第五十三話
魔獣の撃退後数十分、僕らが目にしたのは荒れ果てた畑だった。途中口数が目に見えて減っていた彼女は、きっととうの昔に異変に気付いていたのだろう。飛行する魔獣がいて、対策らしい対策は地上に設置された柵のみ。これではきっと村も……
「……どうする? 正直に言って、辛い思いをするだけかもしれない。でも、薄い確率だとしても私は確認しに行きたい」
朽ちた柵を前にして彼女はそう言った。村にさっきの怪鳥が潜んでいるのなら、僕だけじゃなく彼女も危険に晒される。回避が賢明なのだろう。だが……
「行こう。その為の旅なんだもんな」
彼女はニッと笑って柵を飛び越えた。広い田畑を抜け、そしてきっと農具置き場か収穫物の保管に使われていたのであろう半壊した小屋で、魔獣の死骸を発見した。随分古い。腐敗しきって原型も留めていなかったが、それはいつかガラガダ周辺で見た狼の様な猿の様な魔獣だった。
「この辺りにも生息しているのか。はたまた……」
「よく平然としてられるな……」
何を今更。と、彼女は言うが、その肝の太さは羨ましくない。一体この幼い少女が、どんな苛烈な人生を送ればこうなるのだ。と、ただでさえ深い彼女の過去への疑問が掘り進められた気がした。警戒しながら進んで、木々に隠されていた、開拓した跡のある村への入り口を発見する。もう草が茂ってとても希望は見出せないが、彼女は何も言わず足を踏み入れる。
結果は最低。だが最悪ではない、と言えるところだった。
「……ダメね。ごめん、分かってたことなのに」
「俺のことなら気にするなって。ミラだって辛いだろ」
僕達は落胆と安堵の入り混じった苦い感情を飲み下した。幸いと言うべきだろう、建物は無事で魔獣の住処と化している様子もない。もう日が暮れる。身を隠す最低限の施設が揃っている事にこそ感謝しよう。
「今日はここで休もう。この近くに人里があるとも限らないわけだし」
「そう、ね。どこか……出来るだけ傷んでない家を借りましょう」
僕はそう言った彼女をつい見つめて、と言うか凝視してしまう。望ましい返答ではあったのだが、失礼ながら彼女がそう答えるとは思っていなかった。
「……なによ」
「いや、てっきり進むって言うかと。まだ何時間か余裕もあるだろうし」
彼女は大きくため息をついて、苦い顔をして頭を抱えた。髪をくるくるしたりわしゃわしゃと掻きむしったり、鬱憤を相当溜め込んでいる様子だった。
「…………さっきの鳥みたいな、あの飛ぶ魔獣。正直、想定外だったわ。アレがもっと出てくる様なら、引き返してルートを考え直さないといけないかも」
「想定外?」
恨めしそうにそう語る彼女の眉間には深くシワが刻まれていた。想定外、と言うのは飛行する魔獣が、と言う事だろうか? 僕は思うままに彼女に尋ねる。
「飛ぶ事……もそうだけど、真に厄介なのは眼ね。攻撃を避けられる、って言うのは魔獣相手には無いって思ってたもの。空じゃ私は動けるわけもないし、飛べて目もいいって言うのが本当に厄介」
「避けられるって言ったって、なら次からは最初からあのぶわーっやつで……」
言いかけてその理由に気付く。成る程、僕か。僕は恐る恐る自分に指をさして彼女の答えを待った。
「まあ、そんなところよ。あ、でも勘違いしないでね? だからってアンタが足手纏いだとか、変なこと思わないように」
それは……難しい注文だ。僕を巻き込みかねないから使えない有効打がある。と言うのを打ち消せるだけの貢献が出来るだろうか。出来まい。となれば当然、僕はお荷物なので……
「ほら、もう寝るわよ。背中貸しなさい」
「もしかして本当に布団にする為だけに連れてきてないだろうな?」
彼女は笑って、そんな事ない。期待してる。と言ったが、果たしてその心は。むんずとのしかかるように僕の背中にしがみついて彼女はすっかり睡眠態勢に入ってしまう。
「あの、ミラさん。それだと俺が眠れないんですよ」
「えー。じゃあうつ伏せになりなさい。その上で眠るから」
「本格的に布団として扱われ始めた……」
