第六百八話
僕にはそれが初め人間に見えた。
背格好も人間の、成人男性のそれとあまり変わりない。僕よりは大きく、フリードさんよりは小さい。痩せ型で頬のこけた若い男に見えた。
しかし、炎の中から再び現れた時、それはあまりにも僕達とはかけ離れて見えた。
下半身が花びらみたいなものに包まれていて、その先がすっかり地面に埋まってしまっているのだ。
あの花のような部分が椅子や寝床だなんて間違っても思えない。それは紛れも無く身体の一部だと確信する。
脈打ち、震え、そしてその男の一挙手一投足に合わせて不自然なほど自然に動く姿に。
「————不届きである——何者か————」
「っ! 喋っ…………」
アギト! と、首根っこを引っ捕らえられ、僕はさっきまでいた場所から三歩後ろに引き摺られた。そしてすぐにその犯人は僕の前に立ちはだかる。
バサバサと白いシャツを風になびかせ、オレンジの髪を掻き上げて。短刀を仕舞い拳を握って、一番得意なスタイルで厳戒態勢を敷いていた。
「——? 貴様は私が言語を介することに違和感を——認識にズレを感じるのか——」
「——いっ——お————れは————」
退がってなさい! と、後ろ足で蹴られて、僕はミラの小さな背中に隠れるように男から目を背けた。
喋って……人間の言葉を当たり前に喋ってる。
そんな魔獣は今までいなかった、それにこの姿————まさか————
「————私はかつて人間であった——貴様の疑問への解答はこれが全てである——」
っ! かつて人間だった…………?
そ、それじゃあ、魔人…………エンエズさんと同じように、魔獣へと改造されてしまった元人間ってことなのか⁈
あれだけの攻撃をされておきながら、男は僕達を睨み付けるでも反撃するでもなく、ただ静かに見定めているようだった。
「に——人間だったなら……どうして同じ人間に攻撃を…………」
アギト——っ! と、怒鳴ったのはマーリンさんだった。
迂闊に敵と言葉を交わすな……なんて、そんな簡単な説教ではない。
すごくつらそうな顔で男を睨むマーリンさんの姿に、僕はそれを思い知らされる。
「————では——此処の魔女が、人間である貴様達に与しているのはどう考える——。同じ魔のものでありながら、魔獣を焼き払うこの姿には違和感を覚えないのか——」
「——アギト——余計なお喋りは控えろ————っ! 履き違えるな——っ!」
ぎっと歯を食いしばって、マーリンさんは悠然と佇む魔王に強い敵対心を向けた。
魔女……っ。違う……マーリンさんは人間で…………僕達と同じ…………っ。
だったら……この魔王も…………
「——迷うな——親友————っ! 己達は正義として悪と戦っているわけではない、自らを正義として貫き通す為に戦っているのだ! 人間が正義、魔獣が悪なのではない! 互いに相容れぬ故に、正義を掴む為に戦っているのだ!」
フリードさんはそう言い残して、そしてすぐに男に向かって突進して行った。
しかしその速度は遅く、強化が掛かっているとは言え僕の目にも追えるだけのものでしかなかった。
それはつまり、これが攻撃ではなく牽制————相手の力量を測る為の、自らの安全を考慮した突進であるってことだった。
「フリード様——っ。アギト、出来るだけ自分の身は自分で守りなさい。アンタにはその為の力が十分に備わってる筈よ。無理そうなら幾らでも庇ってあげるから——っ」
「——ミラっ!」
バチッと稲光だけを残してミラは視界から消えた。フリードさんのものとは違う、撹乱の為の跳躍だったのだろう。
正面から突っ込んでいくフリードさんを飛び越えて、そして男の頭上を取って猛然と襲い掛かる。襲い掛かるのだが————
「——っ! ミラちゃん! フリード!」
そんなふたりを軽々と撥ね退けたのは、湖から現れた根っこ……だろうか。状況を見るにほぼ間違いなく、あれは男の身体の一部なんだろう。
バチンバチンと何度も体をスパークさせながら受け身をとったふたりの前には、まるで龍の頭のような巨大な根が八本伸びていた。
「————っ。また——しかも八本って————」
またしても——っ。蛇の魔女、古代蛇、魔竜。僕達の前に立ちはだかるのはいつも決まって爬虫類なのか。
それに八本の首を持つって……くそっ、八岐大蛇かなんかかよ!
