第六百十話
フリードさんはわずかな時間で呼吸を整えなおすと、またクッと歯を食いしばって大きな一歩を踏み出した。
ズシン——と、叩き付けられた龍の頭は、土煙の中で木っ端微塵に砕け散り、彼の突進を食い止めるには至らない。
二本、三本。軽々と撥ね退け、そして叩き壊し。さっきまで限界だった筈の六本目を潰して尚、その勢いは止まらなかった。
「————ぜぁああ——ッ!」
「————っ」
魔王は七本目の根をフリードさんには向けなかった。
直感的に悟っているのだ。この男と真正面から撃ち合い続ければ、必ず何処かで踏み越えられてしまうと。
故に————
「————っ! くそ——悪いフリード——っ!」
「————魔女——」
龍の代わりにフリードさんを襲ったのは、蒼炎の柱だった。
バウ——ッ! と、空気を焼き貫きながら、無数の火柱がフリードさんの周囲を燃やし始める。
大きな身体をぐるぐると振り回しながらそれらを回避し、フリードさんは魔王の周囲が蒼炎に包まれる瞬間を少し離れた場所から睨み付ける。
「っ——ごめん、フリード」
「気にするな。手を変えたということは、向こうにも焦りが生まれたということだ。先にお前を狙うと言うのならば、それよりも早く叩き潰すだけだ」
魔王は僕達の作戦……唯一と言って良い勝ち筋をしっかりと見極めてしまったらしい。
現状、魔王からの攻撃は殆どが無効化されている。
しかし、そのどれもがマーリンさんによるものだ。
特に顕著なのが魔術の相殺。どれだけ強かろうとフリードさんは人間で、炎に焼かれてそのまま戦い続けるなんてことは出来ない。
つまり、マーリンさんからそれを打ち消すだけの余裕を奪ってしまえば、超広範囲に必殺の一撃をばら撒き放題なのだ。
「——俺が————」
戦えなくても良い。蒼炎を打ち消すみたいな力も無くて良い。
ただ……ただ、せめてマーリンさんひとりを護れるだけの力があれば……っ。
無い物ねだり、それに誰からも求められてないことだと分かっていても、縋らずにはいられない。
もしも僕が、本当は世界を救う為に召喚された勇者であったならば——と。
マーリンさんと同等か、それ以上の魔術師であるレアさんからのギフトがあれば……と、彼女の優しい心遣いさえ踏みにじってしまいそうになる。
「——————ふぅ——っ。さーって……一番嫌な展開になったわ」
「……ミラ?」
小さくため息をつき、それでも真っ直ぐに敵を睨んでいたのはミラだった。
一番嫌な展開…………僕が、一番無力な人間が足を引っ張って……結果…………
「……最低ね、最低も最低。ああ……もう、本当に腹が立つ。自惚れてたわ、ちょっと。お姉ちゃんに鍵を開けて貰って、魔獣の群れを突破して。あのふたりに並んだつもりになってた。ああ————ああ、ああもう腹が立つわ——っ!」
ばちんっ! と、少女は両手で自らの頰を打った。
乾いた音がして、そしてゆっくりと降ろされた手のひらと同じ形に赤い跡が付いた顔を僕に向ける。
その顔は…………その覚悟は、もしかしたらよく知ってるものだったのかもしれない。
「————アギト——アンタは私が守る。何があっても、必ず。だから————だから必ず、待ってなさい——」
「ミラ————?」
マーリン様——っ! と、ミラは大声をあげて、そして何かブツブツと……言霊……詠唱…………? 違う……既存の術式じゃない、僕が見たことのある魔術じゃない。これは————
「————最前線での打ち消しは私が受け持ちます————っ。だから——背中をお願いします——ッ!」
「っ! ミラちゃん…………うん、任せるよ! 思う存分やっておいで!」
マーリンさんの言葉に、信頼に。ミラはニッと笑って、そして“たった今組み上げたのであろう新たな魔術式”を唱え始めた。
状況を打開すべく、進化の一歩を踏み出すべく。
ハークスの寵児、当主を守る為の力。そうではない、ミラ=ハークスの大きな一歩を————
「————我こそは焔の化身————憤怒の顕現——赫き竜人の現し身なり——————」
「——焔の————っ! お前————まさか————」
ミラの体は真っ赤な光に——煮えたぎった鉄のように真っ赤に輝く炎に包まれた。
赤く——赤く——赤よりも赫く————。
かつて、少女の背中には確かに翼が生えていた。希望の風に乗り、未来へと羽ばたく為の翼。
しかし今は————
「——————Ahaa————ahaaaAAAA——————」
————ミラの体からは、真紅に赫く炎が吹き上がっていた。
背中に生えていたのは龍の翼。悪の——危険の象徴。
その姿には見覚えがあった。
だが————その姿とミラとが重なることは————ただの一度も————
「————赫ケルハ憤怒ノ竜人——————ッ」
「————っ——ミラ————ぁあっ!」
すごく嫌な——血管が全部凍り付くような、心臓を直接冷やされてるみたいな恐怖があった。
僕はそれを知っている————思い知らされている————っ!
