第五百八十五話
不安……そう、不安。
それはきっと漠然としたものでしかなくて、見たこともない魔王とやらの脅威を前に体が震えているに過ぎなくて。
けれどそれの根本にあるものを僕は知っていて、何よりも怖いと思わせるのは、その根源的悪性が僕ではなく全てに…………そう。ミラでも、マーリンさんでも、フリードさんでもない。何処かの誰かではなく、全てに牙を剥きかねないという、途方も無い絶望感が僕の背筋を凍らせる。
「……アギト」
「…………ミラ……お前は……」
こくんと小さく頷くと、ミラは僕の背中を優しく撫でながらまた視線をマーリンさん達の方へと戻した。
コイツはもう覚悟を……いいや。とっくのとうに、旅の間にそれを宣言した時点で腹を括っていたんだ。
ミラは賢くて、勇敢で、そして優しい子だ。そんなコイツとふたりでひとつの勇者だなんて呼ばれることが、今となってみれば重しにさえ感じる。
でも僕は……その自分の弱さを恥じるつもりは無い。
「…………マーリンさん。いつか言いましたよね、俺の強みは……俺を勇者に選んだ理由は、この弱さにあるって。小心者で、力も知恵も無い俺を勇者として認めるって。それは……今この瞬間に震え上がって立ちすくむような男でも……ですか……?」
「……馬鹿にするなよ、少年。僕は星見の巫女、大魔導士マーリン。吐いた言葉を取り消すつもりも無ければ、君程度の人間ひとりを見誤ることも無い。アギト、君はそうあるが故に勇者だ」
ぎゅうと奥歯を噛み締めて、そしてせり上がってくる吐き気を飲み下して僕も顔を上げた。
これで…………こんなんで本当に良いんだな……?
どうやったら魔王を倒せるかなんて一ミリも考えられない、どうにかしてみんなが生きて逃げ延びる方法を考えてしまうような臆病者の卑怯者で、本当に良いんだな?
その問いは口にせず、僕は目の前の英雄達を信じることにした。
誰よりもその恐怖を知り、そして脅威を討ち払わんと再び立ち上がったこのふたりを。
「……よろしい。さて、じゃあここからは具体的な話をしよう。ただ闇雲に殴り込んでいたんでは時間が足りない。
最短最速で山を駆け登り、そして魔王を討ち倒したその勢いのまま王都へ帰る。
親玉を倒したからって魔獣が侵攻をやめるとも限らない、さっさと戻って蹴散らさないとやっぱり時間切れとなってしまう」
「そうだな。親友、それにミラ=ハークス。己と魔女はこの十六年の間に幾万の策を講じた。そして、今現在最も可能性の高いと思ったものを説明する。
凝り固まった先時代の遺物ではない、今を生きる君達の意見を是非とも取り入れたい。何かあれば遠慮無く口を挟んでくれ」
分かりました。と、ミラは大きく頷いた。
作戦…………そうだよな、魔王を倒すなら作戦が必要だよな。
そもそもとして、魔王がいるって話題の山の麓には、既に魔獣の大群が集まってて、それからその……第二階層……? とやらまで……魔獣が…………?
「あ、あの……その前に…………俺はあんまりと言うか……全然敵の状況が分かってないと言うか……階層ってのは……ええと……?」
「うん、勿論そこから説明するとも。フリード、地図を出せ。君の管轄だっただろう、サボってないだろうな」
無論だ。と、フリードさんは控えていた従者から大きな地図を受け取り、そしてそれを床にばっと広げた。
世界地図……ではない。これは……
「十六年掛けて測量した魔の巣窟、その全貌が記されている…………と、言ってしまえたら格好も付いたのだがな。
分かっているのは此方側、南側半分の麓の地形と、それから第二階層までの地形に棲息している魔獣の種類だけだ。
魔王が山頂にいるのか、それとも中腹にいるのか。或いは山の内部、洞穴内に拠点を構えているのか。案外山を越えた向こう側に……と、肝心要の情報は入手出来ていない。謝罪する」
「分かってる。僕とザックでも無理だったんだ、そこまで無茶させるわけにはいかないよ」
すまない。と、繰り返し頭を下げ、そしてフリードさんは僕とミラに交互に視線を送った。
今から説明する、注意して聞くように。と、そんな念を送っているようにも見えた。
「第一階層、第二階層とは、俺と魔女が勝手に付けた呼び名に過ぎない。山道があるわけでもない、当然そこに区画等という概念は存在しない。この呼び分けは、魔獣の性質に起因するものだ」
魔獣の……? 呼び分けなければならないくらい種の違う魔獣がすぐ近くに縄張りを持ってる……ってことか?