それモチーフのキャラは大体強キャラって相場が決まってる。そんなゲーム知識なんて無くったって、目の前のコイツは今までで一番————ヤバイ————
「——不届き————不届きである————」
「っ! フリード様——っ!」
根は高く鎌首をもたげたまま、ミラとフリードさんを睨み付けていた。
そんな龍頭に対して警戒を強めていたふたりに、根ではなく花か果実かと思わせる魔王からが牙を剥く。
何も言霊なんて唱えずに、魔王の見つめた先————フリードさんの首元からは、青白い火柱が上がった。
「——魔術——本当に————本当に人間——」
火柱に飲まれかけたフリードさんを間一髪で救ったのはミラだった。
全速力の飛び掛かりでフリードさんを蹴っ飛ばし、そして自らもその反動で炎からの脱出を試みる。
目論見通りフリードさんは大きく仰け反って危機を脱したものの、ミラの両脚は炎に飲まれて————
「————不届きである——————」
————違う——この攻撃は————っ。
気付いた時には既に遅かった。火柱は一本だけではなく、蹴飛ばされてよろめいたフリードさんの足元や、まだ宙を舞っているミラの顔の側。
そして——僕の真後ろでも——————
「——————フリード——————ッ‼︎」
「——ッ‼︎ 応————」
青白い炎は僕達四人を間違いなく覆い尽くした。
さっきマーリンさんがやったように、逃場を潰してから確実にその熱で焼き殺す。
そう目論んで放たれた——筈だった。
しかし僕達が包まれていたのは紅蓮の炎で、そしてフリードさんはその真っ赤な焔を纏ったままもう一度男へ————八本の根へと突進を繰り出した。
「——っ! よもや————」
フリードさんの全力の一撃は一本目の根を軽々と打ち砕き、千切れ飛んだ首がその勢いのままもう一本の首を弾き飛ばした。
それでも脚を止めない黄金の光は、そのままもう三本の首を殴り飛ばして魔王の袂へと手を伸ばす。
「————っ——」
しかし、もう一歩のところまで肉薄しながらも、フリードさんは腕を引いて魔王から大きく飛び退いた。
彼が居た場所にはすぐに残りの根が叩き付けられ、千切れた筈の根も首を再生しながらフリードさんを牽制している。
「——どうやら、ひと筋縄では————いかないようだ————」
「————っ」
二撃目は体重の乗った、踏み潰すような蹴りだった。
それはまた再生しつつあった根の首を落とし、そして蹴り出した勢いのままズンズンと地面を踏みしめて進む。
根はそんなフリードさんに対して細い蔓を伸ばし、打ち倒そうというよりも動きを制限しようと四方八方から絡み付きに掛かった。
しかしそれを軽々とバックステップで躱し、フリードさんはマーリンさんの側へと着地した。
「ミラ=ハークス! 無事だろう! 策を伝える!」
「っ! ミラ! ミラっ!」
フリードさんの言葉に慌てて視線を火柱の一本のところへ向けると、そこには魔術を構えたミラの姿があった。
おそらく雷魔術だったのだろう、短くなった髪が逆立って、仄かに青い光を纏っていた。
「——アレに魔術の類は通用しない————っ! 理屈は知らぬ! だが————拳であれば通用する——っ! 己と君の出番だ! 畳み掛けるぞ!」
「っ! ハイ‼︎」
フリードさんはそう言ってまた視界から姿を消し————っ。
バァン——ッ! と、空気の爆ぜる音が聞こえて、そして耳鳴りと一緒に僕は視覚情報を手に入れた。
フリードさんはまた魔王の懐に飛び込んで、そして八本あるうちの五本の根を一撃で————たったひと振りの拳で吹き飛ばしていた。
「——っ。ここまでは————だが——」
「まだ一手足りない————私が————っ!」
フリードさんはまた大きく飛び退いて、そして三度再生する龍の首を睨み付ける。
復活が早過ぎる……っ。
フリードさんの一撃は間違いなくあの魔王にとって脅威になり得るのに、一撃と一撃の間に破壊した根が防御の姿勢を整え直してしまう。
