第六十話
余裕のある家庭ではなさそうだ。と、僕は家に入った時、失礼ながらそう感じた。狭いとか汚いとか、そう言うんでは無く。絶対的に物が少ないのだ。こんなに小さな子供がいるのに、遊び道具の一つだって見当たらない。いや、家族の写真や食卓を彩る一輪挿しも……生活に最低限必要な家具一式でやっと、と言う様子だった。
だからある程度は予想しておかなければならなかった。この街は魔術師の隠れ里。彼女が魔術痕をあらゆる物から見出せる様に、ここの住人もまた同じく彼女から魔術痕を見出せると言うことを。
「ひっ……も、申し訳ありません‼︎ うちの子が大変な無礼を働きました! お願いします! どうか、どうか子供のした事とお許しください‼︎ 罰は代わりに私が受けますから‼︎」
「ちょっ……お、落ち着いてください。別に俺達は……その子だって別に何も悪いこと……」
少女をポーラと呼んでいた痩けて顔色の悪い若い母親は、ミラの姿を目にした途端顔を一層青くして膝をついてせがむように僕らに謝った。女性が何を勘違いしているのかは僕にはまだ分からない。だがその表情は冗談や勘違いというにはあまりに逼迫した様子で、僕は僕でまたパニックになってしまう。だってこんな反応は初めてだ。これじゃあまるで僕らは……
「……圧政者ね、まるで。申し訳ありません、お騒がせしました。私達は旅の者です。この街の魔術師ではありません」
力無く顔を覗かせるだけだったミラも目を覚まし、ズイと身を乗り出して母親にそう声をかけた。幾度となく聞いてきた市長を演じてきた声だった。
「そ、そういう訳なんで……すいません、顔を上げてください」
「……旅の……? ですが私どもメズが魔術師様を前に“人の様に立つ”などと……」
ギリ——っ。と、耳元で強く歯軋りする音が聞こえた。肩を掴む手にも一層力が込められ、彼女は震えた声で——それでも毅然と、それを察されぬ様に深々と頭を……僕の頭を下げさせた。
「……失礼しました。私達はもう行きます。この事は決して口外しないよう努めますので」
そう言うと彼女はもう一度僕の背中に隠れるように小さくなって、僕に家から出てこの住宅街から離れる様に指示した。母親とポーラちゃんの事は気掛かりだったが、僕は彼女の指示に従うことにした。
「…………メズ、ねえ。素晴らしい、本当に素晴らしい魔術師のための街だわ」
人気の無い道を戻り、大通りを行ったり来たり、小道をぐるぐる回ったり。細かく出される指示通り進んで、彼女がまた口を開いた場所はあのビーフシチューの匂いがする大きな建物の前だった。
「思い出したのか? 結局なんなんだそのメズって」
「……話は後よ。先にご飯にありつきましょう」
ご飯に……って、ここはさっきあしらわれたばかりで……分かった! 分かったから耳をくすぐるな!
「……はあ。ご、ごめんくださーい……」
こん、こん。と、僕はまたこのドアを恐る恐る叩く。さっきの家に比べるとやはり……いや、比べるのも失礼な程立派な建物だ。
「はいはい…………またあんたかい。メズなんぞに食わす飯はねえって、さっさと帰んな」
うぐっ……やはり……分かっていてもこう冷たくされると…………心が……折れる……っ。アーヴィンは本当にいい街だった。ああ……もうっ! 帰りたい! 今すぐに帰ってロイドさんにあったかいものを食べさせて貰いたい‼︎
「——取り消しなさい。“コレ”は私の従者です。“メズ”などと呼ぶとは何事ですか」
暖かい息がかかっている筈なのに、耳元がヒヤリとした。聞き覚えのある声は、全く会ったことの無い人の様な言葉を吐き、しれっと僕の事を従者と呼んでその顔を上げてお爺さんを睨んだ。
「こっ——これは失礼致しました。魔力を感じませんでしたので、まさか貴女の様な方がいらっしゃると……いえ、それも“メズ”などと……大変失礼を……」
「……いいでしょう、この件は不問とします。ではもう一度尋ねます。ここらで食事を取れる場所は無いのですね?」
あまりにミラのものとは思えない高圧的な言葉に、僕はすぐ側にある見覚えのある顔を見ていなければ彼女の存在を認知出来なくなる手前まで来ていた。誰だ……誰だお前は⁉︎ さっきまでこう……死んだぬいぐるみ(混乱)みたいになってたじゃないか⁉︎
