最終話・裏
————大切な思い出を忘れてしまっている気がする————
少女はそう言った。
明日を——未知を見つめ続けていたその瞳は、探し物を求めて昨日ばかりを映すようになってしまった。
けれど、彼女は聡い子だから。
すぐに自分が見るべき景色を————目指すべき明日を理解して先へ進むだろう。
だから、僕はこう言うんだ。
「——大丈夫だよ、何も忘れてなんかいない。大丈夫なんだよ、ミラちゃん」
————大切な恩を忘れてしまっている気がする————
少年はそう言った。
その剣を抜く理由を——戦う理由を忘れてしまった心は、戸惑うばかりで誰かを守る為の力など失ってしまった。
けれど、彼は強い子だから。
いつか自力でその答えに辿り着く、そうしてきっとまた剣を抜く。
だから、僕はこう言うんだ。
「——大丈夫だよ、何も失ってなんていない。大丈夫なんだよ、オックス」
…………大切なことを忘れてしまっているあの男は、いつになっても服を着ない。
何も忘れてなどいない、何も失ってなどいない。そう言わんばかりの悠然たる態度で、倫理観と常識を失ったままのこの馬鹿は何も言わなかった。
ううん、何も言えなかった。
だから、僕はこう言ってやった。
「おい! お前はいい加減常識を弁えろよ! もう放浪王子じゃないんだぞ!︎ この馬鹿! 聞いてんのか、フリード‼︎」
————大切なことは何も忘れていない。失ったものなんて何も無い————
僕はそう呟いて、そしてまた前を向いた。
君のことは忘れない、君との旅を忘れない。
君と彼女の、壮大な冒険の物語を————僕だけは忘れない————
さて、まずは謝らないといけないことがある。
結論から言って…………僕はふたつも約束を破ってしまった。
まずひとつ。君を守れなかった。
守ってあげるって……頼りにしてってあれほど大口を叩いておいて、最後の最後に寧ろ僕達全員を…………いいや。君は、この世界の全てを守ってくれた。
ありがとう……って、素直に感謝の言葉を述べたい気持ちも半分。君にそんな重荷を背負わせてしまったという後悔が半分。
もうひとつ。初めてキリエで出会った時……僕は脅しのように、この話を君達に聞かせたっけね。
星見の通り、ミラちゃんの精神は崩壊した。
呆気無かった、あまりにも。
君という最愛の人を失い、あの子の心は完全に破壊されてしまった。
悔しい……なんて、僕がこんな感情を抱くのは驕ってるのかもしれない。
その未来を見て、変えるべく動いて。ありとあらゆる策を施して、結局僕はそれを防げなかった。
申し訳ないといくら謝ったって許されるものじゃない。
王都へ戻り、魔獣の侵攻を食い止めた後に僕が見たもの。それは、動かなくなった君の身体に必死に語りかける少女の姿だった。
自己治癒の能力は、どうやら死後の肉体にも有効らしい。
或いは………………いいや、この推論はあまりにも君を侮辱しているな。
ミラちゃんはまず、丸一日掛けて君の身体の異常を全て取り除いた。
自己治癒と違って目に見える傷でなければ治せないのか、或いは認識して働きかけなければ意味が無いのか。
今となってはその違いにさほど意味も無いんだけど……ごめんね、どうにもこういう性分だから。
全身くまなく治療された綺麗な君の遺体を前に、ミラちゃんは、早く起きて来なさい。だとか、まだどこか痛むところはある? だとか…………っ。
とても……見ていられるものではなかった。
それから二日が経って、ミラちゃんはついに気付いてしまった。
君はもう、帰っては来ないんだ……と。
契約の縁は繋ぎ直された。しかし、だからと言ってまたいつかのような不具合が起きないとも限らない。
だからまた、君が向こうの世界で泡食っているんじゃないか……なんて、そんな淡い希望に縋り付いて保っていた心はあっさりと崩壊した。
それまでの二日間とは打って変わって、少女はただひたすらに声を上げて泣き続けた。
泣き疲れて気を失うことさえ許されず、それから三日三晩泣き続けた。
誰も……彼女に声を掛けられなかった。
そして……ミラちゃんは完全に壊れてしまった。
冷たくなった君の隣で、何にも焦点を合わせようとはしなかった。
腐り始めた君の肉体に集った虫に寄られようと、口や目に入られようと、それを振り払えなかった。
