第五百七十五話
ミラが寝付いたのは、布団に入ってしばらく経ってからだった。
ずっと緊張状態と言うか…………いつもと違う、体を強張らせて少し距離を取るような……
「……ま、しょうがない。いきなり元通りってのも虫が良過ぎるって」
時刻は午前四時半。うーん、それにしても早くに寝過ぎたな。
アイツがちゃんと眠れるかを見届けてから……と、その為にも無理矢理布団にねじ込んだんだけど…………まあ良いや。
「……っと。そうだったそうだった……」
枕元のスマホで時間を確認したついでに、そのまま昨日作ったホームページをチェックする。
うんうん…………うん…………いつの時代のものだこれは…………っ。
でも仕方ない、これが今の僕の限界。僕達の……あの店の限界。
難しいことは出来ないんだから、いっそ見やすさ……簡便さを押し出して使い易くするべきだ。
見てくれのとっ付き易さは無いかもしれないけど……
「…………ふいぃ……動いててくれて良かった……ほんっと……」
独り言が多いとか言うなやい。これでも結構寂しいんだ。
ミラはまだ……もうちょっと時間が掛かるだろう。そうなるとやはり話し相手が減ってしまう。
部屋に帰ってからのアイツのよそよそしさと来たら…………はあ。お兄ちゃん泣いちゃいそうだったもん。
っと、いけないいけない。切り替わったんだから今はこっちのことやんないとな。
朝食を終えて店に向かい、そして今日はしっかりと全員出勤という形で顔を揃えた。
僕が一番最後かい…………遅刻じゃないから良いけどさ。
しかし……ふーむ。どうしてもお店の中にはくらーい空気が漂っていて、ここ一週間の売り上げの低さに、みんな気を落としてしまっている様子だ。
「原口くん、おはよう。ちょうど良かった、ちょっと食べて貰いたいものがあってね」
「おはようございます。食べて貰いたい…………もしかして試作品ですか? 遂に状況打開の為の秘策が……」
秘策が…………と、そういう話ではないらしい。
何やら沈黙を貫いたままの店長の代わりと言わんばかりに、花渕さんは僕に小さなビニール袋を手渡した。
ふむ…………まあ、パンだよね。試作品ではなくて……となると…………
「むぐむぐ…………うん……普通に美味しい…………うん……? あれ、うちのパン……じゃ、ないですよね?」
袋の中身はシンプルなロールパンで、これをふたつに切って惣菜を挟んでも美味しそうだなぁなんて感想が出る程、飾り気の無いものだった。
無いものだったが…………ふむ。うちのパンとは根本的なところが違う……気がする。
こう……なんと言おう…………カロリーの味がする……
「……むぐ……あー、バターだ。おお……そういえば久しぶりにお店以外のパン食べた気がする。そっか……むぐむぐ……」
いえ、あっちでなら食べてるんですけど。ただ、あっちはあっちでやはりと言うか……牛乳の質が違うので。それに牛に限らないと言うか、ヤギ乳やその他僕の知らない代用品で作られている時もある…………んだと思う。
だから厳密には、現代のバターロールを久しぶりに食べた、かな。いや、そこが厳密になっても何も無いけどさ……
「これが…………ごくん。どうかしたんですか? なんと言うか……うむ……もぐもぐ……普通に美味しいパンですけど……」
「そ、普通に美味しいパン。さてと…………店長、やっぱこのおっさんダメだわ」
おっさんってなんだね! と、僕が凹むよりも先に、西さんのツッコミが入った。はいはい、そこも含めて予定調和。
さて………………ひぐぅ。だ、ダメってことないでしょうよ…………僕だってこれでもそこそこグルメになったんだぞう。
あっちでは、色々食べ歩いてるから。そう……あっちでは、だけど。
「……いや、気付けし。それ……例のデパートの店のもんだよ。いや……ほんっと、何も無しにただのパン食べさせるわけないじゃん……」
「ふぐう…………な、成る程……成る程? けーっ! 宿敵のパンじゃないか! ぺっぺっぺーっ………………は、流石に食べ物を粗末にしたくないので……もぐもぐ」
呑気。と、一喝されて、僕はやはり膝を抱えて端に追いやられる他無かった。
うぐぅ……でも、しかしまたどうしてそんなとこのパンを? いや……と言うか……
「…………これなら……むぐ……これなら、絶対敵わない! もうおしまいだ! ってなるほどの味じゃない……ですよね。もぐもぐ……」
「そ。いや、全然食べるのやめないじゃん…………良いけど。昨日暇だったからさ、ちょっと敵情視察にね。そしたらコレ。別に味は大したことないのよ、あの店」
昨日……お店に来ちゃダメだよ! と、そこまでは言われなかったけど、一応釘を刺されて花渕さんがお店に来なかった珍しい日だったね。
そうか……お休みの日ってそんな風に使うんだな…………ではなく。
うん、これは朗報じゃないか。こんな大したことないパンなら………………悪口言ってるみたいでなんか……お腹の上の方痛いや。
で、でも! 商売敵なのであってだな…………うぐぐ……
「…………味は……そう、味は大したことない。でも、事実としてあっこは繁盛してたよ。デパートだからってのもあるけどさ、ずっと人でごった返してた」
「ほえー…………むぐむぐ……それはアレじゃない? やっぱりその、前に言ってた開店直後だからってやつじゃ……」
それもあるだろうけどね。と、花渕さんはやや暗いトーンでそう言った。
それも……とな。他に何か理由が………………はっ⁈ ま、まさかコラボグッズ⁉︎
い、いけませんぞ…………そ、そういうのにヲタクは弱いんですな。
何も可愛い萌えキャラに限らず、アニメに出てきたメニューの再現商品とか、そういうの出されちゃうとつい買っちゃうんですぞーっ!
