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異世界転々  作者: 赤井天狐
異世界転々
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第五十六話

 板山……ベーカリー……ここか。時刻は午後六時四十分を少し過ぎたところだ。早過ぎず、かつギリギリ過ぎない、理想的なタイムを叩き出したんではないかな?

「ごめんください」

 これまでの秋人の人生ではろくすっぽ使ったことのない言葉がスラスラと出てきた。アギトとしての生活は、案外経験値として蓄積されたとみていいのだろうか。準備中の札を提げたドアを引いて、僕は思っていたより広いパン屋に乗り込んだ。香ばしく甘い、これこそと言わんばかりのパンの香りがさっき満たしたはずの胃袋を刺激する。

「いらっしゃいませ。あ、もしかして原口くん?」

 奥から出てきたエプロン姿の男性は、これまた思っていたより穏やかな表情で僕を出迎えた。兄さんの先輩ということだから、まだ四十手前といったところだろうか。しかし、バンダナ越しにも見え隠れしているグレーに侵食されつつある頭髪に、その苦労が窺えた。

「はい。原口秋人です。今日はよろしくお願いします」

「はい、店長の板山です。よろしくお願いします。ささ、こっちに」

 なんというか……体育会系とは程遠い、イメージからかけ離れたその姿は、どちらかといえば小学校の頃人気だった図工のおじいちゃん先生のようだ。背も僕と変わらないくらい、平均身長か少し低いか。体つきも大きくないし。まあ拍子抜けと言うより、僕としてはむしろ安堵と言えようか。

「狭くてごめんねぇ。あ、そうそう。ケンちゃんから話は聞いてるから。とりあえず採用は採用なんだけど、何か先に聞いておきたいこととかある? あ、時給は千円ね」

「えっ、そうですね……えっ? 採用?」

 売り場から奥へ……事務室? とにかく、荷物が多くて手狭な部屋へと通されると、そこでそんなことを告げられた。とんとん拍子に話が進み過ぎている。ちょっと待って欲しい。知り合いの弟だから、という理由での採用ならそれは心苦しい。いえ、喜んで受けさせて頂くんですが。

「まぁねえ。今、僕一人だし。猫の手も借りたいっていうのかね。どうしても学生さんが働きにくい時間帯がメインになるからね。土日祝日と夕方は高校生なんかが来てくれると嬉しいけど、どうしても平日日中はねえ」

「はあ……いえ、僕としてはとても有り難い、嬉しい話なんですけど」

 散々探しても見つからなかったバイト先が、こうもあっさり……複雑だ。しかし、これまでの失敗の理由の一端が見えた気もする。結局、僕はほかの若い学生に比べて、働ける時間帯に調整が効いて多少長時間でも問題ない、という点で勝負すべきだったんだろう。それから、僕が出した希望の時間帯や日にちが、向こうの需要と噛み合っていなかったというところか。成る程、兄さんが持って来た案件だけあって、僕でもその需要を満たせる職場だったと言える。

「社会復帰の一歩として、まあ就職までの間ここで勉強出来る事はしていくといいよ。ケンちゃんにあんまり心配かけちゃダメだよ」

 どうにも……親戚のおじちゃんっぽい。しかし板山さんの言う通りだ。これは僕が変わるための第一歩。兄さんと母さんに恩を返す為の——彼女に誇れる秋人になる為の、約束の一歩目だ。

「えーっとね、シフトなんだけど。人が集まるまでは、ごめんね。夕方だったり土日なんかもいっぱい入って貰うことになるかも。出来るだけ苦しくならない様にはするから。しばらくの間は、出られない日を教えて貰えるかな」

「あ、はい。分かりました」

 出られない日、と言うのは基本的に無い。オフ会という唯一のイベントを超えると、あとは本当に何も無い。兄さんから話は行っているのであろうし、こんなところで無駄な見栄を張っても仕方無い。僕は素直に、その日以外の全てが暇な事を伝える。

「いや、本当に助かるよ。でも労基に引っかかるからあんまり長い連勤は出来ないんだ。もしガッツリ稼ぎたい、とかだったらゴメンね」

「あ、いえいえ。そういうものなんですね」

 それから色々時間やら手当やら保険やら……成る程、働くというのはこういうものなんだな。あっちでは紙にサインして、労基なんてないもんだから毎日こき使われて。いや、まあそれも全部水泡……いかんいかん! 今は秋人として頑張るターンだ。僕は割とちんぷんかんぷんながらに必死に話を聞いた。

「それじゃあ、もう明日からお願いしようかな。朝の九時から、お昼休みを入れて十六時まで。あ、お昼はこっちで準備するけど、もし足りなかったらお弁当持ってくるか、お店のパン買ってもいいからね」

