第五百八十八話
ゆっくり……そう、ゆっくりと意識が覚醒していった。
眠ったのがかなり早かったから、今朝も当然早い時間に目が覚めた。
カーテン越しの窓の外がまだ薄暗くて、やや肌寒くて。時計で時間を確認するより先にそれを理解して……そして……
「————っ————うぷ——」
僕はいち目散にトイレに駆け込んだ。
我ながら本当に……はあ。溜め息なんてついてる余裕も無いんだけど、それでも呆れてしまうくらい細い神経だこと。
「あれだけカッコ付けて…………うぷっ……おえぇ…………」
二日後……こちらでの二日を終えた後の向こうでの明日。
いつかはそうなる、きっとやってくる。でも……でも、そうはならないかもしれない——
一度として真面目に考えたことが無かった、自分の未来を考えなかったってのが良く分かる。
——いつかは魔王という脅威と戦わなくちゃいけない。
魔人の集いや魔獣なんて明確な危険とアレだけ対峙しておきながら、最後にやってくるのが分かっていたこの恐怖に、僕の心は今更になって慌てふためいているんだ。
「…………ごほっ……はあ…………はあ……」
体が震えた。ガチガチと奥歯が音を立てていて、指先がだんだん痺れてきて。唇が、頰が、そして頭が痺れてきて。
過呼吸になりかけてるのかな。なんて、そんな冷静なフリもして。
僕は誰もいない狭いトイレの個室の中で、ただひとりでその不安と戦い続けた。
大丈夫、すぐに朝が来る。朝が来て…………朝が来れば…………誰かが……誰も…………っ。
朝食を食べる元気も無くて、僕はまだどこかこっちの世界に気持ちを切り替えられていないままお店にやって来ていた。
気付けばここにいた、家を出る時に行ってきますを言ったかも覚えていない。
けれど……ここへ来れば、制服を着れば。スイッチが入って、きっと向こうのことを一度忘れられると……そう願って。
「……お客さん……来ないね」
綺麗な声だった。女の子の、透き通るような気持ちの良い声。
ミラの元気いっぱいな声とは違う。マーリンさんの色気を含んだような、それでもいたずらっ子みたいな幼い声とも違う。
清流のように澄んでいて、風に乗ってサラサラと耳を通り抜けていく声。なんだろう、すごく……
「……アキトさん……?」
「…………なんか……楽になった……かも……?」
すとんと胸のつかえが取れたみたいな。息苦しさが無くなって、さっきまで掛かってた靄が晴れて、心が秋人に取り戻された気分だった。
諦めないでよ。と、ちょっとだけ焦った様子で僕の肩を叩いているのは……綺麗な声の花渕さんだった。
ああ……癒し。マジで癒し、お願いだから耳かき音声……
「…………だ、大丈夫……? アキトさん今日なんか…………なんかヤバイよ……?」
「ヤバ…………ま、まあ…………自覚はあるけど……」
顔真っ青でフラフラだよとか、集中力が足りてないよとか。いつもならもうちょっと具体的に突っ込んでくれる花渕さんが、今日は随分とふわふわした心配の仕方をしてくれるではないか。
成る程、原因が想像出来る範疇に無いから、僕の表情からも何も分からないんだな?
マーリンさんもそうだった。頭の中に無い答えは、どんなにヒントが出ていても求められないのだ。そんなことはどうでも良くて。
「ちょっ……あ、アキトさん……本当に大丈夫……? マジでなんか……なんか変だよ、今日。どうしたの……そりゃいつもボーッとしてるし間抜けな顔してるけど……」
「………………ぐふぅ……」
心配するついでに斬り付けていくのやめてよ! い、今のはちょっと本気でキツかった……っ。
大丈夫大丈夫、なんでもないよ。とか、そんな誤魔化し方でこの子が納得するだろうか。
引き下がってはくれるかもしれないな…………いやいや、それはあまりにも不義理。今まで散々心配して貰ってるんだから、さ。
「……ちょっとさ、うん。まあ……えーっと。ラスボスの前でセーブして来ててさ、それでちょっとばかし気が気じゃないと言うか。そっちばっかり考えちゃうと言うか……結構厄介なボスらしくて……」
なーんだ、ゲームのし過ぎで寝不足なんじゃん。心配して損した。と、そういって呆れてくれたら良かったのに。
花渕さんは心配そうな顔のまま、そうなんだ。と、それだけ言って黙ってしまった。
「…………それで……うん。心配……で…………不安で……」
「……分かった」
分かった……? 何が? 僕の疑問なんて御構い無しに、花渕さんはぎゅっと拳を握って……そして、僕の肩をちょっと強めに殴った。いったぁ…………え……肩パン……
