第四十八話
泣き止んでからもミラは僕から離れようとしなかった。小さな子がお気に入りの毛布を大事そうにいつも抱えているみたいに、取り上げようとすれば必死で抵抗してみせる。いくらなんでも近過ぎるし、まだ慣れない彼女の匂いに緊張する……なんて、そんなことはもう思っていられなかった。
一から整理しよう。彼女は誰だ。ミラ=ハークス。この街の、アーヴィンの市長だ。街の人は間違いなく彼女を愛していたし、彼女もまたこの街と街の人々を愛している。言うなれば、街の人全員が彼女と家族同様に接している。そう、だと思っていた。しかしならばなぜ、彼女は僕が側を離れたと、僕がいなくなるというだけであれ程まで取り乱したのだろう。彼女にとって僕が欠かせない人物になっていただなんて思えないが、それ故にあの反応は異常すぎる。それはまるで、家族を失うのかと言う程で……
そして次にその家族だ。彼女の家族構成はあまりに闇に包まれている。街の人に聞いてもどうにもはぐらかされ、そのことに切り込もうとしていたのは外からの移民であるボガードさんだけ。
そして最大の謎である彼女の肩書きのこと。別に彼女が市長にふさわしくないとか、そんなことを言うつもりはない。問題は彼女の周りにあまりにも人がいなさすぎることだ。こんな幼い少女に全権を握らせ、責任を負わせているこの現状に、僕は散々疑問を抱き続けてきた。
「…………アギト」
泣き疲れたのか、枯れた声で彼女は小さく呼びかける。背中に回していた手を離して顔を覗き込むと、彼女はまた泣き出しそうになるのを我慢した。
「ごめんね。もう……わけわかんなくなっちゃって」
「……いいって。お互い様だ」
彼女にはいつか迷惑をかけた。僕は彼女の為に何かをしようと思った。なら、彼女が頼ってくれることは望ましい。望ましいのだが……どうしても納得がいかない。あんなにも嬉しそうにミラの話をしていた皆が、誰一人彼女の手を取ろうとしないのは何故なんだ。僕は震える小さな肩を少し強く抱き寄せた。
「……ねえ、もうやめちゃおうか」
「…………ミラ?」
彼女は涙を流しながら僕に笑いかける。そしてまた顔を僕の胸に埋めて震えながら言葉を続けた。
「私ね……本当は市長なんかじゃないの」
悲痛な、絞り出したような声の告白だった。
「私のお姉ちゃんがね、本当の市長だった。お姉ちゃんの周りにはいっぱい大人がいて、みんなでこの街を守っていたの」
彼女の口から始めて家族について言及された。お姉ちゃん、とはもしかしてあの刻印の名前の主だろうか。僕は気になったことも口にせず、彼女が全部吐き出すのを待つことにした。
「数年前にね。事故があったの。お姉ちゃんは私を庇って……だから……私はお姉ちゃんの代わりに……私が…………頑張らなきゃ……」
細腕が一層強く僕の服を掴む。嗚咽を必死で抑え込みながら喋る彼女の言葉は聞き取りづらかったが、それでも僕は耳を傾け続けた。
「だけどね……私は必要ないの。私が勝手にやってるだけ。皆は前いた大人のところへ行って、神官様や神父様も協力して。私がいなくったって街は守られて、回っている」
それは……つまりあのサインした申請書にも、聞いて回って算出した収入と課税の資料も。彼女が嬉しそうに作っていた住民票にも意味は無かったと言うのか。そんなこと……
「私はね、要らないの。この街は私がいなくても回っている。ううん、私のいないところで回っているの。だからね……私は————」
「——っ! やめろよ! そんなわけ——っ⁉︎」
僕の言葉を聞くよりも先に彼女は笑い出して、夢中で抱きしめていた僕の腕を離れて壊れてしまった様に声を上げて笑い続けた。
