第六百二話
マーリンさんが……死ぬ……?
勝てないって……マーリンさんが——マーリンさんが、よりにもよって————っ。
「————ぅ——ぐぁあ——っ」
「——マーリン様————ッ‼︎」
肩を貫かれたマーリンさんの悲鳴に、ミラは叫び声をあげて檻へと突進した。
ばんっ! どんっ! と、何度も鈍い音が響くのだが……それは全て、少女の小さな肉体が硬い鉄に叩き付けられているだけの音。
荊棘はビクともせず、檻の中に干渉する手段は僕達の手には無かった。
「——まず、腕の一本。抵抗なさらなければ苦痛もありませんのに」
「————っ——ぁっ————ッ! 手傷ひとつで——思い上がるな————っ!」
貫かれたまま反対の手で振り回した杖も、ユーリさんは軽く片手で払ってみせた。
そして剣を引き抜きながら、また悲鳴をあげる彼女の背中を思い切り蹴り飛ばす。
暴れていた所為で受け身を取る余裕さえ無くて、マーリンさんは怪我をした肩を庇うことも出来ずに、思い切り地面に叩き付けられてしまった。
「——っ。どうして…………ユーリさん! どうして貴方が……っ! どうして……マーリンさんを…………」
「ぅあ…………げほっ。アギト……やめろ……っ。それは君の悪いところだ。人を疑わなさ過ぎる。自らを敵だと口にする男まで信じ続けるのはやめるんだ……っ」
敵…………っ。どうして……どうしてユーリさんが。
十六年だ。十六年もずっと一緒にいて……ずっと……っ。
本当に仲良しに見えた。本当の本当に敬愛しているって、大切に思い合ってるって……っ。
キリエからクリフィアまでの短い旅の間だけじゃない、ガラガダで出会ったばかりの時から凄く誠実そうな人だって。
凄く、自分の立場に誇りを持ってる人だって…………思ってたのに…………
「——っ。雷帝の鉄槌————っ!」
「——っ! 驚きました…………いえ、本来驚くようなことではないのですが。炎以外の……とりわけ、雷の攻撃的な魔術を行使するのは、私の見る限りでは初めてでしたね。しかし……」
マーリンさんはユーリさんに背を向けたまま、自分の口の動きを悟られぬ内に不意打ちで雷魔術を撃ち込んだ。
その威力は間違いなくミラの魔術と同等かそれ以上で、その攻撃範囲は間違いなく人間が避けられるものではなかった。
だが…………不意をついて尚、ユーリさんは言霊の終わりよりも先に防御を固めてしまう。
杖を中心に四方八方に撃ち出された電撃は、いとも容易く剣で受け流されてしまった。
「はあ……はあ……っ。その剣……いや、装備全部が魔術を…………」
「いいえ。剣も鎧も、服も、靴も。そして——私自身の肉体も。全てが魔術を打ち消します。観念してください、巫女様。貴女はここで、負けるべくして負けるのです」
ギリっ……と、奥歯を噛み締め、そしてマーリンさんは杖を握り直して急いで距離を————
「——っ————っぁ——————」
「————相変わらず聞き分けの無い方だ————」
距離を取る為。逃げる為、反撃の糸口を探す為。走り出す為に蹴り出した脚を————左脚の踵を、ユーリさんは容赦無く突き刺した。
本当なら前に踏み出して地面を蹴る筈だった脚は力無く弛み、前に進む筈だった体はまた地面に叩き付けられる。
アキレス腱を…………っ。これじゃもう……戦うどころか歩くことさえ…………
「————っぁあ——ッ! 揺蕩う雷霆————」
それでもマーリンさんはもがき続ける。思い切り打ち付けて膝に大きな痣を作りながらも、まだ動く右脚一本で思い切り前に飛び込んだ。
着地のことなんて何も考えず、ただユーリさんから距離を取る為だけに。
また顔から地面に倒れこんで、それでも勢いに任せて転がって受け身をとって。マーリンさんは血だらけになりながらも、およそ五歩程度の間合いを確保した。
「燃え盛る————」
「——無駄な抵抗を————ッ!」
距離を離して、自分が巻き込まれない程度の安全地帯を確保して。そうしてやっと唱えようとした火炎魔術の言霊に、ユーリさんが黙って見ているなんてことは無かった。
