第六百四話
「————ユーリ——さん——?」
魔人ユリウスの姿はそこにはなかった。
僕が見たもの、それは紛れもなくユリエラ=イルモッド卿だった。
礼節を重んじ、忠義に厚い。誰からも信頼されていた、優しくて頼もしいユーリさんの——
「——マーリン様————ッ‼︎」
「——っ! ミラ!」
立ち尽くすばかりの僕のすぐ隣を、ミラは大急ぎで駆け抜けて行った。
向かう先は当然爆心地…………マーリンさんの所。
けど…………けど、もう……
「マーリン様——っ! マーリン様ぁあ————ッ‼︎」
「ミラ——っ。マーリンさん……こんな…………こんなことって……」
ミラに続いて駆け付けると、そこには確かにマーリンさんだった筈の身体があった。
杖は丸っ切り燃え尽きてしまったのか、どこにも見当たらなかった。
脱ぎ捨てられたままのローブも、燃え残りだけが岩の下敷きになって風になびいている。
その人の姿を、僕は直視出来なかった。
大好きだった。心の底から尊敬していたマーリンさんが、目の前のグズグズになった焼死体だなんて信じたくなかった。
けど……だけど…………っ。
「…………先へ進むぞ、ミラ=ハークス。我々が立ち止まれば、この戦いは敗北となる。魔女が切り拓いたこの道を、残された希望を繋ぐのだ」
「……っ。フリードさん……でも…………こんな……こんなの……」
こんなのを割り切れって言うのかよ…………っ。
覚悟が足りなかったと指摘されれば、それは間違いなくその通りだ。僕には全くと言っていいほど覚悟なんて無かったんだろう。
だって……だってしょうがないじゃないか……っ。
たとえ想定だとしたって、ユーリさんがマーリンさんを殺そうとするなんて……そんなの……考えたくなかったんだ…………っ。
「………………ミラ=ハークス——っ! 魔女はここに置いて行け、我らだけでも使命を成すのだ!
魔女の望みは彼の願いの成就————世界の平和だった! ここで立ち尽くしていればその機を失ってしまう、魔女の犠牲さえも無駄になる!
立ち上がれミラ=ハークス——っ! 立ってその脚で前に進むのだ——っ‼︎」
フリードさんは凄く苛立って見えた。イライラと、ジリジリと焼け付いているように余裕が無さそうだった。
当然だ。魔女だの朽木だの性悪女だのと口汚く罵っていたものの、それらは全部友好の証だったのだ。
この人はまさしく、僕達の何倍もの時間を共にしてきた。
十六年前の戦いから、この瞬間までをずっと共に。同じ因縁の下に絆を結んでいたんだ。
そんな彼が、いくら使命だとか合理だとかを考えたって、冷静でいられるわけがないんだ。
それでも……彼は前に進むと、マーリンさんを忘れると口にするのだ。
「——っ。ミラ……行こう、ミラ。行って……全部終わらせて、それから——? ミラ——だよな————?」
ピリッと指先に電流が走った。
雷魔術にやられたとか、毒を食らっていたとか。そういうのではない……筈だ。
過呼吸や貧血、ショックによるそういった症状でもない……と、思う。
けれど…………けれど確かに、指先に微かに痺れを感じた。
それは……ミラの肩に触れようとした瞬間のことだった。
「っ……ミラ=ハークス…………立つのだミラ=ハークス……っ。進まねばならない、叶えねばならない。己の中にある魔女との約束を、なんとしても果たさなければならない。だから…………頼む、立ってくれ……っ」
フリードさんの声は震えていた。
怒りか、嘆きか、それとも……他にも何かあるだろうか。
僕にはそれが分からない。彼がそれを全身全霊で隠そうとするから、無視して突き進もうとするから、僕にはそれを理解することが出来ない。
けれど…………フリードさんの抱いた疑問に対しては、分からないことだらけな中でも共感することが出来た。
「——ミラ=ハークス————? どうした、どうしたと言うのだ。まさか————まさか魔女を失って————っ!
それはダメだ! 目を覚ませミラ=ハークス——っ! 君は勇者だ! 彼の力を継ぐ者だ——っ!