反射行動すらも出来ないくらい、ミラちゃんの意識は薄いものになってしまっていた。
帰還から既に七日が経とうとしていた頃、王様から命令が下った。
ミラ=ハークスを何としても取り戻せ、と。
出来ることならやっている! って、噛み付きたかったけど……っ。
王はとっくに気付いていたんだ。僕にだけ出来る最低最悪の方法を、ミラちゃんを立ち直らせる悪魔の手法を。
それだけはしたくなかった。けれど……どれだけ考えても、やはりそれに代わる方法は思いつかなかった。
僕は召喚術式を起動した。
魔力は全く問題無い。後からだっていくらでも注ぎ込める。
マナと契約している僕にとって、問題となるのは情報という贄だけだった。
しかし…………それもまた、この時に限ってはとても簡単な話だった。
人ひとりを生贄に差し出すよりは人道的で、他の何よりも邪悪な手段だ。
僕は————僕は、アギトという存在の記録を生贄にした。
遠回りした甲斐があったと言えるだろうか。君達が散々歩き回って多くの人々と触れ合ったおかげで、アギトという人間を認知している人の数は山ほどいた。
特に、王都に来てからの活躍は目覚しいものがあった。
君はきっと、何も出来ていなかったって卑下するだろうけどね。
そう……あまりにも多くの人々から、ほんの僅か——君との思い出だけを取り上げて生贄にする。
誰も傷付かない、そして後に誰も気付かない。
この世界から君の痕跡と思い出の全てを取り除くことで、僕は召喚術式を起動した。
僕がこれまで行った魔術の中でも、最低最悪の術式だった。
そして…………その後のことは知らない。
ミラちゃんが君に会えたかどうかすらも分からない。
だってそうだ、当の本人さえもそれを忘れてしまっている。
君との思い出なんて全て消え去ってしまっている。
ああ……最悪も最悪だ、どうか僕を蔑んでくれ。
ならどうしてお前は覚えているのか……って?
忘れるわけにはいかないからだ。
本当にこの世界の中から君の記憶が消滅してしまうなんて許してはならない。
僕はこの罪の十字架として、君との思い出と、それを葬ったという事実を胸の内側に刻み込んだ。
僕だけが知る、最低最悪の殺人事件と言えるだろう。
そうしてミラちゃんは息を吹き返した。
自己治癒の力で生き延びるだけの状態から、魔王を倒した誉れ高い勇者として生まれなおしたんだ。
君との思い出が無いからさ、性格は少しだけ変わっちゃったんだけどね。
さて、暗い話はここまでにしよう。
少しだけ僕の話をさせておくれよ。
星見の巫女、勇者と共に戦いし大魔導士。マーリンという名で大衆に親しまれたかつての僕はもういない。
魔獣の侵攻を止める為、ミラちゃんもフリードも戦えない状態で世界を守るには、そうする他に無かったんだ。
僕は翼も髪も瞳も偽らず、魔女として王都へと帰還した。
正直……怖かった。
かつて幼かった僕は、その姿のまま人里に降りたことがある。
遠くから見ていた人々の営みに憧れ、友人という関係に焦がれ。それらを求めて、無謀にも村に降りてしまったんだ。
何も疑うことをせず、僕もそこに混ざれるものだと信じて。
結果は……語るまでもない。
だから…………また、全てを失うんじゃないか……って。怖くて怖くて仕方がなかった。
でも…………でもね。怖くてもそうしたのには理由があった。
前までの僕だったら、たとえ街が滅んだとしてもその姿は晒さなかっただろう。
だけど…………天使みたいだ、なんて。君が褒めてくれたから。
彼と同じように、君は僕を受け入れてくれた。
ううん、君達は……だね。
誰もが戸惑っていたよ、最初はさ。
そりゃそうだ。魔王を倒したと思ったら、今度は魔女が攻め込んで来たんだ。
動揺するし、恐怖もする。
今まで崇めてきたマーリンという人物を疑った者も多かったことだろう。
だけど……王様が急遽式典を開いたんだ。
勝利を——勇者を祝い、認める式典。
魔獣に備えてみんな王宮のそばに避難してたからさ、式典を見に来た人は随分多かった……王都の殆どの人が来てくれたんだろう。
そんな式典で、僕の作った魔具を使って、あのバカ王は街中に向かって言ったんだ。
————そうか——星見の巫女は勝利を司る天使であったか————
それからは早かった。