剣を振りかぶり、五歩の間合いをたった一歩で————
「——————揺蕩う雷霆Ⅲ————」
「——何を————っ⁉︎」
強化魔術⁉︎ と、驚いてる余裕は無かったが、麓でフリードさんに掛けていた高出力の強化の言霊は、この場においてあまりにも異常なものだった。
それで逃げ切れるのならば最初から使っているだろうし、今になって——脚を負傷して手遅れになってからでは、まるで意味が無いからだ。
しかし——しかし、しかしだ。
目を疑った、余裕があったなら驚いたであろう光景はその後。
頭を抱えて低く伏せるマーリンさんの上を、バチバチと青白いスパークを身に纏ったユーリさんが、凄く不自然な体勢で飛び越えたのだ。
「——っ。燃え盛る紫陽花——っ!」
そしてそれを見届けると、マーリンさんは再び火炎魔術を行使して、その熱と突風で上空へと飛び上がる。
そうだ、空からならまだ戦える。檻の中という制限はあれど、その縛りによって向こうもさっきみたいな飛び道具の数が限られている。逃げに徹すればまだ勝機は——
「————悪手だ——魔女————っ。それは————その男は————」
「……フリードさん……?」
僅かな希望を見出したその直後のことだった。
上空で杖を構え直したかと思った矢先、マーリンさんの体は再び剣によって貫かれ————っ‼︎
速い——いや、速いなんてもんじゃない——っ!
目で追うことすらかなわない程のスピードで、気付けばユーリさんは必死に見出した空中という勝機にまで容赦無く踏み込んでいた。
脇腹を貫かれ、服を掴まれ。振り払うことを試みる権利すら与えられぬまま、マーリンさんはまた地面に————っ。
「——面白い————今のは実に面白かった——。やはり貴女は秀でている。魔術の才能……知識量、知恵。魔術の出力も、魔力量も。それらを使い熟し万能に至るだけの機転も。
ですが————効力をもう一呼吸短くすべきでした。この結果は私への侮りが生んだものと言えるでしょう」
何を言って……っ。そうか、強化だ。麓でフリードさんに使った……いいや、きっとフリードさんにしか使いこなせなかった高出力の強化魔術。
かつてフルトで僕がミラのそれを使いこなせなかったように、制御しきれない程の出力の魔術をユーリさんに掛けたんだ。
目論見通り、ユーリさんは一歩を大きく……大きく大きく踏み出し過ぎてマーリンさんを飛び越えた。だけど……
「————魔女————っ」
「——やはり——希望を全て摘まねば分からないようだ」
あまりに悲惨な光景に、僕は思わず目を背けてしまった。
目を背けて……その先で、涙を流しながら悲痛な叫びをあげるミラの姿を見つけてしまった。
ユーリさんはマーリンさんの翼を切り落とした。
もう抵抗は許さぬと、ここで確実に仕留めるのだと。そう言わんばかりに、彼女の左の翼を根本から切り落とした。
大切な人だった筈のマーリンさんを足蹴にして、鷲掴みにした稲でも刈り取るように。
「——————ぅぁあああ————ッッ‼︎ ぐっ————ぁあ————っ」
「……成る程。当然と言えば当然ですが、血も通っていたのですね。魔術による部位の反映、肉体改造ではなく、本当に身体の一部…………巫女様、貴女は本当に————」
——燃え盛る紫陽花っ! と、言霊を叫び、マーリンさんは自ら諸共爆炎の渦でユーリさんを飲み込んだ。
しかし、立ち昇る炎の竜巻は規模が大きくなる前に切り払われ、マーリンさんは凄く不快そうな顔をしたユーリさんに蹴飛ばされて地面を転がった。
そこら中から血を流しながら、焼けた喉で必死に息を吸おうとしているのが目に見えた。
「…………最低の手段ですね。巫女様、それでははもう満足に言霊を唱えられない。詠唱など以ての外。息を吸うのもやっとという状態にまでなって尚、貴女はまだ私に勝利するなどと妄言を吐かれるのか」
ユーリさんの言う通りだった。そして、フリードさんが言っていた通りだった。
マーリンさんにはもう、勝ち目どころか抗う手段さえ残されていない。
