第四百八十五話
起床ァ! ァアラームよぉし! 五分前と言わず二十分前じゃい! ばっちり目ぇ覚めたぞ! くくく……
「…………くくっ……くっ……ぐふふふふ…………」
今日は火曜日、体育の日の次の日。別に何も無い普通の平日だが…………それは世間一般の選ばれなかった人間どもだけだぁーっ!
はぁーっはっはっはっ! 僕にはある……僕にはあるんだ、特別が! はい。
それは、昨晩の魔女の田んぼ……デンデン氏のお店での出来事だった…………
「……っと、流石に二十分じゃ遊んでる暇は無いよね。支度しなきゃ」
説明は後に回すが、とにかく今日は絶対に遅刻出来ない。なんならヘマも出来ない。徹頭徹尾完璧な男を演じ切らなければ。
シャワーを浴びて服を着替えて、朝ごはんもそこそこに軽く体操を……して、汗かいたらまたシャワー浴び直しになるやんけ。体操は無しだ無しだ、そこまでの暇は無い。
じゃあこのちょっと余った時間を……新聞でも読むか、テレビ欄以外も。
「アキ、今日は妙に上機嫌だな。何かいいことあったのか?」
「え? あー、いや。へへ、いいことあったというか……」
いいことあるというか。ぬふふ……いいことは今日起こるのだ。
いや、その予告の時点で、もう割といいこと判定上がるくらいは喜んだけど。
さて、そんなこんなで新聞読むふりしたり、兄さんと他愛のない話をしていたら、そろそろ出る時間だ。
コップに残った朝のコーヒーの残りを……コーヒーなんてなかなか飲まないっす。はい、ええ。これはただの麦茶でして。
「ごくっ……ごくっ……ぷあっ。ごちそうさまー、行ってきまーす」
「はい、行ってらっしゃい。気をつけてね」
はーい。と、今になっても子供みたいな返事をしてしまう。しょうがないね、相手は母さんだからね。
ふたりに見送られて僕は家を出る。そして…………ぐふ……ぐふふ……待ち遠しきはお昼休憩かな。
あー……楽しみだなぁ……なんでこんなにワクワクしてるのかなー……ぐへ。
おはようございまーす。と、出社(?)早々元気良く挨拶をする。
これはもうなんて言うか……社会人としての常識? マナー? ま、出来る大人なのでそこら辺はしっかりしてますとも。
おい、そこ。それくらいしか出来ないとか言ったらあかん、おじちゃん泣いてまうで。どこの人だ、僕は。
さて、繰り返すようだが、今日は火曜日。取り立ててイベントごとも無いふつーの平日だけに、正直売り上げの方はそんなに期待出来ない。
人気が出てきているとは言え、平日は平日。何も無い日にはやはり何も無いのだ。
シフトのローテーション的に、今日お店にいるのは僕と店長、あと……いや、車があるからふたりだけかな。
西さんは今日はお休み……もとい、配達は無い日だ。さて、まあ何が言いたいかっていうと……
「おはよう、原口くん。今日もよろしくね」
「おはようございます。お……おお、なんかもう既に良い匂いが……」
するよねぇ。なんて、店長は目を細めて笑っていた。
うんうん、良い匂いだ。この匂いは……お出汁の匂いだろうか。
匂いの元は、本来なら誰も居ない筈のキッチンから。
ふふ……まだ準備の時間にも余裕はあるし、ちょこっと覗いとこうかな。
「……ん、アキトさんおはよ。な、何……? どしたの、気持ち悪い顔して……」
「いやぁ……でへへ……」
誰が気持ち悪い顔だよぅ……でへ。キッチンの扉を開けると、そこには居ない筈の花渕女子の姿があった。
うふふ……エプロン姿だ…………うふふふ。キモい自覚はございます、そのツッコミは野暮というものでしてよ。そう、キモくもなってしまうのだ。
今日! 僕は! 母さん以外の! 女の子の手料理を! 生まれて初めて食べるのだっ! これでデレデレしない理由はないだろうがっっ‼︎
そう、ことの発端は昨晩。魔女の田んぼにて何気なーく奢りの約束の話題を出したところ、もう奢って貰ったけど? と、ボケ始めのおじさんを見る目で言われてしまって……ぐすん。じゃなくて、その後。
約束と言えば、ご飯作って食べさせてあげるって約束してたね。明日休みだし、丁度良いから作りに行くよ。
なーんて……でへ、そんな可愛いことを言われてしまって、もう昨日の晩から胸が高鳴りっぱなしで……
「ほら、まだご飯の時間じゃないじゃん。働け働け」
「はーい。でへ、めちゃめちゃ良い匂いする……楽しみだなぁ……」
そこは期待しといて。と、自信満々な笑みを浮かべる花渕さんに、これでメシマズ属性でも付いてたらまた更にギャップ萌えというか……いや、流石にそれは盛りすぎか、属性。
意外にも家庭的な一面が〜みたいな方がギャップあるでしょ。とか、本人はそんなこと言いそうだけど……うん、一応その……本人は自分を不真面目系だと思い込んでるから。
根っからの頑張り屋で、ひたすら勤勉に生きてきた彼女が、そうやすやすと堕落なんて出来ない。
僕にはそこまで大きなものは来なかったけど、それでも小さいなりには抱いたんだ。
違うよ、下ネタじゃないよ、なんでそっち行ったの。罪悪感の話だよ。
真面目に生きてきたからこそ、何もしてないって時間がとても苦しいと彼女は打ち明けてもくれた。だから、家にいる間にも頑張ってた筈だ、いろんなことを。
さて、そんなことで思うところは多々あるんだけど……
「……今日っのおっひるはなっんだっろなー……っと。出汁とってたってことは和食だよね。それも汁物か……煮物か……汁物だとしたらもう一品はありそうだよな。煮物……ふふふ、良いよねぇ煮物。肉じゃがとか作ってくんないかなぁ……」
男は胃袋を掴め、的なね? そういう話をこう……思い浮かべますと、やはり煮物を作れる女性は魅力的なんですよ。
僕の趣味的な話じゃなくて、世間的に思い浮かべられる女性像の……え? 古い? そ、そんなことないよぅ。
黒髪清楚で料理が上手くて……うふふ、花渕さんって何気に大和撫子だよね。
文武両道……はちょい違うか。あんまり運動はしてなさそうだし。苦手ってわけでもないだろうけど。わりとへなちょこパンチだったし。
ん? はい? 茶髪……? え? ちょっと何言ってるか分かんない。
花渕さんは黒髪だよ? 艶のある黒い髪をいつも綺麗にしてるよ。
はい? 妄想乙? いやいや、ちょっと何言ってるか分かんないっすね。
「……っと、そうだ。晩御飯食べてくからって連絡しとかなきゃ……」
ふと思い出したとスマホを取り出して、僕は母さんにその旨を伝えるメッセージを送った。
そう! そうなのだ! 今日は晩御飯も食べて行くのだ! お店で! 昼も夜も花渕さんの手料理ですよ! やっふぅ!
