第五十一話
そろそろ顔の形が変わってしまうんじゃないか。と、鼻血が止まったのを恐る恐る確認して、僕は顔に当てていたタオルを畳んでそこらに置く。犯人は別段罪悪感とかを感じている風でもなく、なにやら布団を敷いたりして……あの、本当に部屋の中を好き勝手されるのは心臓に悪いんですけど……
「じゃ、明日から出るわよ。いつまでも居たんじゃ決心が鈍るしね。起きたらお風呂行って、約束しちゃってるし、ロイドさんには声かけて。皆に声かけるわけにもいかないし、表に張り紙でもしていきましょうか」
「相変わらず……いや、もう何も言うまい」
即断即決、と言えば聞こえはいいのだが……もう少し僕に相談というか。僕も一緒に行くんだから僕の都合も考えてくださいよと。いえ、まあ予定なんてある訳もないんですけど。
「あんまり遅くなると野宿なんて羽目になるからもう寝るわよ。朝一で張り紙作って、荷物纏めて。お昼には出発したいところだけど……」
「うん……それはいいんだけどさ。何してらっしゃる?」
丁寧に丁寧に広げられた僕の——そう、僕の部屋の僕の布団に彼女は寝転び出した。何、またひとりだと不安で眠れないとか? そんなこと言ってもダメですからね? それ僕が眠れなくなって、明日シンドイやつなんですからね?
「……ダメ?」
「…………っぐうぅ。断らなきゃいけないのに……」
なんて顔をするんだ! そんな…………ああ! わかったよ‼︎ 一緒に寝ますよ! ご褒美ですもの! 明日旅に出るなんて非日常イベントの予定さえなければッ‼︎
「ほらもっと、こっち寄って。あ、でもあっち向いてね」
「あっち向いてって……」
気にするくらいなら一人で寝てくれ。明後日出発ってなら全然構わないんですけどね? 渋々布団に入ると、背後に小さい生き物がいると散々鍛えられた背中のレーダーに反応があった。次第にそれは近付いてきて……
「……ああ、あったかい。もうあの布団じゃ背中痛くって。アンタにおぶられたまま寝た時は本当に快眠だったわ。帰ってきたら秘書じゃなくて布団で採用してあげようか」
「え? もしかして今完全に寝具として扱われてない? 不安だから一緒に、とかそう言うんじゃなくて?」
かつてないほど淡白で冷静に、何言ってんの? と、切り捨てられてしまった。こんな仕打ちがあるだろうか。さっきまであんなしおらしく……もしかしなくてももう僕のこと男としては見てないよね。アンタさえいれば他に何もいらない(誇張表現)! なんて言ったのも嘘だったの⁉︎ 弄んだのねっ‼︎
「んー……もう、ジッとしてなさい。おやすみ」
抱き枕としての職務を全うしなさい。と、言われてしまった気がした。拘束が強まって、すぐに寝息を立て始めたミラの寝付きの良さが羨ましいと、今程思ったことは無い。とにかく目を瞑って……体を休ませる事に全神経を集中させろ……
ふと体が熱くなっているのを自覚した。ああ、僕は眠ったのか。そして今起きて……そうだった。背中側だけ余計に高い体温のカラクリを思い出した。そうか、遂に克服したのだな。何か成長めいたものを感じて、僕はよく分からない悦に浸っていた。
「……起きて」
「ぉああああああああああああッッッッッ⁉︎ おッ! ミッ‼︎ ッ⁉︎」
耳元で囁かれた三音は、瞼も開かない半覚醒の様な状態の僕を蹴飛ばすように叩き起こした。振り返ればお腹を抱えて笑い転げている悪魔の姿があるでは無いか。
「あっはは! ぷっ……ふふっ。アンタ本当にこういうの弱いのね」
「他の奴には絶対やるなよ⁉︎ 絶対意味わかってやってないだろ⁉︎」
はて? と首をかしげるその姿に口が滑った事を後悔する。彼女は恐らく、いや間違い無く。小学生レベルのイタズラとしてやったに違いない。耳がこそばゆいとか、そんな理由で僕が飛び起きたと思っているに違いないのだ!
「さ、起きたんならさっさと支度して。ポーチも繕っちゃわないとね」
そう言ってひとしきり笑い終えた彼女は、さっさと僕の部屋を出ていった。人の気も知らないで。しかし……そうか。一晩経ってようやく実感する。まだ朝日も差し込まないこの部屋で起きるのも今日で最後か。いや、きっと帰ってくるさ。それまでにこのボロ市役所が潰されてないとも限らないけど。
「……さて、支度って言ってもな」
この部屋にあるものは基本的に元々あった家具だとか、仕事で必要だろうと彼女から支給された筆記具と鞄だとか。カビ臭く薄っぺらいタオル……うわっ、なんだこれ⁉︎ ああ、昨日の鼻血拭いたやつか、これ。あとは……件の督促状。と、呼ばれてしまった霊薬……が封印されていた金属の箱……が入っていた巾着。うん。僕が持っていくものは、彼女が今修繕してくれているポーチと、そこに彼女が入れてくれるお助けアイテムだけだ。チキショウ! 私物がねえ!