「味で勝負する必要が無いんだよね、あの立地だと。行ったらついでで寄るとこだからさ、味は二の次でも困らない。いや、それでもやっぱ、その内どんどん美味しくなるとは思うけど」
「もぐ…………え? そ、それはどういう……」
これでもかと言わんばかりに冷めた目で見られてしまった。
だ、だってえ…………あっ、西さんはもう配達に行く時間? お疲れ様でーす、お願いしまーす。
いつもよりちょっとだけ多めのパンの箱を…………あ、それ番重って言うんだ。へー……じゃなくて。行ってらっしゃーい…………でもなくて。
「値段の手頃さ、入りやすさ。それプラスこの普通の味。美味しけりゃ美味しい程良いのは当たり前としてね。買い物ついでに朝ご飯で買ってくなら、飽きない味の方が強みはあるのかもって話。んだから…………まあ、なんて言うの?」
「……お客さんにとってあのお店が立ち寄りやすい場所だったなら、僕達はもっともっと頑張らないと苦しいかもね……って」
ふむ…………………………え? つまりピンチってこと?
こ、困るよ! こんな美味しくない…………わけじゃないんだよな、もぐもぐもぐ。
ううむ…………また買ってくかぁ。と、そんな気持ちになるラインは十分に超えている。これは…………うむ、困ったなぁ。
「うちにはうちの強みがある、うちでしか満たせない需要がある。って……そう言ったけどさ、それは向こうも一緒だから。早いとこ……ホントに早いとこ手を打たないと、あっちに固定客付いちゃったら取り返せないし」
「むぐむぐむぐむぐ…………ごくん。対策って…………でも……どうすれば…………」
それが分かんないからこんな顔してんでしょ。と、西さんがいないのを良いことに、花渕さんはちょっとだけ容赦無く僕の膝小僧を蹴った。っっつ…………ぉぉお…………痛い…………っ。
「出来ること全部やるしかないじゃん、特効薬が無い以上は。アキトさん、どうせめちゃ暇なんだから掃除は徹底的にやるよ。トレーもトングも、汚れとか曲がってるのあったら裏に下げちゃって。選ばれる理由が少ないなら、選ばれない理由なんて作ってる余裕無いよ」
「あ、あいあいさーっ! えっほえっほ…………あれ……?」
あれ……それだけ? いや、それだけってのは…………うん?
それだけじゃないよな、なんだろ。花渕さんが僕を顎で使うのは日常茶飯事だし、彼女の指示を受けて僕がせっせか働くのも日常。
ん…………あれ……? 僕は何に………………?
「…………? 何が…………?」
「ほら、アキトさん……言ったそばからさ……」
ちが——違うんですよっ! い、今のはなんかこう…………花渕さんの花渕さんらしさに花渕さんらしくなさを感じて……………………だ、だめだ……自分でも何考えてるのか分かんないわ。
でも確かに…………違和感。そう、違和感だ。花渕さんに何か…………
「…………ちょっ……はあ。おっさん…………」
「ま——待って! 違うの! 本気で呆れるのはやめてください!」
うわぁん! 考えごとなんてさせて貰う暇も無いよぅ!
その日の花渕さんにはどこか鬼気迫るものがあった。何か……焦りのような、らしくない違和感。
そ、そんなにヤバイってこと……? あの普通に美味しいバターロールに、この子はそこまでの危機感を抱いているって言うの…………っ?
え……じゃ、じゃあむしゃむしゃと三つも食べた僕はどうして何も感じていないの……………………? げふぅっ。




