第六十一話
彼女は石でも噛み砕いているのかというくらい強く歯を食いしばってそう言った。実験動物。僕の知る言葉で言えばモルモットか。あろうことかこの街の住人は人間をそう呼び、自らをそう呼称していると言うのだ。
「ねず……なんで! 差別ってことなら僕にも分かる。きっと魔術を使えない人間に蔑称を使っているって。でも、実験動物ってどう言うことだよ‼︎」
「……聞いた通りよ。この街では魔術の実験体にマウスではなく人を使っている。アレは家なんかじゃない。人間の生活を再現した実験場、もしくは飼育小屋だったのよ」
それってつまり、人体実験じゃないか! 僕はつい彼女を怒鳴りつけた。それでも顔色ひとつ変えない彼女にごめんと謝る。だが、そんな話が許されるのか? この街には、それを糾弾する人は誰もいないって言うのか?
「勘違いしてたわ。この街は魔術師や錬金術師が集まる街なんかじゃない。そのどちらでも無い人が淘汰された街なのよ」
「そんな……そんな事って……」
俯く僕を彼女は急かした。とにかく街の中心部へ、そして大きな建物を……この街で一番高名な魔術師を探すのだと。そしてそれはあまりにもあっさり見つかる。
「……どう見たってアーヴィンの神殿くらいあるよな。ミラ、ここなんて……」
「…………いい度胸じゃない。身隠しの結界も張らないで。それともそんな芸当も出来ないヘボが出てくるのかしらね」
彼女は僕と目を合わせるとコクリと頷いた。ええい、何を構うもんか。と、僕はその大きな扉を勢いよく開けた。手をかけ体重をかけ、扉が動き出した辺りでふと冷静になって、これはもしかして打ち首レベルの無礼働いちゃってるんでは? などと頭を過ぎったが……ええい! もう手遅れだ! 何かあっても、全部上のちっちゃいのが悪いんです!
「……誰も……いない……?」
扉の先はまるで生活感とはかけ離れた幻想的な……いや、幻想は幻想でもこれは暗いお伽話だろう。窓も無く、陰鬱で雑多としていて。そこらに魔法陣だろう幾何学的な模様が刻み込まれたここは、間違いなく魔術師の工房といった趣だ。無造作に転がっているボロボロになった檻には……考えたくもない話だが“何か”の血痕が付いている。
「誰だ! 今日は来客の予定は無い筈だ。無礼であろう!」
恐る恐る進む僕らの頭上から大きな声が降り掛かり、吹き抜けた天井に響いた。足下ばかりに気を取られていた目を上に向けると、成る程あれが家主なのだろうと一目でわかる立派な装いの男が立っていた。
「……私達は旅の者です。ひとつお伺いしたい。貴方がたはこの街の惨状を、“アレ”の意味を理解してなお統治を放棄しているのですか⁉︎」
ミラは臆せず吠えた。貴方がた。と、彼女は言う。少し遅れて僕はその言葉の意味を理解した。僕が家主だと思っていた壮年の男性の他に、奥からゆっくりと顔を現した若い男の姿を彼女はすでに察知していた。
「貴様! 無礼である! 余所者風情が、翁に見えるだけに留まらず! 口を慎め!」
翁、とは奥にいる若者の事だろうか……? この男ではなく、彼がこの屋敷の主人なのか? 疑問は尽きないが、それどころじゃない危機が迫る現状に肝が冷える。本当に生きてこの屋敷から出ることが叶うのだろうか……?
「…………良い。ノーマンよ、そう声を荒げるな。外界からの来客とは実に珍しい。喜ばしい事ではないか。この街は些か閉鎖的過ぎる」
「っ! しかし……っ!」
若い、随分若い声だ。背も高く、聡明そうな——大人びた顔をしているものだから二十歳前後だと思っていたのだが、まだ変声期も迎えていない様子だ。もしかしたら……いや、もしかしなくてもミラよりも若い。
「客人よ。まず名を名乗ってはどうか。話し合いがしたいのだろう?」
「……失礼しました。私はミラ=ハークス。そして従者のアギト。共にアーヴィンからやってきました」
まただ。またシレッと僕の事を従者って……ぐすん。翁と呼ばれる……少年……と、表すのが正しいのであろう。彼はミラの名前を何度か復唱して小さく頷いた。
「なるほど。して、アーヴィンよりの客人がまたどう言った要件か。どうやら其方は地術師と見えるが。それはなんだ。其方のメズか?」
ブチン。と、何かが切れる音がした。待って、待って! 待て‼︎ 幾ら何でも早過ぎる! 振り向けばそこにはワナワナと震えるミラの姿があった。まさしく怒髪天を突く、と言った面持ちだ。だから! キレるのが早過ぎる!