それを察したのか、今度はミラが先手を取って魔王の元へと飛び掛った。
「——はぁあ————ァアッ!」
ミラの攻撃は間違いなく強靭だったが、しかしそれでも根を一本退けるので精一杯だった。
ダメだ、ミラでは軽過ぎるんだ。
アイツの攻撃力は徹底的に鍛え上げた技で、そして目にも留まらぬ速度で、防御不可の攻撃を急所に叩き込むことで発揮される。
防御の上から破壊し尽くせるだけの貫通力が、体重が、アイツには足りてないんだ。
しかし、ミラが作った隙にフリードさんが飛び込んで————
「——不届き————っ」
「————させないよ——ッ!」
ふたり掛かりの突進に対して、魔王はまた青白い炎の壁で対抗した。
しかしその壁に紅蓮の炎がぶつかると、ふたりはまるでそれを意に介さず突撃を敢行する。
壁を突破し、そして七本の根を——
「っ——これでも————」
「くっ————無事か、ミラ=ハークス」
七本の根を潜り抜けた先で、ふたりは八本目——最後の一本の龍に阻まれて撤退した。
とんとんと身軽に跳ね回って、ミラはまたいつでも攻撃に出られるように機を伺っている。
フリードさんは……またマーリンさんの所へ……
「——まさかとは思わんが……魔女、お前の一撃を吸われたのではあるまいな?」
「ば——っ! それは無い! 魔術ってのはそういうもんじゃない! でも————そうだね。どうやらこれは……ジリ貧か…………っ」
ジリ貧……? ちょっとだけ嫌な言葉が聞こえたけど……っ。
魔王の方もふたりの攻撃力を警戒しているのか、龍をこちらへと差し向けることはせずに出方を伺っているみたいだ。
根っこは脅威的な速度で復活する。
魔王本体が、魔術……なのか、青白い炎を発生させているのは確かで、それが後どれだけ使えるのかは分からない。
対してこちらは……
「…………不届きである。魔女……マナを司りし者よ…………」
「不届き……ね。こっちのセリフだよ。人間風情が、よくもまあ僕の領域まで踏み込んで来たもんだ」
え、すごい悪役みたいな……じゃなくて。
どうやらあの紅蓮の炎……青白い炎を打ち消している……? のは、やはりマーリンさんだったみたいだ。
どういう理屈なのか。そもそも炎同士の打ち消しってなんだよ、とか。聞きたいことは色々あるけど……
「…………マズイね、あっちもマナを…………魔女の、魔法の一歩手前まで辿り着いてる。魔王……と、その名の通り随分変わり果ててしまってる様子だ。
ミラちゃん、アイツに魔術は————異質である攻撃は通用しない。魔術の本質は変性、性質を歪めることにある。しかし、マナを自在に見て操れる僕達にとってそれは——」
————不届きである————。と、魔王は再び低くくぐもった声を上げて僕達を睨んだ。
これは————っ。予想通り僕達はすぐに青白い炎に包まれたが、やはり紅蓮の炎がその火柱を突き破る。
いったいこれは……
「————性質の変容、そして変化した属性に対する対抗変性。アイツの飛び道具は僕が全部抑える。その分、僕からの攻撃も全く通じないけど————君達ならやれるよね?」
性質の……? 理解が追い付いていない僕を他所に、ミラとフリードさんは小さく頷いて——そしてまた魔王へと視線を戻す。
「八本と一体、こちらはふたり。その他の条件については五分、であるならば……」
「任せてください、マーリン様。必ず……必ず打ち勝ってみせます」
ミラとフリードさんはピリピリした空気の中に、余裕…………ではないが、少しだけ穏やかな表情を見せた。
ああ、なんとなく…………特にミラを、そしてマーリンさんを。側で見てたからなんとなく分かる。
相手は想像を絶する怪物だった。しかし、それでも対抗出来るだけの力をこちらも備えてきた。
まだ不利だが、それでも十分に勝ち目はある。
難しい問題に挑む時、ミラは必ずちょっと困った顔をしながらも笑ったのだ。
またゆっくりと僕達に背を向けた少女の顔にも、そんな笑みが浮かべられていた。




