第五百六十三話
少し走っただけなのに息が切れる。
体力が回復してないから……ではない。魔力はまだ全快とは言えなかったけれど、それでも体の方はほとんど万全に近い状態にまで戻っている。だと言うのに……
「……お仕事中……かな……」
王宮へ飛んで帰って、そしてまたマーリン様の所へと急ぐ。
早くなんとかしなくちゃ……また……また私は……っ。また私はアギトを疑おうとしてしまっている。
理解出来ない胸の痛みの正体は、きっと彼への不義理な不信感だ。
彼については全く疑う余地も無い。王様の言う、信じる為の懐疑なんて必要無いのだ。
私はきっと、また彼がどこかへ行ってしまうって……私を捨ててしまうって恐れているんだ。
「っ。違う……そんなわけない……っ」
この時間だときっとお仕事で忙しいだろうか。けれど……けれどこの痛みを早くなんとかしないと。
これは危険だ。私が私でいられなくなる気がしてしまう。
今まで感じたものとは根本的なところから違う、全能とも呼べる程の力を持っていた幼い頃のもうひとりの私すらも知らない感情だ。
私にはこれを……この痛みを取り除く手段も、我慢する手段も無い。
「…………っ。失礼します……マーリン様、いらっしゃいますでしょうか」
ノックしたのはあの方の仕事部屋。いつかこの部屋でお手伝いをする時をひとつの理想として描いていたと言うのに、まさかこんな情けない理由で泣きつく羽目になるなんて。
それでも、そんな拘りさえもかなぐり捨てなくちゃいけない事情に面しているんだ。
驚いたような返事の後に部屋に入ると、そこには目を丸くして私を見つめるマーリン様の姿があった。
「どうしたの……? アギトと合流出来なかった?」
「いえ…………その……っ」
合流……そう、合流出来なかったのだ。
目と鼻の先にいたのだ。彼は、アギトは。大切な友達と一緒にすぐそこにいたのだ。
ついさっきの光景を思い浮かべるだけで胸が痛くなる。苦しい、息が詰まる。
どうして……? だって、アギトはもうどこにもいかないと約束してくれたのに。
必ず帰って来てくれるって…………ううん、それも違う。そもそも彼はちゃんと帰って来たではないか。
彼は一度たりとも私の元から離れて行ったりなんてしていない、彼は最初にした約束をずっとずっと守ってくれている。それは紛れも無い事実で、本物の優しさだ。
エルゥだって、きっと私が大泣きしたから会いに来てくれたんだ。
仕事も決まって、生活だってこれから慣れていく頃だった筈なのに。ふたりとも私の為に……
「…………ミラちゃん。ちょっとだけお話しようか。身体の方は全く問題無い。魔力も休めばすぐに戻る。けど、やっぱり心の問題はすぐには解決しない。おいで、そんな顔をしてる理由を聞かせてごらん」
「っ。わた……っ。わ、私は……」
マーリン様の近くに寄ると、尚更苦しくなってしまった。
もしかして…………っ。私はイルモッド卿のことで、アギトでさえも裏切ってしまうんじゃないかと……そんなありえない不安を抱えているのだろうか。
誰よりもこの方に忠義を誓って見えた、誰よりも騎士道を重んじて見えたあの騎士でさえ裏切ったのだから……と。
だから…………だから……私はこの方を見ると胸が…………
「……ゆっくりで良いよ。話せることから、ぶつ切りでも構わない。繋ぎ合わせるのは慣れっこだからね。大丈夫、君の目の前にいるのは大魔導士マーリンさんだ。頼りにして良いよ」
「っ。その……実は…………」
アギトの姿は見かけたのだ、と。私はついさっき起きた短い出来事を全て……そう、丸々全てを話した。
マーリン様と別れて部屋を出て、通行証を借りて王宮の門をくぐった所から全部。
もしかしたら、私では気付かない……私の本能にだけ引っ掛かる、無意識でしか認知出来ない不安要素があったのかもしれない。
可能性は全部潰す。でないと私はまたあの幸せな生活に戻れない。