人を書き換える魔術——いいや、外道の術。
かつて見た穏やかな青年錬金術師と、赫き魔人の顔が交互に浮かんでは消える。
これは————この魔術は————
「————ぁあ——————ああァ——————Ahaaaaaa————ッッッ‼︎」
「——くそっ————バカミラ——ぁあっ!」
炎の塊はすぐさま上空へと飛び上がった。
その大きな翼は滑空の為のものではない。炎を吹き出して推進力を得る為のものだった。
上空で体勢を整え、炎の魔人は地から伸びる龍の頭に向かって突撃して行く。
「————っ——不届き——————」
「————Ahaa————aaAAAA——————」
迎え撃った根は呆気なく蹴飛ばされ、首こそ無事だったものの、ビンッと真っ直ぐに伸び切ってしまう程吹き飛ばされていた。
二本目の根を竜人は掻い潜り、そして噴き上がった青い炎の槍を——————防ぐこともせずにその身の内に取り込んだ————
「————Ahaaaa————ッ!」
魔王は目の前に迫る炎の塊に、初めは動揺して見えた。
さっきまで取るに足らない相手だったミラが、根を跳ね除け炎を飲み込んで肉薄しているのだ。
当然驚き、困惑し、考え——そして理解する。
そうして弾き出された答えは————無慈悲にも容赦の無い反撃だった。
「————っ⁉︎ く————ぁあ——ッ!」
「ミラ——っ!」
三本の根に囲まれ、ミラはあっという間に防戦一方となった。
それからは本当に一瞬のことで、ただ攻撃を避け続けられなくなって、弾き出されるように吹き飛ばされて地面に叩き付けられた。
ダメだ……確かに速くなったし、攻撃力も高まった。
だけど…………キレが無い。そしてあまりにも愚直過ぎる。
ミラが一番得意としていた機動力による撹乱も、そこからの精密な攻撃も。何もかもが見る影も無かった。
「ミラ! バカミラ! 何やってんだよっ! そんな——そんな格好にまでなって、いったいどういうつもり——」
「————うっさい——っ! アンタは黙って待ってなさい————っ!」
ぴょ——っ⁉︎ お、怒られたっ⁈ ていうかミラ——お前意識————っ!
完全に暴走してるもんだと、かつてのエンエズさんのように怒りに飲まれてしまってるもんだとばかり思っていたミラが、想像以上に感情豊かな声で僕に怒鳴り付け…………感情豊か…………?
あれ。アイツ今、怒鳴ったよな? 怒鳴る……ってのは……やっぱり怒ってる…………だけじゃない……?