立ち止まってはならない、君だけは立ち止まってはならないのだ! 君が立ち止まれば——それは十六年前の繰り返しに————」
僕にはその動揺の根っこにある、かつての絶望が分からない。
けれど、そのきっかけとなった異常なら分かる。
目の前にいる少女が誰だか分からない。
心が砕けてレヴの精神が表に出てきている……わけではない。
かつてマーリンさんが自らを勇者殺しと名乗って距離を話した時のように、塞ぎ込んで参ってしまっているわけでもない。
勇気を失ったわけでも、希望を取りこぼしたわけでも………………?
「——————ユー————リ————」
「————っ‼︎ マーリンさん——っ!」
騎士の名を呼ぶ小さな声が聞こえた。それこそ蚊の鳴くような声だったが、それでも確かに————
「————また————泣いて————ダメだよ——————男の——子——————」
彼女は確かに生きている。生きているが…………っ。
もう、何も世界を認識出来ていない。
彼女が語りかけているのはきっと過去の————思い出の中のユーリさんだ。
すごく嬉しそうに……楽しそうに……っ。
「——アップルパイを————て——あげる————から————もう————泣——ないで————」
「————ッ‼︎ ミラ=ハークス——ッ! 分かるだろう! それでは助からない——たとえ息があろうとも繋ぎ止められない————ッ! 立ち上がれ——立ち上がってくれ————ミラ=ハークス——ッ!」
そんなの————っ。
違う、そうじゃない。
きっとフリードさんは見たくないんだ。
この人の最期を——大切な仲間の死ぬ瞬間を、僕達に見せたくないんだ。
頼む——と、消え入るような声で懇願しながら、そして僕と同じようにミラの肩に手を伸ばした瞬間——
「————そう急かすなよ——フリード————」
それはミラの声だった。
けれど、ミラの言葉ではなかったのかもしれない。
勇気を失ってなどいない。
その背中にはまだ勇敢さが——強さが残っていた。
小さく丸くなることもなく、希望を見据えて真っ直ぐに伸びていた。
塞ぎ込んでなどいない、絶望などしていない。
勇者はただ————現実だけを見て——————
——全く見覚えの無い魔術——そう、魔術なのだと思う。
ミラの体はその瞳と同じ翡翠色の——薄い緑色の光に包まれた。
青白く鋭い稲光ではなく、靄が掛かったような淡い輝き。
それが魔術だと理解出来たのは、その背中がまだ何も諦めていなかったからだ————
「————ここで終わりになんてさせない————絶望なんてもう許さない————」
光はミラの体からマーリンさんの方へと流れ込み出した。
ボロボロに焼けて今にも崩れそうな身体を、暖かな明かりがゆっくりと包み込む。そして————
「————君なのか————デンスケ——————」
僕はその光景を——その現象を、呪いを知っている。
マーリンさんの体は、見る見るうちに色を取り戻していった。
焼けた細胞が再生していく。ありえない奇跡がそこにはある。
自己治癒の呪い————それは、たとえ死の淵にあっても生を押し付けられる究極の回復能力。
ミラは——勇者はそれを————
「————死なせるものか————マーリン——————」
呪いはマーリンさんの体をすっかり覆って、そしてまたその輝きを強めていった。
ミラと……そして、もうひとり。ふたり分の祝福を受けて、魔導士マーリンの美しい姿は取り戻されていった。
————ここ——は——? あれ、えっと…………僕は今……何をして————?
こんこん。と、木を叩く音がした。
ドア……あれ……ここは、僕の————初めて与えられた僕の仕事部屋————?