「はい、わかりました。今日はありがとうございました」

 みんなで食べてね。と、お土産にミニクロワッサンを手渡され、僕は見送られた。板山ベーカリーから、果たして僕はどんな顔をして出てきたのだろうか。しばらく歩くと夜風が顔を撫で、肌寒さを感じて初めて心拍が上がっているのを自覚した。僕の体は、僕が理解するよりも先に喜びを示していた。

「ッ〜〜〜〜〜〜やった……っ!」

 僕は小さくガッツポーズをした。何をそんなにおおげさな。たった一度の成功。それも何のことはない、兄の人脈を頼って、ただのアルバイトで。人がいないからと猫の手も借りたい様なお店に採用されただけで。たった一度——やっと、一度。秋人が誰かに必要とされたことがこんなにも嬉しい。僕は小走りで家に帰った。

「ただいま!」

 きっと兄さんは全部知っていただろうから、採用される前提の面接に受かっただけで舞い上がる僕を見て笑うのかもしれない。でも、きっとバカにはしない。二人は僕の顔を見るより前からニコニコして帰りを待っていてくれた。

「……頑張れよ、アキ。これでスタートラインなんだからな」

「うん、わかってる。あ、そうだ。これお土産にって……」

 僕はもう自分で待ちきれなくなって、可愛いリボンを解いて……リボンは飾りで普通に密封されていた。ええい! 僕はビッと袋を開けてミニクロワッサンを頬張った。

「そういえば食べたことなかったな。どれ、いただきます」

「…………うん?」

 マズイ。わけではない。なんだろうか、こう。弱い。味が弱いというのか、なんと言うのか。いや、味は弱くない。チョコ味だろう、甘くてどこかほろ苦い香り立つ味。なんだろうが、うん? なんだろうか、とても……不思議と……

「…………アキ。次のバイト先も見つけておいたほうがいいかもしれんな」

「……縁起でもない…………」

 早速だが僕以上に板山ベーカリーの将来が危ぶまれてしまった。

 美味しいとは言い難いクロワッサンを完食して、テレビを見ながら家族団欒をしていると気付けば時刻は午後九時過ぎ。おっといけない、早く寝なければ。

「明日はどうしても遅刻出来ないからね。もう寝るよ」

「ん、そうか。早すぎる気もするが……まあ、その意気だ。おやすみ」

 そう、遅刻するわけにはいかないのだ。何が何でも、絶対に寝過ごすわけにはいかない。PC? 無視だ。SNS? ノーサンキュー。あ、デンデンさんからダイレクトメール……ええい、すまぬ友よ! そなたとの会話チャットは長くなりすぎる! 未読無視スルーだ! 僕にはどうしても外せない用事があるんだ!

 目を瞑った。午前四時起きに加えて今日は色々やった。筋トレもした、勉強もした、料理も作った、ヨガもやった、合気道もやった。全部数分だけど。そして、極め付けにバイトの面接も受けた。これだけ色々やったんだ。さあ、ならば何故‼︎

「…………全然眠たくならねえ……」

 寝ろ! 眠るんだ秋人! 急げ! 間に合わなくなっても知らんぞ!

 今すぐ眠れば楽園が待っているんだァーッ‼︎


 硬い床、顔を撫でる隙間風。仄かに香る、嗅ぎ慣れた彼女の匂い。どうやら僕は目論見通り眠ることが出来…………体温が。あの暖かい生き物の温度が腕の中に…………無い……っ⁉︎

「ミっ——」

 飛び起きて声を上げようとした僕の口を、柔らかくて暖かいものが塞ぐ。早起きすぎる! もうぱっちり開いたその両目で僕を見つめ、彼女は僕の口に手を当て声を出さぬ様に指示をする。

「……良い? 絶対に大きな物音を立てないこと。囲まれているわ」

 真剣な表情で彼女はそう言った。ギィ…………ギィギィ……と、不気味な、しかし何か最近聞いた様な音が聞こえる。入り口のドアの向こう、家の裏側。いや、これは……屋根の上からも……っ⁉︎

「……ミラ、もしかして…………」

「…………ええ、最悪の展開よ」

 バサバサと巨大な翼を力強く羽ばたかせる音がすぐ近くで聞こえる。間違いない。彼女が想定外と評し、相性が悪いと苦い顔をしたあの怪鳥型の魔獣が、今まさにこの集落全体に降り立っている。ここはやはり奴らの住処だったのだ。夜行性の奴らが、今からまさに羽根を休めようと大群で戻ってきている。眠りから覚めたばかりの僕らは、魔獣の集落のど真ん中に居た。


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