これが彼女の本気と言うのならば、間違いなく桁外れの傑物で間違いなかった。
今の全開のミラの雷魔術にだって引けを取らない、正真正銘この国で一番の魔術師だ。
けれど……そんな彼女の一撃でも、ユーリさんはいとも容易く切り払ってしまう。言霊や詠唱を先手で潰せてしまう。
そしてもう……その魔術さえ行使出来る状態じゃなくなった。こんな……こんな最期が————
「——っ! ユーリさん! やめて——やめてください——っ! だってあんなに——あんなに仲良しだったじゃないですか————っ! 尊敬してるって——守るべき人だって——っ。やめて……マーリンさんを…………殺さないで…………」
僕の言葉など歯牙にも掛けず、ユーリさんは杖に頼ってやっと体を起こしたばかりのマーリンさんを蹴飛ばした。
がんっと思い切り後頭部を岩だらけの地面に打ち付けて、マーリンさんは僕らの目の前まで転がってきた。
その目はもう虚ろで、意識だってはっきりしてるようには……っ。
「————ッ‼︎ ユーリさん————ッ!」
「——黙れ——部外者が————ッ‼︎ 世界の住人ですらない貴方に——この国の行く末をとやかく言われる筋合いは無い————ッ‼︎」
——部外者————っ。ユーリさんの言葉に、僕は最後の抵抗の意志さえ失った。
そう……だ。僕は部外者なんだ。
この国の、世界の。マーリンさんの……勇者の仲間としても……っ。僕だけが…………
「————ら——こら————バカ——ギト——っ。なん——顔してるんだ————」
「——マーリンさん——っ。マーリンさん! しっかりして! 死なないで‼︎ くそ……開け! 壊れろよっ‼︎」
——っ! 違う——違うだろバカアギト——っ!
頼ってくれたじゃないか、認めてくれたじゃないか。
マーリンさんは、勇者として僕を選んでくれた。臆病さにこそ強さがあると役割をくれた。
どれだけカッコ悪い、嬉しくない、ネガティブな役目だとしても。彼女は僕を本気で信じてくれたじゃないか——っ。
見ればそこには、もうロクに声を上げられないマーリンさんが、いつもみたいに優しい顔を向けてくれていた。
こんな——こんな時にまでお説教かよ——っ。ふざけんな、絶対に死なせてたまるか!
棘なんて関係無い。僕は思い切り荊棘を掴んで、そして全身全霊の力で…………っ。
ダメだ……フリードさんやミラが、そして中での激しい戦いでも壊れなかったんだから分かってたんだけど。僕の力じゃびくともしない。
でも……でもこれをなんとかしないと——マーリンさんが————っ。
「————ユー——リ——。ごほっ……げほっ……ぜぇ……ぜぇ……っ。確かに……お前が徹底的に準備してきた対策は……見事だ……っ。まさか……これでも…………ごほっ。壊れない……なんて…………げほっげほっ」
「マーリン様! 喋らないで! もう喋らないでください! っ! アギト! 強化を掛ける、せーのでいくわよ! フリード様も一緒に!」
揺蕩う——と、強化魔術を唱えようとしたミラに、マーリンさんは待ったを掛けた。手のひらをこちらに向けて、それはよすんだ、と。
でも……でもこのままじゃ……
「…………そう……だね。お前はきっと…………言霊を唱えようとすれば……っ。ぐっ……ごほっ……っ。それさえ許さない……ひと太刀で首を刎ねられるだろう……ああ……憎たらしい…………敵に回すとこれ程厄介とは…………ね……」
「……巫女様。私ではなくアギト殿に、ミラ殿に。そして……フリードリッヒ王子に、別れの言葉を残した方がよろしいかと」
ユーリさんはボロボロになったマーリンさんを見ても顔色ひとつ変えず、冷酷な程毅然とした態度を貫いていた。
どうして……本当に……本当に何も変わらないじゃないか……っ。
何も……マーリンさんの隣にいた頃と何も変わらないのに……どうして…………こんな…………っ。
「……ユーリ……そうだね、僕じゃお前には勝てなかった……でも、フリードなら…………ミラちゃんなら分からない……よ……? ああ……うん…………でも…………残念ながら……それを証明する……手段……が…………えほっ……無い……ね……」