それはまた…………変な話だ。
魔獣とは所詮獣、動物。それが在り方を歪められたもの。
今までそう説明されてきたし、それが間違いでないとこの目で見てきた。
それがそんなに距離を置かずにテリトリーを形成するなんて……
「親友、君の疑問も当然だろう。しかし第一階層、こちらの魔獣の特異性がそれを成し得るものとしている。
端的に言えば、魔術によって組み上げられた非生物。岩石の肉体を持ち、そして群体によって思考を共有していると見られる魔獣……いいや。魔具と呼ぶべきかもしれない」
「簡単に言うと岩石人形だね。生き物ではないが故に、第二階層の魔獣も敵対心を抱いていないのかもしれない。麓に魔獣を集めても山の魔獣を刺激してないのは、こいつらが壁になってるからなのかも」
がんせきにんぎょう………………岩石…………ゴーレム⁈ ちょっと、話が違う! 魔獣はあくまで生き物をベースに…………
「……蛇の魔女が使役してたあのカエルみたいな…………そういえばアレも……」
「そうね、アレも泥人形だった。洞窟を作り変える異常性を流用して作り出していたのでしょうから、今回のとは少しものは違うかもしれないけど」
一緒だよぅ!
ゴーレム……ゴーレムかぁ。序盤に出てくるゴーレムならな……攻撃力と防御力は高いけど、動きが遅くて魔法に弱い大したことない敵って印象なんだけど。
ここへきて……ラスボス手前で出てくるゴーレムとなると、大概は状態異常無効に物理半減、魔法や一部属性も跳ね返す……みたいな、インチキくさいのが出てくるイメージなんだよな。
勿論ゲームじゃないからさ、それに全部当てはまるなんて思わないけど。
「第一階層のコイツらは、ハッキリ言って硬くてやってられない。剣も矢も、銃弾も爆薬も通用しない。大熱量の魔術をぶつければ壊れてくれるけど」
「相手は軍団、一体ずつ無力化していたのでは間に合わない。よって、この第一階層は無視して押し通る」
無視して押し通る。え? ずるい。じゃなくて…………そ、そんなことが出来るの……?
話を聞く限りだと結構な数がいるっぽいし、そもそもそんなに硬いんじゃ蹴っ飛ばして進むってわけにも……
「ここは僕の出番だ。僕の最大火力で道をこじ開け、そして強化で駆け抜ける。単純明快、それに時間の節約にもなる」
「単純明快って……で、でも前はその大群を突破出来なくて……」
だからだよ。と、そう答えたマーリンさんはすごく怖い顔をして見えた。
頼もしい、勇敢な笑みを浮かべているのに。その奥で真っ黒い油みたいな感情がボコボコ泡を立てているみたいで……
「必ず貫いてみせるとも。と言うかさ、君達には僕の火力を一度と言わず見せてるだろう? 岩を溶かすだけの熱量を出せるのは、今この場所に僕しかいない。じゃあ僕がやるさ、任せてよ」
「そういうわけだ、第一階層は魔女の力によって突き抜ける。幸い、この人形どもは重鈍だ。情報を即時共有する特性は厄介極まりないが、全てを一度に相手取り、そして全てを置き去りにすることで無視してしまえる。時間さえあれば、ひとつずつ砕いて進んでも構わなかったがな」
スルー安定……ってことか。それってつまり…………その……つまりですよ……
「あはは。本当に分かりやすいね、アギトは。そう、帰り道で一番の難所となるのがここだろう。
疲労困憊、全員の脚が限界を超えた状態で、もう一度この馬鹿げた軍団を踏み越えなくちゃならない。
ザックを呼ぶことが出来たなら、帰り道は飛んで帰りたいものだけどね」
「……そうだな。では、そう出来ない理由…………第二階層について説明しよう」
ふえぇ……ま、待ってよぅ。とんでもなく絶望感だけが募っていくんだけど。
まあその……第一階層は良しとしよう、全然良くないけど。行きも帰りもズルしてスルーで進行するとして。
その……ザックを呼べたら……ってのはどういうこと? さっきも、マーリンさんとザックでも調査出来なかった……とかなんとか、すごく不穏なこと言ってたし……
「第二階層の魔獣は正真正銘生物だ。しかし、これもまた従来の獣とはかけ離れた特性を持っている。親友。君は海に漂う不思議な海月を見たことがあるか?」