彼がせっかく許してくれた、何にも掛け替えの無いあの場所に。
「……それで……アギトとエルゥが一緒に居るところを見かけて……っ。見かけた……のに…………」
「どういうわけか身を隠して帰って来てしまった、と。ふむ……」
ひとつひとつをバラして説明すると、まったくどうして間抜けが過ぎるではないだろうか。
本当に何も無い、ただよく分からない痛みに怯えて逃げただけ。
何も苦しむ要素なんて無くて、こうなってくるとその痛みすらも幻であったのではとさえ思ってしまう。
けれど…………けれど、じっと私を見つめるマーリン様の綺麗な瞳を見るだけでまたその苦しさはぶり返してくる。
私は……っ。私はもしかして、とても無礼なことを考えているのだろうか。
あまりにも礼を欠いている、一度はその言葉に憤慨したこともあると言うのに。
私は…………私はこの方を憐れだなどと…………ッ。
「…………ミラちゃん、ちょっとだけ僕の質問に答えて貰えるかな。簡単な質問だ、それに苦しむようなつらい問答をするつもりも無い。どうかな」
「はい……それで、これが取り払えるなら……」
分かった。と、そしてマーリン様は私に目を閉じるように指示をした。
目を閉じて、背もたれ付きの椅子に浅く座って。そしてゆっくりと息をするように、と。まるで催眠術でも掛ける準備みたいだけど…………
「……素直に、最初に思い浮かんだ答えをそのまま言うんだよ。君にとって幸せって……楽しい、嬉しい、暖かい時ってどんな瞬間だった?」
「幸せ……? えっと……みんなと一緒に旅をして……美味しいものを食べて……あったかい布団で眠って……」
質問はいくつか繰り返された。
その幸せの中で一番印象に残っているのはどれ? 私はそれに、フルトでの出来事を思い浮かべた。
大き過ぎる絶望感の反動ありきだったようにも思えるけど、アギトとオックスとまた一緒に笑い合えたあの瞬間が一番嬉しかったのだ、と。
それに匹敵するくらい大きな幸せの中で、一番新しかったものはどれ? という問いに、私はやはり昨日を挙げた。
全部説明して、その上でアギトは一緒にいてくれるって……言ってくれたんだ。たったひとりの家族だって呼んでくれた彼が、これからも家族だと言ってくれた。こんなに嬉しい出来事が他にあるものか。
「じゃあ、一番古い幸せは? これは君以前のものでも構わない。君が持ってる記録の中のそれと照らし合わせて、それでも尚ミラちゃんとしての幸せが勝るなら勿論そっちだけどね」
「古い幸せ…………えっと……」
街のみんなが私を受け入れてくれた瞬間……? すぐ後になってそのカラクリが分かって、すぐに絶望したけれど……でもあの時は嬉しかった。
でも……違う。もっと大きいのがある。
大勢の移民を受け入れ始めて、みんなが私を頼ってくれる様になった時? それも……違う。
もう少し後に……もっともっと大きなのが……
「…………ガラガダに……蛇の魔女を倒しに行くって……話になって。ひとりで行くって、それまで通りにこなすって決めた私を…………アギトが叱ってくれた時……」
彼がくれた最初の幸せ。私が手にした最初の絆。ミラ=ハークスの隣に誰かが来てくれた初めての瞬間だった。
そうだ……これ以外にありえない。
そうなんだ…………私の幸せには必ずアギトが関わっている。
彼はいつだって私を幸せにしてくれる、喜ばせてくれる。守ってくれる、愛してくれる。
だから…………だから、またアギトと一緒にいられるのが嬉しい筈なのに…………っ。
「……ミラちゃんにとって、アギトは幸せを運んでくる使者だったんだね。面白いくらい彼が絡んだものしかないね。と言うか…………いや、別に拗ねてないけど…………僕が絡んだものは無かったね…………」
