるのよ‼︎」
言い終わると彼女は目にいっぱい涙を浮かべながらまた僕を殴り始めた。さっきまでよりずっと弱々しいパンチは、きっと疲れたからとかそんな理由じゃ無いのだろう。両頬に残った彼女の手の温度が妙にこそばゆく感じた。
「……もしかして、俺のために怒ってくれてるのか?」
口にしてからなんて恥ずかしい事を聞いているのかと後悔したが、そんなものはすぐに吹き飛ぶ事になる。ミラは俯いていた顔を上げ、涙なのかツバなのかも分からない汁を撒き散らしながら僕に食ってかかる。
「あったりまえじゃない‼︎ アンタは! 私の大事な秘書なんだからっ‼︎」
もう一度、さっきよりも一層強く顔を掴まれ僕は目を逸らす間も無く……勢い余った彼女の頭突きを食らった。痛いし、熱い……熱い。彼女に掴まれたとこだけじゃ無い。頭突かれたとこだけでも無い。鏡なんて見なくても分かる、にやけた顔が全部熱い。
「いったぁ……もう、何笑ってんのよ!」
「いや……ごめん」
指摘されてなお僕のにやけは治らなかった。それを見て彼女は憤慨していたが、これは仕方のない事なのだ。誰かに“必要とされている”事がこんなにも嬉しい。僕がずっとなりたかった“誰かに必要とされる人間”に、小さな一歩だが踏み入れることが出来たのだと思うと、小さな怒りなんて簡単に吹き飛んだ。
「もう、調子狂うわね。私ばっかり怒っててバカみたいじゃない」
「ごめんごめん。いや……うへへ」
キモい。と、バッサリ切り捨てられた。正直自分でも気持ち悪い笑い声が出たとは思ったが、だからってそんなにはっきり言うことないじゃない! 笑顔に戻った彼女を見て、僕はまたその気持ち悪い笑い声を上げそうになったのを必死に我慢した。
「そ、そうだ。アイツらが言ってた天術……使いとか、地術師とか。あれって一体……」
これ以上突っ込まれない為に僕は話題を逸らした。なんだか壮大そうな単語だけに、気にもなるし心も踊る。
「ああ、アレは魔術と錬金術の少し古い呼び名ね。天術は魔術を。地術は錬金術を指すわ。本当はちょっとだけ違うって人もいるにはいるけど、私は“そんなのどうでもいい! 派閥”ね」
「なぁんだ……呼び方が違うだけか……」
心の底からがっかりした。なんかこう……大いなる天の力を操りし高位魔術師! みたいなのを期待していたんだが……
「何⁉︎ 興味あんのアンタ⁉︎ しょうがないわねえ! 説明したげるからそこ座んなさい!」
「えっ……? いや別に……」
妙に上機嫌になったミラに、無理矢理反対のベッドに座らさせられる。いつか錬金術のことを教えて貰った時もそうだったのだが、やはり彼女にとってこの分野は好ましい——楽しい物なのだろう。おもちゃを見せびらかしに来る子供の様でなんとも愛らしいことだ。
「魔術も錬金術も親戚みたいなもんなのよ。そもそもは自然の発露、要は自然現象の再現ね。どちらもそれを目指した。二つの違いは、最初のアプローチが違う視点で行われたって事ね」
なんとも楽しそうに語る彼女を止めるすべも勇気も無い。面白そうな話だし、本人やる気だし、機嫌も治るだろうし。このまま話を聞いてみようと腹を括る。
「太陽の様な超高温で燃え続ける炎を灯す。雷の様に万物を貫く電気を発生させる。名前の通り天に浮かぶ大自然を目指したのが天術」
「海の様に水を無限に湧かせる。山の様に土と金を精製する。私達が生きるこの大地の再現を目指したのが地術。勿論それらがそのまま魔術と錬金術に発展した、ってわけじゃないけど。そんなのはどっちでもいいのよ」
成る程。天術……魔術については合点が行く。目の前で散々見てきたアレらは、間違いなく小さな自然災害と言えるものだった。だが地術、錬金術。てめーはダメだ。霊薬だとか、魔具だとか、全然自然じゃないじゃないか!
「火水土金風。火と風、要は熱と空気。触れられないものは魔術の分野。水土金、液体に有機物に金属。これらは錬金術、って分類しちゃってるだけね」
「例えば簡単な霊薬は水、液体に幾らかの魔力と風土の属性。栄養素とそれらが生きられる環境を付与した物。ベースが水だから分類は錬金術、って。個人の魔力特性によって得意な事、苦手な事。出来ない事もあるから、職にしようと思ったら得意な分野に特化する必要がある。だから魔術師や錬金術師なんて分けられてるのよ。根っこは変わんないわ」
Zzz……はっ⁉︎ 寝てっ……寝てないぞ⁉︎ しかし、うむ。となれば……
「えっと……となるとボガードさんは錬金術師だから……水土金のどれかが得意。ミラは……全部出来るって認識でオーケー?」
「優秀優秀。ボガードさんは水金に長けてたわね。でも土の扱いは苦手だから、設備が無いと薬の類はあんまり。私は特に火土風が得意だけど……他もそこいらの魔術師錬金術師よりずっと上な自信があるわ!」
なんとも頼もしい事で。いや待って? と言うことは、だよ。
「そのミラの魔術を防いだあのノーマンって男……」
「ああ、アイツは相当な錬金術師ね。私の電撃を見事に絶縁してみせた辺り、土金の扱いは一級品ね。でも! 本調子なら私の方が凄いんだから! ふふーん!」
それが見栄なのか真実なのかはわからないが、余計な詮索はよそう。成る程、となれば……
「彼は錬金術師?」
「正解! 見たところ火風はあまり取り扱わない、純正錬金術師ね」
見たところって……そう言えば魔力痕がどうたらって。彼女ら魔術師達にはそんなスカウター標準装備が常識なのだろうか。なんだかカッコイイ……う、羨ましくなんて無いぞっ!
「……厄介なのは奥のやつね。アレは私と同じ統括元素使い。五大元素全部を自在に操る万能型。まあ? 万全なら? 私の方が⁉︎」
「張り合うなあ……前々から思ってたけど負けず嫌いだよなお前」
からかったつもりでそう言ったのだが、彼女は真剣な顔でくるりと窓の方を向いて黙ってしまった。失言だった……だろうか。謝ろう。と、声をかけようとすると、彼女はぐっと拳を握ってまた口を開く。
「……アイツは多分私より高位の魔術師ね。直接やりあって負けるつもりは無いけど、純粋な比べ合いじゃ敵わないわ」
ゴクリと唾を飲む。比較対象も無しに、それも思いっきり贔屓が入った評価だが、彼女の魔術や錬金術はきっとかなり高レベルにある筈だ。それよりも高位……となれば……っ。渇いた喉に、無い筈の唾をまた飲み込む。アレ? 聞き間違いかな? 何か不穏な言葉が聞こえた様な……
「直接やりあうって……例え話だよ……ね?」
「……ほっとけないでしょ? あんなの知っちゃったら」
喉元まで出かけた文句が引っ込む。放っておいて、見殺しにして旅を続ける。彼女は絶対にそんなことはしないだろうし、させたくない。彼女よりも……強い…うう、頭が痛くなって来た……
「大丈夫よ大丈夫! お姉ちゃんに比べたらそれこそネズミの糞みたいなもんよ、あんなクソガキ!」
「クソ……女の子がそんな言葉遣いするんじゃありません」
せっかく辿り着いた街で、僕らは未曾有の強敵とかち合うこととなってしまった。