「申し訳ございません、すぐに準備致します」
お爺さんはそう言い残すと、急いで奥へと引っ込んでしまった。中に入れば、やはり……と言うべきか、何台もテーブルが並べられていた。ここは間違いなくレストランだ。
「…………はあ。アギト、後の対応はよろしく。もうお腹空きすぎて……声も……」
「ミラ? ミラさん? ちょっと?」
ぐったりと全体重を預けられたのが分かった。さっきからひっきりなしに鳴っている彼女の腹の虫が、背中越しに僕の腹にまで響いて来そうだ。空腹は分かる、そりゃあ分かるのだが。僕はまだなんの説明も受けていないのだが。
「お待たせしました。申し訳ありません、生憎こんな物しか出せませんで……」
「……ぅえっ、いえいえ! すいません、高圧的な態度を取ってしまって。その上こんな……豪華な食事まッ⁉︎」
僕らの前に出されたのはおそらくビーフシチューなのだろう。ビーフ……かは疑問が残るところなので、推定ビーフシチュー、と。そう、推定ビーフシチューが、各種食器を引っさげて鍋でやって来たのだ。そりゃあ僕も驚いて変な声くらい出すってもんですよ。しかし何が気に食わなかったのか、背中の上の暴君は僕の頭を小突いて、よろしい、もう下がりなさい。と、お礼すらきちんと言わず——言わせずに、お爺さんを追い払ってしまった。
「……ミラ、いくらなんでもそんな態度は……」
「……分かってる。とりあえずご飯よ」
いつかの様に僕は肩越しに彼女にご飯を食べさせる。ビー……何肉かはわからないが、ほろほろと口の中で解ける程柔らかく煮込まれたお肉に、デミグラスソースの様な味の濃厚なソースが合う。一緒に煮込まれた根菜類もスプーンを当てるだけで切れ、それでもグズグズにはなっておらず、野菜の甘みがソースの酸味と合わさって……
「…………こんなんじゃ……美味しくないだろ……」
「…………分かってる。ごめん」
空腹だから、とにかく食べなくちゃならないから箸が進む。味も申し分ない。だというのに、僕にはそれがとても味気ない物に感じられてしまう。少し前の、部屋にこもりきりだった頃の僕ならこうはならなかったのだろうかと思うと少し怖かった。
「……食べ終わったら一番大きな建物を探しましょう。この街で一番偉い、優れた魔術師を。諸々の説明は道すがらするわ」
僕は黙って頷いた。お爺さんには申し訳ないのだが、これも安全な旅のため。本当に申し訳ないのだが。僕はお皿に二杯くらいしか食べていないのだが! 後ろのこの子が全部食べちゃったんです! 本当に申し訳ない! なんとかお爺さんにお礼を言いたかったのだが、近くには見当たらず、また彼女もお爺さんを探すことも待つことも許してくれなかったので、僕は仕方なくお店の玄関に向かって頭を下げた。
「…………アンタのそういうとこ好きよ。ごめんね、嫌な思いさせて」
「……いいから。説明してくれよ」
そういうの他の奴には絶対言うなよ? と、心の中で釘を刺した。いえ、別にそんな。ち、違うし! 勘違いとかしてねーし! 他意がないことくらいは? 分かってますし⁈
「……思い出したのよ。“メズ”ってのがなんなのか。まずはそれから話しましょう」
重たい沈黙の中歩き始めて、しばらくして彼女は口を開いた。そう、ずっと彼女の喉元で引っかかっていたその言葉。お爺さんも当然のように使っていて、あの母親も自分のことをそう呼んでいた。しかし僕もそこまで馬鹿じゃあない。これはきっと……気持ちよくない話だ。多分差別用語だとか……迫害の為の……
「…………メズって単語を聞いたのは、小さい頃に一度だけ。まだお姉ちゃんと一緒に魔術や錬金術を習っていた頃ね。それは……」
彼女はそこで口を噤んだ。やはり口に出すことも憚られるような、ひどい言葉なのだろうか。苦しそうだ、もうやめさせよう。別にそこまでして……と、僕は彼女に制止の言葉を投げ掛けようと口を開くのだが、それは一歩遅れてしまったようだ。
「————実験動物——。ケージに入れられたネズミのことよ」
彼女の声は悲しみではなく怒りに震えていた。