「っ⁈ ちっ、違いますよ! マーリン様はその……幸せとかそんなレベルじゃなくて…………っ! 身に余る幸せって言うか……アギトがくれるのとは、根本的なところで違うと言うか……」
冗談だよ。と、マーリン様は少しだけ寂しそうな顔で笑った。冗談に聞こえない……
しかし、そう言われてみると不思議だ。
この方との時間は紛れもなく幸せそのものだった。
一番好きなことを徹底的に突き詰められる充実した時間でもあり、一番尊敬している方に手解き受けられる時間であり、そして…………えへへ、暖かくて柔らかくて、気持ち良くて良い匂いがする時間で…………
「……さて、と。じゃあ質問を変えよう。君にとってアギトってどんな人? 友達? 秘書? 旅の仲間? それとも、勇者の使命を分かち合った盟友?」
「……? 家族……です。アイツは私を妹だって言いますけど、本当は私の方がお姉さんで。ワガママな弟の言うことを聞いてあげてるんです」
そっか。と、にこにこ笑って、マーリン様は私の頭を撫でた。
するすると髪を撫でるその手が昨日までよりもずっと早くに離れてしまう。ああ……髪、やっぱり長い方が良かったな。
早い周期で頭を撫でられるのも好きだけど、こういうのはゆっくりたっぷり味わいたいから。
「…………君はアギトが家族だから好きなの? 一緒にいてくれるから、側で笑っててくれるから」
「それは……そう、ですよ……? もう家族みたいなものだ、って。昔、私がアギトに言ったんです。そしたら……それを否定せずに受け入れてくれて、それからは本当に家族みたいにどんどん仲良くなって」
そうじゃなくってね。と、マーリン様は私の頰を撫でてそう言った。
そうじゃない。とは、どうじゃないのだろう。
私は間違いなくアギトが好きで、それはやはり一緒にいてくれたから好きになったわけで。そこには何も間違いなんて……
「……ミラちゃん。ちょっとだけ聞き方を変えよう。君は、家族だと言ってくれたからアギトを好きになった。じゃあ……今、君が彼を好きな理由は何? 彼を好きで居続ける理由がある筈だろう?」
「えっと……? それはやっぱり…………家族だから…………」
ううん。と、マーリン様はゆっくりと首を振った。
違う……の? 私はもっと別の……っ。捨てた筈の、それだけではないと何処かへ置いて来た筈の感情で彼と共にいるの……?
守らないといけないと、そう命令を残されているから……私はただそれだけで…………?
「……ミラちゃん。君はね、アギトが好きだから一緒にいたいんだよ。
逆なんだ。一緒にいてくれるから好きになった、それにもやはり間違いは無い。
けどね、君が今あの子を好きな理由は別にある。その別の理由で、君は彼と共にいたいんだ」
「…………? えっと…………? だからそれは……家族だから…………」
マーリン様は黙って首を振った。ええと…………だから、えっと。
家族だから一緒にいてくれて……それが当たり前で……私は……だから…………?
「それを自覚するには、君の過去は少し急ぎ足過ぎた。だから……珍しくマーリンさんが答えをあげよう。
君はね、アギトと一緒にいたいんだ。
好きだから、誰よりも愛しているから、家族になりたいんだ」
ぎゅうと抱き締められて、そして優しく背中を撫でられた。
暖かくて、優しくて、甘くて幸せになる匂い。けれど……けれどそれを物足りないと思ってしまう理由があって。その答えは……きっと…………
「……ミラちゃん。君は……君のその感情は、恋と呼ばれるものだよ。君はアギトに恋をしているんだ。
誰よりも長く、誰よりも近くに居たいと。君の心は、そんな情熱でいっぱいになってしまってるんだよ」
「…………こ……い……?」
痛みがスッと引いた。そして、少しずつ鼓動が早くなっていく。
それは……それはかつて、フルトでもエルゥに言われた言葉だ。
でもそれは、私には関係無いもので……だって私は偽物で、それに彼を騙しているのだから…………?
