第五十八話
彼女を剥げてしまって土がむき出しになった草原だった地面に寝かせて、かれこれもう十五分はこうしているだろう。時折仰向けから頑張って起きあがり、這って僕から離れる彼女を追いかけることはせず。かと言って、彼女もまた僕から見えないところまで行くことは出来ず。遠くに行くわけにもいかない僕は、その度に彼女に睨まれるのだが……それは筋違いな恨みというものだ。
「だ、大丈夫……じゃないよな」
「……目が……目が回る……おえぇ……」
真っ青な顔で未だに目を回している様子を見ていると、ひどくいたたまれなくなってくる。あまりにも苦しそうで、だがそれでも元気そうなことには安堵した。いえ、元気とは言えないと、重々承知しておりますが。
「……でも、まだ速く動けたんだな。さっきの霊薬って、魔術の効果も大きくなったりするのか?」
気晴らしにでもなれば。と、僕は彼女にそんな話題を振った。霊薬を飲んだことを咎めようかとも思ったが、それはどこか安全なところに腰を落ち着けてからにしよう。今回は僕のために体を張ってくれたという恩義もある。
「無いわよ、そんな効……うぷっ……」
…………逆効果だったかもしれない。すっかりゲロまみれになったシャツは脱ぎ捨てて、僕は彼女に付き添ってせっせと背中を撫でる。なんと弱々しい、小さな背中だろう。
「…………あの魔術は元々あのくらい……ううん、その気になればもっともっと速く動けるわ。でも……まあ、このザマよ。人間の体じゃ出力に限界があるの」
なる…………ほど? いや、当然か。あれだけ速く動けば掛かるGも相当なものだ。それにあんなに跳び回ったのだから、きっと三半規管がやられているのだろうな。雷を纏い、高速での戦闘を可能にする魔術。と、その程度には認識していたのだが。魔術というのだから、もっとこう……攻撃力と素早さが上がって、攻撃に雷属性が付与された! みたいな。そんなお手軽なイメージを抱いていたのはゲーム脳のせいか。
「…………ごめん。快復しても、それはそれとしてしばらく動けないかも」
「……いいよ。本当ならもうしばらくはおんぶしたまま生活する覚悟してたんだ」
次の街か村がどのくらい先にあるのかも分からないが、僕はもう引き返そうという考えを何処かへやっていた。これは秋人としての成功に浮かれていたのか、彼女の覚悟を目の当たりにしたからなのか。
朝日もすっかり昇って、僕らの影を長く長く伸ばす。ようやく落ち着いた彼女を背負って、僕らはまた旅を再開した。さっきより薄着になった所為か、背中に感じる体温がずっと近い。暖か…………いかん。今朝のおあずけ(?)の所為で……貰えると思っていたご褒美を取り上げられた所為で…………いかん! さっきまで色々あって血生臭いやら泥臭いやら、それと酸っぱい臭いも混じって多少は緩和されているのだが……いかんせんおんぶと言うのは距離が…………いかーん‼︎
「……アギト?」
「…………ダイジョウブ。ミラハオレガマモッテヤル」
守らなければならない。この無垢な少女を。この汚れた欲望から——っ‼︎
しばらく歩き通して——具体的な時間はわかったもんじゃ無いが、今得られる情報としては、影がすっかり短く、足元にしか出来なくなるまで歩き通して、頭に浮かんでいた邪な考えは疲労感で流石に消し飛んでいた。魔獣こそ出なかったが、同時に人の気配も無い。一体何処まで歩けば良いんだろうか。アテも途方も無い道程が僕の足を更に重くする。
「アギト、そろそろ休憩したほうがいいわ。もう何時間歩いてるか……」
「いやいや、まだまだ。せめて朝……もう昼ご飯だけど。ご飯食べられるまでは……」
さっき散々吐瀉物を観察し……勿論彼女は非常に嫌がったし恥ずかしがっていたが、それはそれでそそるものがあって……ごほん。観察したのだが、やはり胃液以外には何も出てこない。当然である。僕らは昨日食べたサンドウィッチ以降、何も口にしていない。水の一滴すら、だ。僕はともかく、あれだけ激しい戦闘をこなした彼女に早くエネルギーを補給させてあげなければ。なによりも魔獣が出た時が危うい。魔力を回復させてやらねば、きっと彼女はまたあの危険物に頼るのだろう。そんなことを考えている時、僕はふと思った。
「なあ、魔力回復ってさ。医者が言ってたみたいに食べて寝る以外に回復させる手段はないのか?」
「無くはないけど……難しいわね。体力と一緒、鍛えれば上限は増えるけど、減るものは減る。減ってしまったら、よく食べてよく眠る。違うのは用途くらいなもんね」
用途、とな。つまり体を動かすか、魔術なんかを使うか、という差のことだろうか。
「なら俺にも魔力ってあるんだよな? なんかこう、びびびーっと渡せたりしないもんだろうか」
「びびびーっとはよく分かんないけど、出来なくはないわよ? 勿論、魔術を広く修めていて、魔力放出の扱いや調整が相当上手じゃないといけないでしょうけど。因みにそんな事が出来る魔術師は聞いたことが無いし、そんな事が出来る魔術師がいるなら魔力を渡す必要も無いと思うけどね」
うむむ、僕には到底出来ないということか。魔力が枯れている状態でも無理矢理魔術を使用出来る様にするあの霊薬が身体に悪いのは、医者にも言われたし見た通りだし。出来ればなんとかして阻止したい所だ。何か手は無いものか……
「……あっ。なら、ミラが俺から魔力を吸い出すってのは? これなら俺が魔術師じゃ無くても関係無いだろ?」
「…………あー……」
考えたこともない、というようなリアクションだった。これは……中々良い着眼点だったのでは?