結局、問答の末寝転んだ僕を抱き枕にする形で決着がついた。頭が痛いだの背中が痛いだの文句を言っていた少女は数分もするとすっかり眠り込んで、静かな日没を迎える。僕も眠ろう。明日も同じ様に歩き、走り、戦う……彼女の足を引っ張らない様にするのだ。背中に体温を感じながら、僕は瞼を閉じ————
「————ッ⁉︎」
瞼を閉じた途端、僕は胸の苦しさに堪らず目を開いた。ダメだ——ダメだ‼︎ とても眠れるわけがない‼︎
僕の体は恐怖に震え、全身から冷や汗を吹き出して金縛りにあったみたいに動かなくなっていた。
「…………眠れないわよね。ごめん、やっぱりここには寄るべきじゃなかった」
「ミラ……まだ起きて…………」
当然のことだった。今、僕らの周りに安全と呼べるものはひと欠けとして存在しない。目を瞑って、非日常的な二人旅という偽りの表題を取っ払えば、そこにあるのは命の保証も何も無い危険だけが存在していた。自分の心音で頭が痛くなりそうだ。
「……ごめん、俺が起こしたかな。すぐ寝るから……大丈夫……」
僕はすぐにバレる嘘を吐いてまで見栄を張った。ひどく滑稽だったろう僕を彼女は笑うでも憐れむでも無く、ただ黙って立ち上がり僕の前にまた寝転び直した。
「……背中。貸したげる。今日だけよ?」
ずいずいと後ろ向きで迫る彼女に、僕はさっきまでの恐怖も忘れてたじろいだ。背中……ってそれはマズイだろう⁉︎
「騙されたと思って。こんな機会そうはないわよ。いいからいいから」
「……いや…………その……じゃあ……」
下手なことは出来ない。下心も見せてはならない。僕はおそるおそる手を彼女の体に回してその細い体を抱き寄せる。散々弄ばれてきた髪の匂いが今はとても心地よい。震えるのを必死で堪えながら、僕はもう一度目を瞑った。
無機質なバイブレーションの音に目を覚ました。午前……五時。一体何の通知かと思えば、どろしぃさんことデンデンさんからのダイレクトメールだった。僕の生活サイクルをよく知っていらっしゃる。深夜から朝にかけてアクティブな徹夜ゲーマー(昼間寝ないとは言ってない)が、そろそろ一息いれるか。と、夜食を貪り出す四時、五時に連絡とは。僕が相手じゃなかったらかなり常識知らずな行動だろう。
「…………そうか。眠れたんだな」
僕はもうどこにもない彼女の背中を思い浮かべてそう呟いた。ここまで効果覿面だとは。ふと緩む頰を引き締め直すこともせず、僕はアプリのメールボックスを開いた。
『どうですかなクラウンサーガ。お気に召しそうなら是非またパーティを組みましょうぞ』
クラウン……サーガ……? クラウン…………ああ! たった数時間前の出来事も今の僕には三日前。それも特上に濃い二日間を挟んだが故に記憶が飛ぶこと飛ぶこと。
『キャラクリ楽しい。一生やってられる』
『キャラクリは本編(至言』
キャラクリキャラクリ。意味崩壊しそうな連呼を頭の中でして、そうだったと思い出す。髪色は問題無い。だが髪質というか、もう少しふわふわした感じに。昨日改めて触れる機会があって知ったのだが、彼女は結構猫毛だ。それによく帯電していることもあって、髪は割とふわふわ広がることが多い。サラサラ系ストレートヘアを選んだが、意外とゆるくウェーブのかかった髪型の方がそういう意味ではしっくりく……る……
「…………僕は一体何をしている……?」
モニターいっぱいに広がるクラウンサーガのゲーム画面。そしてロードが終わり、映し出されるオレンジ髪の少女のキャラクター。うん、髪色はもう少し茶色に寄せた方が……じゃない! いったい! 何を! やっているんだって! 言ってるんだ‼︎
「……お、おおおおおおお落ち着け。ビークールだアギト、いや秋人。そうだ、確かに結構時間が経ったって気もするが、実日数で言えばまだ全然。ちょっと日付感覚が麻痺してるだけでまだ全然……」
麻痺してるから。麻痺してるからセーフ。セー…………アウトォ! 僕は! 変わるんだって! 言っただろうが‼︎
「お、お、お、おおおおおおおおちちゅけ……ままままだあわわわわ」
そう、僕はまだ三十路ニートから脱していないのだ。とても重大な事実を非日常に忘れてしまっていた。