世界を救った片翼の天使。勇者を導く神の使い。そんな勝手過ぎる異名をそこら中で付けられて、僕は一躍大人気になってしまった。
いや……元々人気だったと思うけど。
王様は…………どうやら、僕が思っていた人物とは違ったらしい。
さて、僕にそんな名前が付いたとなれば、当然ミラちゃんやフリードにも異名が付くってもんだ。みんなドラマティックなのが好きだからね。
それまで通り黄金騎士と呼ぶ頑固者もいれば、新たに太陽騎士と呼ぶ者も出て来た。
これは……アイツが僕の騎士団に入ったから。
ユーリの穴を埋める為に、アイツは僕の部下に……は、なってくれず、そもそも己は王族なのだから、従うべきはお前だ、魔女。と、悪態をつきまくって、気付けば実権を握られていた。
もう僕の命令で動く騎士はいない、これガチで。薄情者しか居やがらない……っ。
そして……ミラちゃんには、天の勇者という異名が付いた。
これは天使である僕が連れて来たから、きっと天界からの使者なのだろう……みたいな。そんな風潮があったらしい。なんでも良いけどさ、別に。
だけど…………君には名前が付かなかった。
ううん、付く前に記憶を消してしまった。
それだけが……心残りだよ。
みんな、絶対に君のことを認めてくれただろう。
誰よりも弱く、しかし誰よりも勇敢な英雄として。
ああ、そうだ。
僕は君を履き違えていた。
君の弱さを、君の勇敢さを。その根本を履き違えていた。
ここにもうひとつ謝罪をさせて欲しい。
僕は君に甘えていた。
君はとても臆病で、危険からは必ず逃げる男だと。そういう種類の人間だと思っていた。そして、それ自体は事実だった。
けれど……君の根底にあるものは、少しだけ違ったんだ。
君は確かに臆病者で、傷付くこと、傷付けることが嫌いだった。
でも、最優先事項は自分じゃなくて、大切な誰かだった。
誰かの為になら自分が傷付いても構わない。
口で言うのは簡単だ。多少のことでなら、身代わりになれる者も多いだろう。
だけど君の誇り高いその精神は、命さえも投げ打って少女を救ってしまった。
誤算……なんて、こんな言い方は無礼だけどさ。許しておくれよ、今となってはこう言う他に無いんだ。そこがあまりにも誤算だった。
僕はミラちゃんのあまりに脆い精神を、どうにかして最後の瞬間まで保たせようと画策した。
その為に、あの子の支えとして君の存在を大きくしたんだ。
どんなに苦しいことがあっても、どんなにつらい時が来ても、どんなに険しい道に立っても。君さえいれば挫けずにいられる。
そんな風に、僕があの子を歪めてしまった。
恋だなんだと唆したのもその一環。勿論、そういう感情が全く無かったわけではないだろうけどね。
だから……君にはありとあらゆる方法で生き残る道を提示し続けた。
身を隠す魔具だってそう。下手に戦闘技術を教えず、逃げる術ばかり教えたのもそう。
君の責任感に付け込んで、最低の役割を押し付けたのだって……そうだ。
けど……君は僕の想像なんて簡単に飛び越えて、ずっとずっと……ずーっと気高い人物として、世界を救ってみせた。
その命と引き換えに、ね。
正直なことを言うとさ、僕は最後の瞬間に君が飛び出したのなんて気付かなかった。
目はミラちゃんとフリードばかり追っていたし、魔王の攻撃にも警戒しっぱなしだったし。
だから…………だから、やっぱり君がやらなきゃ僕達は負けてたのかもしれない。
そう……分かっていてもさ……っ。
やりきれないんだ。納得出来ないんだよ。
最後の最後、僕が君の代わりに気付けていたら……って。
僕がもっと頼もしくて、君が飛び出すよりも先に声を掛けてくれていたら…………ってさ。
こんなこと今になって…………忘れておくれ、情けないところを見せちゃったね。はあ、こういう所だったのかもね。
さて……召喚術式から数日が経って、フリードもとりあえず歩けるくらいには回復して。僕とミラちゃんは正式に王都から出たんだ。
正式に……ってとこがミソ。
キチンと手続きをして、仕事の引き継ぎもして。
まあ……僕の主な仕事だった星見は誰にも引き継げないし、騎士団もとっくにフリードに乗っ取られてたからさ。あんまりやることも無かったんだけど。
僕とミラちゃんはアーヴィンに拠点を構えたんだ。
学校を作る……って、そんな話を君達がしてたのは忘れてないよね?