「……しょうがない。なんだかんだ言ってまだ一週間も居なかったもんな」
僕は芸術点の高そうな、特によっこらせ部門なんてあったら世界を狙えるようなおっさんくさい声を出して部屋を後にした。ドアを閉める直前、短くとも濃い日々を共にした自分の部屋に、後ろ髪を引かれる思いをしたが、部屋から飛び出してきたミラに物理的に引かれてお別れの挨拶も出来なかった。そして彼女は市役所を出た時も振り返らず、一目散に教会へ向かって歩き出す。
「……感傷に浸るくらいはいいと思うけどな」
「要らないわよ。帰ってくるんだもの」
小さな背中がいつも以上に大きく見えた。頼もしさに加えて、彼女を押し潰そうとしていた彼女自身の掛ける重圧も消えて。あんなに子供じみていると思っていた彼女が、今はこんなにも大人びて見える。それが少し辛くて、僕は目を背けて歩いた。
いつも通りにお風呂から出ると、彼女はもう外で待っていた。シスターも神父も彼女の元気さに驚いていて、でも安心したように笑って接していた。朝早くから仕込みをしていたロイドさんは驚いた顔をしていたが、最後には笑って送り出してくれた。サンドウィッチの差し入れまで貰ってしまったからには約束は必ず果たさねば。一応広場にも訪れたが、彼女が言霊を唱えることは無かった。たまたま会ったボガードさんは寂しそうな顔の一つでもしてくれればいいというのに、大笑いして、まぁ頑張れや。帰ってきたらまた笑ってやる。なんて……果たしてそれは激励なんだろうか。
「はぁ。やっと馴染んできて……思い入れ、あるんだけどな」
「バカ言って。思い入れなら私の方がずっとずーっとあるわよ」
彼女は笑った。いつか僕が秘書になると言った時よりも希望一杯に目を輝かせて、生まれ故郷アーヴィンに背を向ける。
「ほら、行くわよ!」
手を取って、気持ち速足で僕らは進み始める。目指す場所は……王都。王都? ところで…………?
「あの、ミラさん。つかぬ事をお伺いするのですけど。王都ってどのくらいで着くんですかね?」
「馬車で三日くらい。徒歩なら一週間じゃ着かないでしょうね」
ふむ…………なるほど?
「あの……ミラさん。つかぬ事を……お尋ねするのです……けど? 今日は何処を目指すのでしょうか? いえ、最終目標地点が王都なので、王都を目指すのはわかっているんですよ?」
「…………さぁ?」
ふぅむ………………なるほど!
「あのぅ……ミラさん? つかぬ事をですね。お尋ねするんですよ。お尋ねするんですけどね?」
「………………アギト? この旅は成長の為の——そう、アテの無い旅なの。街から出たことなんて無いし、何処に向かえばいいかなんて分からなくても。それは、それ。これは試練なのよ」
ふーーむ! なるほどな‼︎
「バカっ! バカミラっ‼︎ 一回帰ろう⁉︎ 一回帰ってちゃんと計画立てよう⁉︎」
「あははは! 聞こえなーい!」
「バカっ! コラ! 走っ……街が‼︎ アーヴィンが離れてっ‼︎ せめて! せめてガラガダに! 知ってる場所でちゃんと話し合おう⁉︎」
僕らは全く見覚えのない景色の中、全く見通しの立たない旅を始めた。
少年と少女の旅は始まった。瞼を閉じるとその息吹を感じられる。まだ儚く、弱々しい瞬きが軌跡を描いて……
「……ふうん、まだ視えないんだ」
流星は姿を消してしまう。僕の視界に捉えられない未来の先に邂逅は果たされるのだろう。しかしユーリがもう少し待っていれば……いや。昨日も一昨日もその未来は視えなかった。このすれ違いは決まっていたことなんだろう。
「マーリン様。御食事の支度が出来ています」
「うん、ご苦労。すぐに行くよ」
ツカツカと無機質で無遠慮な音が遠のいて行く。彼の名前は……なんだったかな? 僕には必要の無い情報なんだろう。もう一度深く沈む。瞼を閉じて、星々の園にこの身を浮かべる様に。ああ、早く会いたいな。
今度は一体どんな姿なのだろう——




