第五百九十話
また……久しぶりに夢を見た。
水の中に沈んでいて、真っ暗な中に女の子の影があって。
それがミラなのか、レヴなのか。或いは幼い頃のレアさんなのかは、結局その日も分からなかった。
ただ……ただ、それを今日のこの日に見たのはきっと、重大な意味があるんじゃないか……って。
「…………ミラ……? 返事しろよ、おい。ミラじゃなかったら…………えっと……」
浮遊感と言うか、体の感覚が朧なのは夢の中だからだろう。決して水中だからではない……と思う。
末端の感覚は相変わらずだったが、視覚的にそれが落ち着いて来た頃……言ってしまえば、底に着いた時。影が初めてこっちに意識を向けた気がした。
「……レアさん……なんですか……? それとも……やっぱり……」
顔は見えなかった。ただ口が動いたのが分かって、けれどその動きからは音なんて分からなくて。
影の方からではない、ずっとずっと遠く……きっと、意識の更に奥の方から声が聞こえた。
————間に合ったのですね——————
僕はその声を知っている。いいや、知っていた。
初めてこの世界にやってくる日、無為に落ちた眠りの中で聞いた安らぐ声。
ミラでもマーリンさんでも、花渕さんでも母さんでもない女の人の声。それはきっと————
「————地母神様——」
喉の辺りが熱い。また吐き気に……と、そういう情けない話ではない。喉と言わずお腹も熱い……てか暑い。暑くて暑くて……
「……おはよう……は、もうちょっと先で良いな」
腕の中にはミラの姿があった。
少しだけ久しぶり、けど忘れるわけない温もりに、少し浮ついた心も落ち着きを取り戻す。
やっぱり僕がいると安心するらしい。昨日とは打って変わって、全然起きる気配が無い。まったくお兄ちゃんっ子だなぁ、お前は。
「…………っ。僕は……俺は俺のやるべきことを……」
ミラを抱きかかえたままゆっくりと体を起こし、そして昨日纏めた荷物に目をやった。
新品のホルスターに差された一丁の拳銃、そして敗北を決定付ける希望の魔弾。
この先では、僕の中途半端は間違いなく全員を危険に晒すことになる。
今まで何度もそうやってミラを傷付けてしまった。
今回はそれが許されない、絶対に出しゃばってはならない。
卑屈と言われようが、お荷物と言われようが、役割を与えて貰った以上はそれを全うすることだけに全力を尽くす。
「ふたりとも、まだ寝てるかい」
こんこんと控えめにドアをノックしたのはマーリンさんだった。はて、どうしたのだろう。
起きてますよ。と、ミラを刺激しないように静かに返事をすると、部屋の鍵がひとりでにかちゃんと開いて、そしてゆっくりとマーリンさんが顔を覗かせた。だから……勝手に……
「どうしたんですか? まだ出発には時間が……」
「…………事情が変わってね。魔獣の結集が思ったより早そうだと連絡が入った。だから……」
だから……と、それから二度繰り返して、そしてマーリンさんは黙り込んでしまった。
ああ、言いたいことは理解出来た。出来たけど……それを言い淀まれると若干傷付く。
大丈夫ですよ。と、言う他に無いけど……まあ、今日は素直に聞いてくれるだろう。
「……大丈夫ですよ。俺達だけでも迷子にならないですし、もちろん逃げ出したりなんてしません。ミラが起きて、ちゃんと時間になったら向かいます」
「珍しく話が早いね。うん……ごめん。僕とフリードは先に行く。連絡の為に、隊の半分を連れて行かないといけない。君達と一緒に同行する戦力が、予定の半分以下になってしまう。だから……ごめん、絶対になんとかして欲しい」
なんとかして……か。いやはやマーリンさんにしては乱暴で粗野なお願いだこと。
でも、僕達が自力でなんとかする以外に道が無いんだろう。
頭を下げたままのマーリンさんに、僕は分かりましたと返事をして……多分、笑えただろう。
安心してください、任せてください。そんな覚悟を伝えるだけの顔を、きっと浮かべられた筈だ。
「……もし何かあれば信号を送って。ミラちゃんの魔術で知らせてくれれば文字通り飛んで行くよ。じゃあ……また後でね」
「はい。マーリンさんもお気を付けて」
マーリンさんは黙って頷くと、踵を返してトタトタと早足で廊下を進んで行った。可愛い足音なこった。
いつもより音の間隔が短い……歩幅が狭いのは、緊張の所為だろうか。それとも、大股で歩けない程がっちり装備を固めているのか。どちらにせよ物騒な話だ。
「…………朝飯……なんだろうな」
こんな時に悠長な……と、自分でもそう思ってしまう間抜けな独り言が不意に出た。
まだ時間はずっと早くて、窓の外も白んだままだ。
後一時間以上経って、ご飯を食べて。それから荷物を持って馬車に乗る。
そこからはひたすら北へ、北へ。
ああ……僕達の旅はいつだって北に向かっていたな。終着だと思ってたここからも更に北とは……
「はあ……やだやだ。折角なら違う方角へ…………って、これはお前のセリフだったな」
ぽんぽんと背中を撫でて、そしてもう一方の手で頬を撫でてやると、ミラはぐるりとまた一回り小さく丸まって、むにゃむにゃと夢の中で何かを食べ始めた。おいおい、僕の手を食べるなよ?