残念ながら……ミラちゃんは君と交わした約束の全部を————思い描いたアーヴィンの未来を全部忘れてしまったけど。
だから……僕がいる。
僕が見た限りの君達の思い出を、夢を。ひとつずつ叶えていこう……ってさ。
それとは別件で、魔王の脅威は無くなっても、魔獣が突然全部いなくなるわけじゃないから。
戦力分散……とでも言うのかな。王都から少しでも戦える人間を地方に出張させようって、そんな目論見もあった。
さーてさてさて、それはそうとしてさ。
むっふっふ、もっと聞いて欲しい話があるんだよね。
実はね、僕ね。物語を綴り始めたんだ。
うん、新たな勇者の冒険譚だ。
幼くも逞しい妹勇者と、そして気弱だけど妹想いなお兄さん勇者。
血は繋がっていないけど、もっと強い絆で結ばれている仲良しなふたり組のどたばた旅物語さ。
ある日ふたりは偶然出会って、そして仲良くなって。
使命を受けて旅を始めて、協力して困難を乗り越える。
あらゆる苦境も、幸福も。どんな出来事もふたりは一緒に過ごして、時に喧嘩しながらも仲良く旅を続けるんだ。
いろんな街で素晴らしいものを見たり、仲良しさんを増やしたり。共に旅をする仲間が増えたり、悲しい別れを経験したり。
みんなが忘れてしまった美しい物語。僕だけが覚えている君達の物語。
そんな、僕にだけ描ける物語を。
でも、これは義務感からじゃない。僕がみんなに知って欲しいんだ。
こんな生き方をしていた、かっこいい勇者が居たんだって。
それが御伽噺だとしても、覚えていて欲しいから。僕は……君の生き様を綴るんだ。
おっと、いけないいけない。思い出話も、それに執筆作業も大切だけど…………もっとやるべきことがある。
いやね、畑仕事の途中で抜け出して来てるもんだから…………あんまり遅いとミラちゃんに怒られちゃうんだ。
あの子、君との思い出が無いからなのかな……ぜんっぜん甘えてこなくなちゃって。
寧ろ手厳しいと言うか…………僕に対しても容赦無く怒るようになったんだ。
それ自体は良いことなんだけどさ。君の影響って、よっぽど大きかったんだなぁ……って。
じゃあ……最後にさ、一個だけ。
僕はさ、なんにも後悔していない…………って、そう言える自信は無い。
彼についてもそう、君についてもそう。
いつも後悔ばかりで、正直やり直せるなら十六年前から……ううん、出来ればもっともっと前からやり直したいって思う時もある。
だけど…………いざやり直せるって言われても、絶対にそれは選ばない。
だって、僕は今幸せなんだ。
彼との旅の思い出も、君との旅の思い出も。こんなにも美しい物をいっぱい持ってる。
これを全部捨ててやり直せる程、僕は勇敢じゃないからさ。
えっとね……話がどっか飛んじゃったな。ごほん……ええと。
「…………アギト。君は今頃、何してるんだろうね」
決して後悔しないように……とは言わない。
だけど、後悔に足を取られて立ち止まらないように。
君は——君達は、立ち止まらずに歩み続けたからこそ成し遂げたんだ。
どんなに険しい道のりも、ゆっくりゆっくりにでも君達は歩み続けた。
だから……頑張れ、アギト。僕も頑張るよ。
ああいや……うん、やっぱり……そうだね。
「マーリン様―っ。どちらですかーっ」
「っ⁈ やばっ…………ご、ごめんミラちゃーんっ! すぐ戻るよーっ!」
僕は…………僕はとっても強欲だから。
知ってるかい? 魔女ってのはさ、すっごくすっごく……すーっごく、欲が深いんだ。
だから……普通には頑張らない。
強欲に貪欲に、欲しいもの全部手に入るように、精一杯頑張るから。だから……
じゃあ、頑張って。
天の勇者のその半身として、恥じないように生きなよ。
君の物語は、まだ終わってなんていないんだから————
もうちっとだけ続くんじゃ