「失礼します。巫女様、お食事の準備が出来ましたので……」
————ああ、うん。分かった、すぐに行くよ。と、空返事をして、そして部屋の中をぐるぐると見回してみる。
間違いなく、ここはかつての———おや、これどうしたことだろう。
夢……だろうか。いいや、走馬灯とやらなんだろう。
彼が言っていた、死の淵に立つと昔の出来事が物凄い密度で流れて行くのだと。
そのことを彼の世界では、走馬灯と呼ぶそうだ。
この世界にも似た言葉はあるけど、僕は彼に教わった物の方が好ましいから。
「——巫女様——どうかなさいましたか————?」
——ユーリ————っ。そうだ……僕はお前と…………っ。
ううん、別に怒ってないよ。怒ってないからさ……ふふ。
どうして……ご飯の準備が出来たって呼びに来たんだろう? じゃあさ……
「——ユーリ。またお前は泣いてるのか。まったく……ダメだよ、我慢しないと。男の子だろう?」
ありがとう。これが夢でも走馬灯でもなんでも良い、子供の頃の姿でも構わない。最期にお前の顔が見られて嬉しいよ。
ああ、うん……嬉しいんだ。こんなにも嬉しい……彼以外にこんな気持ちにさせる男が出来るなんてね。
残念なのは……そうだなぁ。もっと————もっともっと早くに気付けてたらなぁ。
これじゃあアギトのことを言えないよ、まったく。
「……はあ、しょうがないなぁ。アップルパイを焼いてあげるからさ、もう泣かないでよ」
ああ——もっと早くに気付いてしまっていたら————僕はお前のことを許せなくなってしまっていたかもしれないな。
そういう意味では……うん、これで良かったのかもしれない。
まだ体の小さな頃のユーリは、アップルパイという言葉に目を輝かせた。
「本当に好きだよね、甘いもの。もしかして、泣けば作って貰えるなんて思ってたんじゃないよな?」
ユーリは何も返事をしてくれなかった。
ああ、なるほど。当時の僕の言葉とかけ離れてると、僕の頭の中にそのイメージが無いから会話にならないんだ。
へー…………そっか。じゃあ……さ。
「…………大好きだよ。大好きだったよ、ユーリ。心の底から愛していたらしいんだ、知らない間に。お前は目敏い奴だからさ、もしかしたら気付いてたのかもしれないけど。僕は——僕は今になって気付いたよ」
ユーリは何も言ってくれない。
うん、それで良い。そんなのありえなかった、この頃の僕にそんな感情は残ってなかったから。
だから、絶対に答えは返ってこない。返ってこないから……返ってこないなら。
「————一緒に————また——一緒に居てくれるかな——? 死後に世界があるなんて思わないけどさ、もし…………もしまた同じように出会えたなら————」
今度は主従じゃなくて——対等な関係で——っ。なんて……どうだろうね。
対等だったら、お前は僕になんて見向きもしなかったのかな。
僕のことを、愛してはくれなかったのかな。
アギトみたいに分かりやすかったら良いのに、肝心なとこで僕の経験値の無さが響いてるなぁ。
「——それは出来ません——巫女様————」
「ッッッ————ぉっ⁉︎ おま————喋っ————っ。バカか僕は……夢の中で取り乱し過ぎだ…………」
喋るな! 返事すんな! っていうか断るなよっ! うわぁん!
うう……そりゃさ、お前にとってはちょっと……めんどくさいし、仕事サボるし、責任押し付けるし、心配ばっかりかけるし、尻拭いばっかりさせたし、そのくせ逆らうと罰があってひたすらに厄介な上司だったかもしれないけどさ………………あれ、コイツよく僕に仕えてたな。
でも……十六年も一緒にいて! こんな……その…………び、美人って……お前、僕のことそう褒めたじゃんか……っ。それを……
「…………ユー……リ…………? なんで……ああ、覚めるのか。僕はこの夢から…………覚めたら……」
ユーリは首を横に振った。
違う……? この夢が終わったらおしまいじゃないのか?
僕は死んで、このまま意識も途切れて。走馬灯もそこで……
「————巫女様——どうかお元気で————」
————必ず——勝利を——————
僕の夢の世界は光に飲まれた。
薄緑色で暖かな光。どこか懐かしい……気持ちの良い、優しい光で…………
————死なせるものか————マーリン————
「————デンスケ————?」
光の中で僕は声を聞いた。
辺りを見回しても同じような緑ばっかりだったけど……一部だけ、オレンジ色の光が混ざってる。
そこに向かえば良いの……? そこに向かえば君が…………もう一度、君と——————
「——————ま——————リンさま——————マーリン様——っ!」
「——ミラ————ちゃん————?」
光の中を泳ぎ回って、僕はどうやら世界に帰ってきたらしい。
ボロボロと涙をこぼす少女は、僕のことを思い切り抱き締めて…………ああ、暖かい。暖かくて…………懐かしい。
君は————君はまだ、そこにいたんだね————