「…………大丈夫、落ち着いてる。意外と……うん、意外と」
マーリンさんの顔を見たから? それとも、向こうで意図せず励まされたから?
いえいえ、やっぱり可愛い妹が素直に抱っこさせてくれてるからでしょう。間違いない。
願わくばこのまま……もう魔王なんてほっといてこのまま寝てたいけど、たった今約束しちゃったしな。
やることやんないと、明日から口聞いて貰えなくなっちゃう。いえ……そんなしょうもない次元の話じゃないんですけど。
「……っし、もうちょっと寝とこうかな。アラーム…………ぐぐ……アラーム無しで二度寝するの怖いな……こいつ絶対起きないもんな……」
きっと、出発してしまえば休憩なんて無いだろう。あったとしても緊張でロクに休めやしないだろうし。
だったら今の内に……って、思ったけどなぁ。
これで寝過ごした結果世界が滅びましたとか…………シャレにならないので。
「………………起きてないとダメかぁ。はあ……そうなると…………お前邪魔だなぁ……」
「……邪魔とは何よ、バカアギト」
——っ⁈ お、起きてたの⁈ 珍しいこともあるもんだ。
ミラは目をパチリと開けて僕を睨むと、そのままするすると僕の腕から抜け出し、ベッドの縁に手を掛けて伸びをした。おま…………やっぱりあの店の猫ちゃんと一緒じゃないか。
「……寝てらんなくてね。でも、魔力は可能な限り回復しておかないといけないし。だからちょっとでも……って、思ってたけど」
「うぐっ……ご、ごめんな……もうちょっと寝てても良いから……邪魔じゃないから……」
もう大丈夫よ。と、そっぽを向いてしまった…………うう、ヘソ曲げてるよなぁ。
やっと甘えてみようかなぁって気になったんだろうか、それなのに悪いことしたなぁ。
ミラはぴょんとベッドから飛び降りて、そしてカーテンをかっぴらいて窓の外を睨み付けた。その姿はいつか、クリフィアで……
「…………行くわよ、アギト」
「……っ。おう……」
いいや、いつだってそうだったな。
ミラはいつも勇気に満ちていた。
何も特別なことは無くても、どんな時だって前を向いて戦っていた。
大丈夫、負けるわけない。
言ってしまったら、今までだって勝ち目の無い戦いに挑んで、それでも…………あ、いや……負けてはいるか。
負けてもちゃんと生きてここまで……………………今回は負けたら帰る場所が無くなるんだよな…………
「……はあ。バカアギト、なんて顔してのよ」
「だ、だって……ふぐぅ……お腹痛い…………」
そのネタももう飽きたわよ。と、容赦無く切り捨てる非情な妹を前に、僕は胃痛と頭痛のふたつの悪魔と戦わなければならなくなってしまった。
おまっ……ネタとか言うな。こんな嫌な持ちネタあってたまるか。盛り下がるわこんなもん。
「良いわ、ご飯食べてからでも。今から気合入れてたら、アンタすぐにへばっちゃいそうだし」
「くっ…………な、なんかお前……最近あたりがきついよな……」
そんなことないわよ。と、ちょっとだけ不服そうにしてる辺り、本当に無意識にやってるんだろうか。
だとすると……うーむ、前までの素直な甘えん坊の方が可愛かったなぁ。
人に好かれる為のものだったんだし、当然っちゃ当然だけど。
けどま、このくらいなら許与範囲だ。お兄ちゃんにもっとガンガン毒吐いて来なさい! いや、出来ればゴロゴロ甘えて欲しいけど。
僕達はその後、少し早めに大食堂へと赴いて朝食を摂った。
みんな事情は分かっててくれたみたいで、そこには既にいつでも調理に取り掛かれるように料理人が待機していた。
みんな……みんな僕達を応援してくれてるんだ。
香辛料とニンニクの辛味が強い牛肉のスープをたらふく食べて、ミラは心身共に万全の状態で馬車に乗り込んだ。僕は…………お腹が……ふぐぅ…………