「お店のことじゃないんだよね、そのモヤモヤは。じゃ……それがなんとかなるまで、こっちは私がなんとかするから。ちゃんと倒して来なよ、そのラスボスってやつ。ネタで言ってんじゃなんだよね……?」
「っ。よ、よくそんな風に捉えられるね……僕のどこに信頼が……」
別に信頼は無いけど。と、花渕さんは真顔ですっぱり言い切ってくれた。そうかよ……ぐすん。
信頼が無いなら何故? あれです? もしかして、ゲーマーを名乗っておきながら実は大してゲームやってねえだろこいつみたいな。そういう信頼の無さ? まあ……結局あんまりおすすめとかも出来てないしね……
「……ヤバイのだけは分かったから。今のアキトさん、この前よりひどい顔してる。
でも……あの時と違ってさ、こうしてここ来て喋ってくれたから。じゃあ……多分、よっぽど切羽詰まってんのかな……って。
解決の為に走り回る元気も無いのか、走り回っても解決しないのかは知んないけど」
「………………お、恐ろしい子……」
どうして分かるんだよ……それ…………怖。
そう……だね、花渕さんの言う通りだ。僕は結局のところ……
「……ここへは……うん、逃げて来たのかも。実際、家で今朝吐いてきたし。あっ……い、いかん……十六の女の子にこんなこと打ち明けてんの凄い情けない……泣けてくる……」
「そこボケなくて良いし。アキトさんさ、前科持ちだから。悪いけどもうスルーは無いよ? 説明はしなくて良いけど、そのまんま帰んのは許さない。ちゃんと……せめて笑えるくらいにまでは吐き出してって」
わ、笑えるまでって……そ、相当掛かるよ……? ってかマジで怖い、なんでそんなズバズバ切り込んでくるの?
え? もしかして、マジで僕の悩みのアレコレ知ってるの? どうしてそんな……
「……そんなこと言われると……いやぁ…………本当に…………泣き付きたくなる……っ」
「…………私で無理なら店長で良いし。あのおばんも多分一回帰ってくるでしょ。マジでそんまま帰んのはやめて。明日の休みの間に死なれたりしたら、マジで立ち直れなくなる」
死なないよ⁈ 死……し、死なないけどっ⁈ こわ……ええ?
驚いて少女の方を向くと、それまでずっと彼女と目を合わせようとしていなかったんだってことを思い知った。
凄く怖い顔をしていて、真っ直ぐな目を僕に向けていた。
花渕さんは、本当に僕がどうなってるのかって……分かって……
「…………はあ。ごめん、本当になんでもない。なんでもなくなった。はあぁ…………クッソ情けない…………泣きそう……」
「情けないのは別に今に始まったことじゃないし。で……なんで勝手になんか…………はぁ?」
なんでちょっと立ち直った風なんだし! と、どういうわけか蹴られてしまった。な、なんではこっちのセリフ……暴力に訴えないでよぅ。
立ち直った…………ああ、うん。その表現はきっと凄く正しい。
さっきまでの僕は、間違いなく立てていなかった。地に足が着いてなかったってやつかな?
文字通り、こっち側にもあっち側にも落ち着かず、ふわふわフラフラと強風に吹かれて靡いていただけ。
それがまあ……メタメタに斬り付けられて、切り捨てられてやっと接地したって感じだけど。
「……ラスボス……倒せんの?」
「………………ふぐぅ……お腹痛くなってきた……」
ダメじゃん。と、呆れられてしまうかな……なんて思ってたけど。どうやら花渕さんは本気で心配してくれてるらしい。
もう勘違いもしないよ。二度目…………三…………何度目だろ、知らない間に結構やらかしてるかもしれない。
呆れて突き放しているのでも、お説教をしたいのでもない。本気の本気で僕の心配をしてくれてる。
怖い……本当に怖い……どうしてこの歳で……
「……勝てなさそうだけど…………花渕さんの方が強そうだから大丈夫、なんとかなりそう」
「…………そ。じゃあ……さっさと帰って来なよ」
え? 本当にどこまで知ってます⁇ もしかしてあっちにいる? 花渕さんも召喚されてる⁇
どうにも的確過ぎる励ましの言葉を貰って、僕はちょっとだけ元気を取り戻して働いた。
その日の板山ベーカリーは凄く静かで、悲しいかな売り上げは無残なものだった。
けど……店長と花渕さんが昨日までより頼もしく見えて、それだけでうっすらと希望が見えた気がした。
アギトという人間から見たふたりは、あの小さな勇者にも負けないくらいカッコ良い人だった。