「…………これはイメージ——別に私はあんな奴の力なんて欲しくない。だけど————今必要な力の形に、求めている姿に一番近い幻想の姿————」
炎の塊はゆっくりと立ち上がり、そしてゆらゆらと揺らめきながら、また魔王の方を睨み付けている。
その揺らぎは感情の揺らぎではなく、きっと必死に何かと戦っている証なんだろう。
怒りと? いいや。
過去の因縁と? いいや、そんなものじゃない。
アイツは今————自分の持ってる可能性と——————
「————焼かれたくないなら————最初から炎を纏えば良いのよ——————何よりも熱く——全てを焦がす————太陽のような炎で——————コレが——————ッ!」
ミラは翼を大きく広げ、そしてそれを根本から断ち切った。
コレは必要の無い、無用の長物だと言わんばかりに。
不必要に膨れ上がった感情を焼き切り、闘争心と憧れだけを燃料に炎を上げ続ける。
「————輝けるは地脈の賢人——————っ!」
轟々と燃え盛っていた炎はゆっくりと沈静して、そして見慣れた少女の見慣れぬ姿が現れる。
パリパリと鳴る青白いスパークとともに、真紅の炎を両腕から噴き上げて、ミラは龍の頭を睨み付けていた。
「————フリード様——っ! 炎の壁は私が突き破ります——っ! どうか憂いなく龍を————本体への道を————っ!」
「——任された————っ!」
バチッと小さな音を残して、ミラは魔王へと突進して行く。
さっきの力任せな突撃ではない、フットワークの軽さを活かしたいつものアイツらしい間合いの詰め方だ。
ミラは根を相手せず、フリードさんのサポートに徹する為に彼の少し後ろから敵の出方を窺っていた。
「——不届き————不届きであるぞ————」
「——っ。任せたぞ——ミラ=ハークス——っ!」
はいっ! と、フリードさんからの言葉に大きな返事をして、ミラは両腕から噴いていた炎を自身の周囲に————フリードさんと龍の頭達を諸共取り囲むように展開した。
そして————
「————っ! ぉおお————ッッ‼︎」
ミラが広げた炎の膜は、魔王が放った蒼炎を誘引して全て取り込んでしまった。
それでも流石に力量差……魔力差なのだろうか、真紅の炎はすぐに消えて、魔王からの攻撃は再びふたりに牙を剥く。
だが——今の彼を前に、その一瞬はとても大きなラグと言えるのだろう。
「っ——」
三本の根を纏めて蹴散らしていたのは、炎の膜が消えて僕がやっとそれを視認したのよりも前。
気付けばフリードさんは、四本目、五本目を蹴り壊し、両手で鷲掴みにして引き千切り、六、七本目の邪竜の首を前に舌なめずりをしていた。
さっきまでの表情とはやや違う、強敵を前に昂ぶっているなんてそんな話じゃない。あれは————
「————八本目——————」
迫る二頭を突き破り、フリードさんは最後の一本の首に強烈な一撃を突き立てた。
バジュッと焼ける音がして、そして根は全て叩き伏せられる。
しかしそこでふたりは大きく後退して、すぐにその場を青白い爆炎が襲った。
距離を離して睨み合いに戻ると、ふたりは何やらヒソヒソと話し合っている様子だ。
少しタイミングが合わなかったのか、やはりミラが新しい力に慣れていないのか。分からないけど…………たった今、その攻撃は魔王へと届き得た。
どうしようもないのかもしれないって、初めは諦めそうになったこの強敵を前に、この英雄達はもうどうトドメを刺すかという話し合いをしているんだ。
「——さあ——やっとここまで来たよ、フリード」
「————ああ————ようやくここまで————っ」
ギッと拳を握り締め、フリードさんはまたギラついた眼差しを魔王へと向ける。
待ちに待った時がやって来た、と。彼の中にある感情はきっと狂ってしまう程の喜びだ。
目の前で敵意を剥き出しにして待ち構えている魔の王を倒す、大切な仲間の無念を————葬いではなく、その意思を継いだ夢を果たせるのだという喜び。
彼らの背中から立ち上っていたのは、そんな前向きな勇気だった。