「放出するのにも厳しい訓練が必要な魔力を、それも他人の魔力を。体の奥底から引っ張り出す……なんて出来るなら、それこそ魔力回復なんて必要無い大魔術師よ。出来なくは無い、やる意味も無い、ってとこね」
「うーん……何か良い案は無いものか……」
彼女は笑って、そんなに都合よくはいかないものよ。と、そう言った。いえね、魔力が切れているのに魔術が使える様になる秘薬なんて製ってる人に言われても、全く説得力無いんですけどね?
「うん、まあそうね。相手の事を熟知していて……それこそ性格も身体も、怪我や病気もなにもかも。勿論、魔力特性も。魔力にだって人それぞれ個性があるんだから、それも熟知していて。かつ、吸い出しやすい様に心を開いている、これまた同じ様に互いを熟知した相手が、多少加減に失敗して吸い出し過ぎても問題ないくらい元気いっぱいでいるんなら……運が良ければ出来るかも」
なんて薄い可能性だ。自分の事すらそこまで認知出来ないだろうに、それを他人の事となると……ううむ。これも僕には無理そうだ。
「…………ちなみに失敗すると?」
「……吸われる方は多分死ぬでしょうね。心臓の血液を顔の毛穴から引っ張り出そうって話だもの、心臓にもそこら中の血管にも穴が開いて。吸う方は呼び水に使った魔力を無駄に消費して終わりでしょう」
割に合わない。却下だ却下、そんな事で死んでたまるか。
「ミラにはいっぱい食っていっぱい寝て貰わなきゃな……」
多少僕が我慢してでも、彼女にはお腹いっぱいになって貰おう。親心だとかそんなものでは無く、保身の為にもそう決意した。
今朝とは違う方向に影が長くなって、僕らの空腹がとっくにピークを過ぎてもう感じなくなってきた頃。突如、彼女は僕の頭をペチペチと叩き始めた。
「アギトアギト! 街よ! 立派な砦が見えるわ!」
「本当⁉︎ よーし、しっかり掴まってろよ!」
彼女の言葉に僕は失いかけていたやる気を一気に回復させ、傷だらけな少女の足をしっかりと抱えて走り出した。そして、彼女の言っていたそれはすぐに姿を現す。本当だ、ガラガダとは違う——それでも堅牢そうな砦が、開けた草原に壁の様に聳え立っている。もしかしてあれが王都……
「聞いた事があるわ! ガラガダとは別——鉄鋼の武装では無く、魔術によって魔獣と戦う街が近くにあるって! その名も——」
違った。違ったし今なんて言った⁉︎ 近く⁉︎ アーヴィン近郊⁉︎ 嘘でしょ⁉︎ もう丸一日くらい…………しか歩いてなかったですね。
「——魔術師の隠れ里——クリフィア——っ!」
次第に大きくなってくる全貌の掴めない砦に、僕は胸を躍らせる。そして、彼女は僕以上に興奮している様に見えた。彼女は魔術師であり、錬金術師であり、つまるところ探究者だったのだ。きっとこの先に見えている未知に、その旺盛な好奇心を擽られているのだろう。
その姿を遠くに発見してから数十分、僕らはクリフィアと思しき街のはずれに辿り着いた。