「……そうですね。檻の中にフリードリッヒ王子が入る頃には、貴女はもう……」
ううん。と、小さくて、もう掠れてしまって聞き取れなくなる寸前の声で、マーリンさんはユーリさんの言葉を否定した。
首を横に振ることもかなわないで、焦点の合っていない視線をフリードさんに向ける。そして……
「…………ユー…………リ…………悪い……け……ど…………お……ま…………え……」
「…………ひと息に。巫女様、どうか安らかに————?」
マーリンさんは笑った。すごく子供っぽい、マーリンさんっぽい笑顔だった。無邪気で悪戯っぽい、天真爛漫な笑顔だった。
いつだってこの人は、こんな子供みたいな笑顔で頼もしく居てくれた。
この笑顔の裏には、凄く張り詰めた不安や恐怖が蠢いているにも関わらず、かっこ良いまま助けてくれた。
いつだって——この笑顔のマーリンさんは————
「————の——負——けだ——っ。僕には——最初から————」
——————言霊は必要無かったんだ————————
「————伏せろ————ッ!」
フリードさんの大きな手で、長い腕で抱き上げられて、僕とミラは檻から離れた場所に匿われた。
それはあまりにも大き過ぎる爆発だった。あまりにも————あまりにも大き過ぎて——————っ。
「————マーリン様————ぁぁああ————ッ‼︎」
荊棘が、檻が。今まで何をやってもビクともしなかったその壁が砕けていく。
爆風と熱が僕達を庇うフリードさんの腕の隙間から流れ込んでくる。
これは最早魔術の域にはない。
専門家でもなければ魔術師でもない僕だが、それでも多くの一流…………超一流、規格外の術師を見てきた。
それだけ目の肥えた素人の脳内にも“魔法”という単語が思い浮かぶ。レアさんが放った雷と同じだ。
背筋が凍り付く。動物の本能がそれを危険だと——逆らえぬ大自然に匹敵するのだと叫ぶ。
そんな大爆発が——あんな狭い空間で————
「————マーリンさん————っ」
ミラの悲鳴は途絶えなかった。
爆風が、白炎が。全てが景色を飲み込み続けるあまりに長い瞬間にも、ミラはマーリンさんの名を叫び続けた。そして…………
荊棘の檻は跡形も無く吹き飛んでいた。
一帯に生えていた僅かな草木は全て消え、そして焼けて真っ赤になった岩だけが残された。
炎は消え、煙も晴れて。そして……絶望感だけが残される。
「————ユーリさん——っ」
そこにあったのは、仁王立ちで何かを見下ろす男の姿だった。
鎧は砕け、剣も溶けて手にくっ付いてしまっている。
全身から血を流すことも出来ぬ程の大火傷を負い、焼けた肉の赤と焦げた布の黒だけでそのシルエットは描かれていた。
「————マーリン様——っ!」
声を上げたのはやはりミラだった。
それによって僕の意識も、視線をユーリさんから外してある存在を認知する。
ボロボロに焼けた片翼。殆ど燃え尽きてしまって残っていない銀の髪。そして……もう誰かも分からぬ程に焼け爛れた、美しいあの人の顔。
魔人ユリウスが見下ろす先に、確かにその人は倒れていた。
「——————ぉぉ————ぉぉぉおおお————ッ!」
獣の唸り声のような叫びをあげて、ユーリさんは腕と一体化した剣を振り上げる。
声を発する器官なんて無事に残ってるわけもないのに、何かを吠えようと必死に喉から空気を絞り出す。
ゴボゴボと血を吐き出して、くぐもったうめき声をあげて。
そして——剣を高く掲げ、マーリンさんの前へと————
「——————ここ——より————した——て————まし——————」
————ガツン! と、折れた剣は地面に突き立てられた。
彼の言葉は、どうやら僕にだけ聞こえたわけではなかったらしい。
ミラも、フリードさんも。ふたりともただ黙ってその光景を眺めていた。
片膝を突き、こうべを垂れ。剣に額を当てて忠義を誓うその姿を。
皮膚の殆どが焼け付いて表情なんて分からなかったけど、その騎士は凄く晴れやかな顔で光の粒となって風に消えた。