ミラちゃんはずっと不思議そうな顔をしたままだった。
無理も無い。そんな感情とは無縁で生きていた…………生きざるを得なかったのだから。
けれど、それがとても嬉しいものだって……暖かい感情だって自覚すると、少しだけど笑顔が戻ったようにも見える。
「まだちょっと難しい……そうだね、それと向き合うには知識も経験値も足りてなさ過ぎる。
君の人生はこれまでずっと駆け足だった、だから今からでもゆっくりと拾い物をしていこう。
ふふ、大変だよ? その感情には必ず副作用も付いて回る。
大好きなエルゥちゃんが相手でも、アギトを盗られたくないって心が叫んだんだ。
きっとそのうち……いや、もしかしたらもう既に。僕にもそんな感情を抱く時も来るよ。それを人は、嫉妬と呼ぶんだ」
「嫉妬……ですか……? 私は……私はエルゥを嫌いに…………っ⁈」
ああ、違う違う。これは中々難儀だなぁ。
ミラちゃんの成長過程はとても健全とは言えない。
六年前……今のこの子になるまでの間には、恐らく感情を他人に向ける機会が無かった筈だ。
そしてそれからも、アギトと共に街を出るまでは仮面を被ったままだっただろう。
ミラちゃんにとって、誰かに感情を抱くというのは初めての出来事だ。
それこそ十年以上前に経験するべき出来事を、この子の数奇な運命は、在ろうことか無視して通り過ぎてしまっている。
恋だの愛だのと言われても、きっと何が何やら……
「……ちょっとだけひとりで考えると良い。勿論、分からなかったらアギトのところへ行って確かめてみれば良いさ。近付くだけできっとまた異変は訪れる。
今までの君がおかしかったんだからね、言っておくけど。
僕と仲良しになった以上はもうそうはいかない、当たり前のことは当たり前にやらないと。
君の健全な成長も、僕の目的のひとつなんだからね」
「…………分かり……ました……?」
分かってないって顔に書いてあるじゃないか、もう。
はあ……ここらが潮時だ、アギトへのちょっかいはもうやめにしよう。
ミラちゃんがそれを自覚した時、本気で嫌われかねない。
まだどこか腑に落ちない、言いくるめられてしまったって顔で部屋を後にするミラちゃんに、そんな不安もまた先の話になりそうだとやや落胆したりもする。
さーてと……
「……もう良いよ。相当テンパってたんだね、やっぱり。いつもなら気付いただろうに」
「………………どういうつもりだ、魔女」
声を掛けると押入れの扉が勝手に開いた。しかし……うん、隠す場所をもう少し吟味すべきだったかもしれない。
伝説の勇者の仲間、黄金騎士が女の部屋のクローゼットから現れたなんて…………ぶふっ。面白いけど、とても語り告げる内容じゃないね。
「……己を呼び出して、肌着と共に押入れにねじ込んで。見せたかったものがこの茶番か、魔女」
「っ⁈ お——お前っ⁉︎ 引き出しを漁るなよっ!」
そんなことはどうでも良い! と、とてもデリカシーに欠ける発言をしながら、フリードはご立腹の様子だった。いや……どうでも良くない…………ごほん。
「——どういうつもりだ。あの少女を……彼の意思を継ぐものを唆して。そしてそんなものを己に見せ付けて」
ご立腹もご立腹……どうも気に食わなかったらしい。
本気でミラちゃんに手を出そうとしてるんじゃないだろうな……こいつ…………と、まあ優しくて面白いマーリンさんの顔はここまで、だね。
「————当然だ——僕を誰だと思ってる————」
「——っ。魔女——貴様——っ」
そうだ。僕は魔女だ。
勇者を殺めし悪女。その本質が変わることは決して無い。
僕は僕の望みの為に————僕達の望む、過ぎ去った未来の為に————
「——使えるものは全て使うさ。星見の巫女という肩書きも、大魔導士マーリンという過去も。あの子達の尊敬も、愛情も、信頼も。たとえそれでこの世界が滅ぶことになっても——」
「……親友にも毒を盛るのか。昨晩のように」
もう盛るまでもない。彼はとっくに籠絡済みだ。
僕だけは何があっても頼れるお姉さんだと、絶対にそれを疑うことは無い。その為に弱みも小出しにしてきたんだ。
随分と怖い顔をした黄金騎士様を煽るつもりは無いけど、アレの使い勝手は本当に良い。
少し疑っただけで疑念を全部取り払ったつもりになってくれるなんて、わざわざ長旅を共にした甲斐があったってもんだ。
「……僕達は互いに重罪人だ。忘れるな。悪魔がまるで人のフリなんて、笑わせるなよ黄金騎士。とっくにそのメッキも剥がれて、血で錆びついた鈍色になってしまっているくせに」
フリードは何も言わず、僕を軽く突き飛ばして部屋を出ていった。ふんっ、せめて捨て台詞くらい吐いてけってんだ。
それと…………軽くでもお前の腕力じゃ結構痛いんだからな……っ。
他に誰もいないってのに泣きそうになるのをちょっと我慢しながら、僕は窓の外をちらりと覗いた。アギトがいるのは……大体あの辺りかな、なんて。
「…………そうだよ。僕は……僕はもう、絶対に……っ」
十六年前、彼の墓前で誓った言葉を忘れない。
何があっても成し遂げる。絶対に、あの時の約束は果たさないといけない。
巫女でも魔導士でも、英雄でも黄金騎士でもない、ただのマーリンとフリードとして。
僕達は必ず、あの地獄で求めた幸福を————




