第四百九十四話
手応えはあった。しかし、あくまでも動きや手の内を全て知っているミラが相手だからこそ、でもある。
それじゃダメだ、結局コイツを守ってやれない。それじゃあ強くなったとは言えない。
ミラをお腹の上から退かしてゆっくり体を起こすと、周囲の空気が変わっていたことに気付いた。
遅かれ早かれ……ってやつだけど、うん。
変な誤解はさっさと解いておいた方が良いんだし、下手に口で説明するよりこうして見て貰った方がスムーズだろう。
こっちの男には勇者として必要最低限の武力は備わっていない。これまでの期待はどうやら過剰なものだったようだ、と。
「……さ、もう一本よ。ほらほら、早く立ちなさい」
「…………っ⁈ も、もう一本⁈」
まだ止めの号令は掛かってないわよ。と、あまりにも無慈悲なことを言って、ミラはその場でぴょんぴょん跳ねながら構えをとった。
ちょ、ちょっ……そうだけどさぁ。そりゃね、言いたいことは分かりますとも。分かるけど………………堪えるんだぞ……っ。
まさか取っ組み合ってお前に勝てるだなんて思ってないから、割と普通にボコボコにされるのは平気だ。平気じゃないけど。
でも…………ふぐぅ……お前にそんな顔で殴り掛かられるとだな……
「そうは言っても、笑ってるじゃない。ずっと気にしてたことだものね、しょうがないのかも知れないけど。成果が目に見えるっていうのは嬉しいのよね」
「…………笑って……?」
ミラの言葉をそのままは信じられずに、僕は慌てて自分の顔面を両手で触って確かめた。
うむ、ブヨブヨにたるんだおっさんフェイスは存在しないな。じゃなくて。
笑ってる…………らしい、彼女の言う通り。
頬が緩んで口角が上がっている、自分の意思とは関係無く顔が綻んでいる。
そうか…………っ。僕は遂に妹に叩きのめされて喜ぶような特殊性癖に…………ッ。
「さあさあ早く、サボってると怒られるわよ。私達の行動はいちいち王様に報告されるかも知れないんだから、人前では気を張ってなさい。そういう立場にいるんだって自覚を…………?」
「……? ミラ?」
妹にボコられて笑ってる変態だなんて告口されたら堪ったもんじゃないよ。
周囲の視線を感じ、急いで立ち上がってもう一度ミラを前に構えを取る。
恥じらう乙女の構え、僕の唯一の武器。
逃げ惑う為の、生き残る為の。ミラが心置き無く戦えるように、誰の足も引っ張らない為の、最初に貰った大切なもの。
名前は……なんとかして欲しいけど……っ。
やる気があるわけじゃない。もうミラにあんな怖い顔で睨み付けられたくない。
殴られたくない、蹴られたくない。けどそれ以上に、ミラが周りにとやかく言われるのは……それも、僕の所為で何か言われるのは看過出来ない。
そうやってなんだか無理矢理絞り出したようなネガティブなやる気で覚悟を決めると、どうしたことかミラは構えを解いて、僕よりも更に後ろを眺めていた。
ちょ、ちょいちょい。お前が言い出したのにやめるなよ。
頑張ってやる気出したんだから、これ切らすとまた再起動に時間が掛かるんだぞ。
まったく、いったい何を気にして……
「…………っ⁈ あの……な……なんでしょうか…………?」
ミラの視線を追って背後を振り返ると、そこにはさっきまで全員に指示を出していた、所謂師範代のような老騎士のひとりが神妙な面持ちで立っているではないか。
あの…………その……ぼ、僕が何か…………?
分かっています……っ。邪魔だと、全体の稽古の足を引っ張っていると……っ。
通告しにいらしたのでしょう……クビを………っ。
「まだ号令は出しておらん! 全員集中して稽古に取り組め! さて……君達ももう少しだけ見せてくれ。もう一本だけでいい」
「えっと……は、はいっ。そ、そういうわけで…………」
最後のチャンスをくれてやる宣告…………っ!
なんとかしなきゃ……ミラを倒すのは無理、そもそもアイツに手を出せない。
だったら……徹底的に受け切るしかない。
打撃は避けられた。しかしその後、ミラの言う対人格闘技というものに切り替わってからが問題。
小刻みに間合いを調整するミラを相手に、僕はその状態のコイツの射程を測るところから始めなきゃならない。
助走が無いとはいえ、ミラの瞬発力は尋常じゃない。
拳が届く距離、蹴りが届く距離よりもずっと遠くからでも一瞬で詰め寄られかねない。
それとひとつ、さっきは失念していたことがある。
当然、コイツの目は動体視力も飛び抜けている。反射神経も然りだ。
苦手じゃないんだ、インファイトも。
掴まれたら終わり、一撃貰ったら簡単に壊れてしまうという弱点は変わらなくとも、触れさせることすら無く密着して戦い続けられる技量が備わっているんだ。
迂闊だった、対人ってのはそういうことだ。
「…………ふーっ」
集中しろ、これが本当にラストチャンスかも知れないんだ。
ミラの構えはやはりさっきと同じ、じりじりと距離を詰めたり離したりしながら僕の様子を伺っている。
そんなことしなくても、さっきと同じように飛び掛かれば簡単に技を掛けられそうだとか考えるもんだと思うんだけど……実戦を想定しての鍛錬なんだな。
そうと分かれば、コイツの期待にも応えないと————
「————んな——っ」
ぴょんと少しだけ大きく跳ねたかと思えば、ミラの姿は視界からいきなり消え失せてしまった。
う、嘘だろ⁉︎ 強化も無しにそんな動き出来るのかよ⁉︎ なんて狼狽える間も無く、ミラの太い脚が僕の顔のすぐ横を貫いた。
あっ、太いってのは比喩的なものじゃなくて、筋肉で本当にガチガチに太いって意味です。
それでも僕と変わらないか、それよりも細いんだけどさ。
女の子の……この体格の女の子の脚としては、ってやつ。
それは今はよくて!