なんでそんなことになったかというと……やっぱりそれも昨晩に遡りまして……
「おーい、アキトさーん。着替え終わったならさっさと出てこーい。ご飯抜きにするよー」
「ッッッ⁉︎ まっ——待って! それはやめて! それが楽しみで来てるのに‼︎」
そんなに? と、やや照れ臭そうに笑う花渕さんと慌てて飛び出した更衣室のすぐ外で出くわして、僕の胸キュンポイントはカンスト超えてもうバグを起こした。
有り体に言えば、上限百のところを二百五十五ポイントまで計上された。でへ……
「じゃ、お店のことはよろしく。まあ……どうしても忙し過ぎてヤバいとなったら手伝うけどさ」
「いやいや、今日はお休みなんだから……ご飯まで作って貰っておいて、そういうわけにはいかないよ。忙しくなってもなんとかするから、特に晩御飯には力を入れるんだよ?」
がつんっ! と、脛を思い切り蹴られた。おっぐぉ……さ、最近よく脛蹴りますね……貴女……っ。
しかし……うふふ。顔を真っ赤にして逃げるようにキッチンへと戻って行く姿の、なんと愛らしいことか。はぁー…………爆発しねえかな。
そう、来るのだ。食べに来るのだ、夜には。あの男が……デンデン氏こと、顔面“は”良いパティシエ田原が、花渕さんの晩御飯を食べにお店にやって来るのだ!
いえ、呼んだのは私です。いや、その……その場にいたからさ。考えなしに誘っちゃった。
誘ってその場で店長に確認して、おっけー貰って。って、そんな経緯。まあだから……
「…………男は胃袋を掴むんだぞ……っ。頑張れ、花渕さん……っ」
これは……ひとつの戦争なのだ。
花渕美菜という少女が想いを寄せる、まあそろそろええ歳の、顔面だけは立派だが、その実中身は歪みねえキモオタなデンデン氏のハートを射止めるという壮大な……いや、射止めてもダメだよ。事案だよ、それは。
あと二年……二年だっけ? 十八歳未満だっけ、未成年だっけ。
未成年だった気がするな……となるとあと四年。四年かぁ……オリンピック始まるな。
それだけの時間をふたりが耐え抜けば、晴れて何にも阻まれることなく——
「——っ痛ぁっ⁈ な、なに⁉︎ なんだ⁉︎ ん……これは……ボウル?」
突如脳天に強い衝撃が走り、甲高い金属音が響いた。
何ごとか! と、慌てて周囲を見回すまでもなく、僕の足元には小さな金属製のボウルが転がった。
これが…………頭に……? え…………? タライじゃなくて……? ってそれはコントやないかーい、なんてツッコミも置いておいて。
なんでこんなものが……と、ゆっくり背後を振り返ると……
「…………あの、もしかして声出て……」
「うっさい。死ね、ばか」
子供か。語彙力どうした。
見れば、真っ赤な顔でプルプル震える弱々しい小動物が……もとい花渕さんがこちらを睨みつけていた。
そっか……声、出てたか。そっかぁ…………それは申し訳ないことをしたなぁ。
いやぁ、本当に申し訳ないなぁー。まさかそんな可愛い反応が見られると分かってたらなー。もっと大きな声で言ってやったのになー。
はい。ご、ごめんね……ご飯抜きとか言わないでね……
「…………次、変なこと言ったらセクハラで裁判起こすから」
「ひっ⁈ ご、ごめんなさい……」
それは本当に勘弁してくださいっっ! 萌えの代償は臭い飯……ですか。
いや……へへ。良いもん見れたんだ、それも悪かねえな。
いや全然悪いよ! 萌えも尊いもシャバにしかないんだ! 知らんけど! しょっぴかれたらTL追ってちょっとエッッッなイラスト巡回とかも出来ないじゃないか!
耳まで真っ赤になってまたキッチンへと戻って行く小さな背中を見送り、僕は十二分に気合を入れ直して仕事を始めた。
ご飯抜きと訴訟だけは……避けなきゃね……っ!