「……いい度胸してんじゃない」
「ちょっ……と⁉︎ 落ち着けミラ! 沸点低過ぎるにも程がっ——」
彼女は飛び越える様に僕の背中から降り、そして少しは回復したのであろう魔力を早速行使し始めた。揺蕩う雷霆。もう何度聞いたであろうか、彼女の身体は稲妻を迸らせながら少年の目の前までの空間を斬り裂いた。
「…………っ⁉︎ このっ⁉︎」
「翁の御前だ。翁は許したが、私は貴様の無礼を許すつもりはない」
目にも留まらぬ雷の様な一撃を、壮年の男ノーマンは腕一本を少年の前に突き出し容易く防いで見せた。相手が人間である以上、彼女も手加減した…………筈。手加減されていたであろうにしても、アレはゲンさんにも受け止められなかった一撃だ。それを男は片腕一本で止めて見せたのだ。
「……そう、か。そういえばさっき何か吠えていたな。街の惨状、とはなるほど。てっきり余は程度の低い天術使いどもの無様を指しているのかと思ったが。よもや鼠の事とは。いやはや失敬、確かにアレでは街の景観に障ると言うものだ」
くるりと一回転して僕の横に着地したミラは、すぐさまその言葉に少年を睨みつけた。当然だ、この少年は狂っている。僕だって分かる。彼だけじゃない、この街の人達の目にはあの親子の姿は本当にネズミの様に映っているとでも言うのか?
「…………はて、何か引っかかる…………ミラ=ハークス……ハークスっ! そうか! そうかそうか! いや、合点がいった! 其方かの禁書の! 成る程コレは傑作だ‼︎」
少年はさっきまでの眠たそうな表情から一変、なにかボソボソと呟きだしたかと思えば大笑いをしながらミラを指差してそう言った。禁書……? ハークスの姓で思い出す本…………と言うと、いつか図書館で見つけたあの……
「ッ! 話を聞きな——」
「——可哀想なのだな? “自分と同じ”実験動物達が。泣かせる話ではないか。ノーマンよ、客人を良い宿へ案内してやれ。飯炊きも一人付けてやるのだぞ」
少年はそう言って奥へと引っ込んで行った。今彼はなんと言った? ミラが……あの親子と同じ……? さっきまで威勢良く吠えていた少女を見ると、目を見開いて青ざめた顔で硬直してしまっていた。
「……翁の命だ。貴様らに宿を提供させよう。付いて来るがいい」
男はひらりと軽い身のこなしで手すりを飛び越え、二階から僕らの前へ降り立った。そして追い立てる様に僕らを屋敷の外へと……
「………………ざけんじゃないわよ」
バチバチッ! と、ミラはまた雷鳴をあげた。さっき以上に昂ぶった表情で彼女は二階の少年目掛けて石の床を蹴る。
「——言った筈だ。私は貴様らを許した覚えは無い」
彼女は飛び上がると同時に硬い床へと叩き伏せられた。首根っこを押さえつけられ、バタバタともがくミラを男は顔色ひとつ変えず見下ろしている。彼女の身体は、高圧電流が流れているのと同じ筈だ。少なくともそんな彼女に触れながら平然と動けるわけがない。だと言うのに、彼女の髪が——身体が青白い雷光を失うその時まで、彼は涼しい顔でミラの動きを封殺し続けていた。
「……っ! ミラ!」
ようやく解放された彼女が微動だにしないのを見て、僕は急いで彼女を担ぎ上げる。やはりまだ魔術の行使など無謀だったのだ。弱々しく項垂れる彼女を僕はゆっくり背負って、逃げる様に屋敷から飛び出した。
「ここから西へまっすぐ行った三つ目の角。大きな宿屋がある。今日と言わずいくらでも身を休めていけ。翁の慈悲だ。有難く頂戴しろ」
それだけ言って男は屋敷の扉を閉めた。僕は恩に対して初めて頭も下げず、睨みつけてからその好意に甘んじることにした。西へまっすぐ。癪に障るがこの際仕方がない。僕はミラの足をしっかり抱えて走り出した。