「——も——もう一回っ! い、今のはちょっと……その……」
「そうね、今のはだいぶ酷かったわ。やっぱり変わってないわね、あんまり。変に気負うから視界が狭くなってるのよ。さっきは良い集中力だったけど、今のは普段通りの、周りが見えなくなるアンタらしい悪い没頭の仕方だったわ」
んぐぅ……だ、ダメ出しが強烈……っ。
しかしミラの言う通りだ、頭であれこれ考え過ぎて目から入ってくる情報をうまく処理出来てなかった気がする。
テンポが変わったんだから動きも変わるだろうって気付けなきゃ話にならないだろうに……
「も、もう一回だって! ミラ! 次はもっと……? おい、もう一回……」
もう一回チャンスを。そう懇願する僕に、ミラは首を振ってまた僕の後ろを見ていた。
そんな……今ので終わり……? 今回は何もしてない、何も出来てない。
何も……アピールを…………っ。
このままじゃ終われない、もう一回だけ見て貰わないと気が済まない。
一回目はきっと出来過ぎだった、もしかしたら次も真っ直ぐ蹴り込まれてそれを捌けなくて即終了かも知れない。
けど……それでも、あんな悔いの残る結果じゃ終わりたくないんだよ。
なんとかチャンスを貰えないかと頼み込んでみよう。そう決めて振り返ると、やはりそこには老騎士が眉間に皺を寄せて僕のことを睨み付けていた。ふぐっ……こ、怖いけど……言わなきゃ……
「もっ、もう一回だけチャンスください! 今のは……その……アイツの言う通り、視野が狭くなってました。自分でも驚くほど身体が動いたから、妙な期待を自分の中で持ってしまってたんです。もう一回……もう一回だけちゃんと……」
「……今の一撃で君は死んだ。戦場というのはそういう物だ」
知っている。そんなことはとっくに知っている。いったい何度目の当たりにしてきたと思ってる。
一瞬の判断のミスで、精神的な動揺で。僕は何度も周りに迷惑を掛けたんだ。
たまたまミラがいたから、マーリンさんがいたから。
桁外れの力量を持った誰かが居たから尻拭いをして貰えたってだけ、ただそれだけでここまで辿り着けた。
分かってる、それは。だけどこれは鍛錬だ、そういう弱さを克服する為のものだろう。
戦場なら死んでいた、じゃあその欠点を今ここで直そう。そういうことの為にみんなをこうして集めて……
「…………君にひとつ問いたいことがある。クラックという名前に覚えはないかな」
「クラック……? いえ……すみません……」
そうか。と、騎士は少しだけ肩を落としてしまった。
クラック……って人は本当に知らない。忘れてるとかも無い……筈。
えっと……どうしてそんなことを尋ねてきたのだろう。
クラックさん…………もしかして先代の勇者様? いや、それならそう聞くし、なんならミラに突っ込まれるか。
「その……どなたなんですか、クラックさんっていうのは。それと、えっと……どうしてそれを俺に……」
「……いや、もう随分昔の話になる。君の構えがその男の教えによく似ていたものだから、或いは……と。そんな筈は無いのに、心の何処かで期待してしまっていたんだろう。
かつてこの国で最も強いとされた騎士が、国の在り方に絶望してしまったあの男が、まだ何処かで剣を教えているんではないかと。
まだ戦う意思を見せているのではないかと。年寄りの勝手な勘違いだ、時間を取らせてしまって申し訳ない」
この国で最も強い……そんな肩書きには全く覚えが無い。けれど、その志には確かに覚えがある。
教え子の不遇に、この国の現状に涙を流した男がいる。
若者の命を護ろうと、ひたすら生き残る為の技術を教えている老人がいる。
僕にこの構えを教えてくれた、とんでもなく強い騎士の背中には間違いなく覚えがある。
「——あの——っ! その……クラックさん……と関係があるのか……いえ、絶対に関係してると思います。
俺にこの構えを、戦いの心構えを教えてくれたのは、ゲンという老人です。
そう……へんてこなラッパみたいな紋章を掲げた、元王宮仕えの隠居した老騎士に教わりました」
「……っ。そうか……やはり」
ゲン・クラック。かつてこの国で最も強いとされた忠義の騎士。
前王の代より仕えてきた、誰もが頼りにする歴戦の勇士。
老騎士の口から語られたのは、ゲンさんがまだ王都にいた頃の話。
自らが戦い、そして最前線を退いても違う形で戦い続けていた時の彼の活躍。
あまりにも厳しく、そして独特過ぎる指導内容から弟子全員にクソジジイと呼ばれ慕われた、僕らの知るゲン老人の過去の話だった。