「フリード、クラゲの全部がそういうわけじゃない。誤解を招きかねない言い方はよせ、子供に間違った知識を与えるな。
さて……でも、まず懸念すべきはその不思議なクラゲが持つ特性……生殖方法と言うべきか。
第二階層の魔獣はひとつの頭を持ち、四肢を持ち、限りなく哺乳類に近い形状をしていながら、分裂によってその数を増やす。
そして…………面倒なのはその速度。観察出来た数秒の間にも、二度の分裂を…………一頭が四頭になるのを確認している」
数秒で……四倍…………えっ? ちょ、ちょっと待って、それは流石にキモいぞ⁉︎ と言うかズルだ! 分裂って……分裂って言っても限度があるだろ! それじゃまるで……
「第二階層の魔獣は無限に増殖する。ただし、これは生殖特性のひとつでしかなく、最も厄介なのはその俊敏性と知性だ。猿を拡大解釈したものと捉えると理解し易いかもしれない」
「観察出来る程度の高度までは簡単に跳び上がって襲い掛かってくる。そして、多少離れた距離でも千切れて小さくなった個体を投擲して攻撃してくる。ハッキリ言って獣のそれじゃない、軍隊を観察して十全に知識を蓄えたんだろう」
小さくなった個体を…………ええ……? そ、それはもうファンタジーゲームの世界だろ……い、いくらなんでもデタラメというか…………うぐ。
い、いや……そういえば動物園の猿も物を投げるって言うな。人間が面白がって物を投げ込むから、それを観察して真似してるとかなんとか……
「コイツらは第一階層の魔獣に比べて、単体では大したことない相手だ。が、数の力はやはりどうしようもないものだからさ。少しでも脚を止めれば間違いなく飲み込まれるだろう。
よってここで取るべき作戦はひとつ。第一階層と同じ、僕が焼き払ってさっさと通り抜ける」
「さっさと……って、さっきからそれしか……」
それしかないんだよ、時間の都合で。と、マーリンさんはやっとと言うか……こんな時に、ちょっとだけいつものむすっとした顔で怒っていた。
しかし……う、うむ。早く帰ってこなくちゃいけない以上、無視出来る敵は無視するべきだろう。
RTAにおいても、フラグにならない中ボスや雑魚戦は可能な限りスキップ推奨だ。だけど……だけど、だよ。
「……その……ザックでさえ飛び越えていけないような魔獣から、いくら強化魔術を掛けると言っても、走って逃げるのは……」
「ああ、不可能だ。そして、ここを通り過ぎ、その先の未知と挟撃に遭っていては万にひとつも生存の道は無い。よって……」
ここへは己が残り、食い止める。と、フリードさんは言い切った。
いや……いやいや。さっき自分で言ったじゃないか、無限に増殖するって。それはまあ……誇張表現なのかもしれないけどさ。
でも……でも、今すぐ向かったとしても、それこそ無限にも等しい数の大軍が待ち構えてるのは間違いないんだろう……? そ、そんなとこにひとりでなんて……
「この地点、第二階層が最大の肝となるだろう。故に最高戦力を投入する。僕のありったけの強化を掛ければ、フリードなら半日は足止めしてくれる。その間に僕達は魔王を討つ、単純な作戦で分かりやすいよね?」
「分かりやすいっていうか…………そ、それ本気で……」
やり遂げるとも。と、ふたりは声を揃えて頷いた。
そしてそれが不服であったと、マーリンさんは随分苦い顔でフリードさんを睨み付ける。
な、なんで……なんでそんな無謀な作戦しか……と言うか、どうしてそれをそんなにも軽々しく……
「親友よ。己は力を君には未だ披露していない。故に、危惧する気持ちも分かる。だが……」
「信じてよ、君の仲間を。ぶっちゃけ失礼だぞ、僕の心配するなんて。任せてよ、道は拓くさ」
っ…………でも……っ。
この作戦には、あまりにも穴が多過ぎる。
第一階層、第二階層で全てではない。だと言うのに、この時点でフリードさんと別れ、マーリンさんだって魔力をかなり消費する計算だ。
だけど……だけど、この先には少なくともユーリさん……魔人ユリウスと魔王がいる。
こちらの戦力は、消耗したマーリンさんとミラだけ。そんなのでいったいどうやって……