「——あはははっ! ひぃひぃ……はぁ。なんだ、大したことないのね。うん、決めたわ。アギト、あの巾着持ってる?」
「あ、ああ。持ってるけど……ミラ、大丈夫か……?」
大丈夫。なんて笑って、彼女はポケットから取り出すやいなや僕から巾着をひったくって、その金属塊を床に置いた。
「それ……一体何なんだ?」
「ん? これはね……」
回れ、回れ、回れ。と、彼女は唱えた。魔術の行使であることがわかって止めようとした時にはもう遅く、金属塊に真横一文字の亀裂が入り中から真っ赤な光が漏れ出した。
「——督、促、状——」
そう言って彼女は金属塊を捻り開け、燃え盛る様に真っ赤輝く丸い塊を飲み込ん——
「督促……っ⁉︎ 何飲んだ⁉︎」
ぺっしなさい! ぺっ! 僕が慌てて彼女の肩を掴んで体を揺すると、彼女はまた笑って……すくっと立ち上がってしまった。
「なっ……! なんで⁉︎ まだ動け……」
「言ったでしょ、督促状だって」
飲む督促状なんて聞いたことないんですけど⁉︎ ていうか督促状に薬効は無いよ⁈ 大慌ても大慌て、きっと青い顔をして狼狽えていたのであろう僕を見て、彼女は嬉しそうに笑って抱きついてきた。
「これは誰にも言っちゃダメよ」
耳! 元! で! 囁くな! 妖しい口調の彼女を必死で引っぺがそうとするが……ダメだ! どう言うことだ⁉︎ だってさっきまでロクに動ける状態じゃなかったんだぞ⁉︎
「……あれは霊薬。私が作る欠陥模造品じゃない、真なる秘薬。錬金術の禁忌」
霊……だから! 囁くな‼︎ どうやら本当に人に聞かれては困る話のようなのだが、僕も僕でそれどころじゃない‼︎
「魔術、錬金術の目的は自然の再現。落雷と同じ威力の電気を流したり、太陽と同じ温度の炎を灯したり、ね。けどあれは違う。完全に自然現象を超越した、外的要因で生命を強制的に加速させる錬金術が至ってはいけない領域」
やばい話をしているのは分かる。そしてその内容が僕に理解出来ないものであることも分かる。でも、わざわざそんな蠱惑的な声を出す意味が分からない‼︎
「……アレはね、お姉ちゃんだけが識っていたの。お姉ちゃんが製って、封印した。私と神官様だけが知っている。でも……」
——これでアンタも共犯者ね————
僕はたまらずに彼女を振り払って距離をとった。理解する前に頭がどうにかなってしまいそうだ。
「あはは! 何真っ赤になってんのよ!」
彼女はまた子供っぽく笑って、それからいつも見ていた子供っぽい笑顔で僕の手をとった。
「さぁ行くわよ! もう迷うことなんて無くなったわ!」
「ちょっと⁉︎ 俺は何も分かってない‼︎ 何も説明されてない‼︎」
彼女は振り返りもせずにずんずん進んで、市役所から出ると僕の方を一回だけ振り向いてすぐに走り出した。ああ、やっぱり僕はそんなに体力ないんじゃないだろうか。と、不安になる速度で。
「待——っ! ミ——ミラっ! 待——っっ‼︎」
「きーこーえーなーいーっ! あはは!」
彼女は何処へ向か…………この道は……っ! 間違いない、彼女は神殿に向かっている! だが彼女は知らないのか⁉︎ そんなわけはない! 今そこには何も——
「————戸を開け——世界よ————‼︎」
広場に辿り着くと、彼女の呪文一つで薄いガラスが割れた様に世界が書き換えられた。さっきそこにいた小鳥は姿を消し、聞こえていた鳴き声も失せ。代わりに、その圧倒的なサイズの建物が姿を現わす。間違いない。今日僕が訪れた場所に——いや。僕が訪れられなかった場所に神殿はあったのだ。
「————お待ちしておりました」
待っていた……のだろう。扉の前にはダリアさんの姿があった。そして元気いっぱいになったミラの姿を見て、感情の読めない無表情のままその扉をゆっくりと開く。無邪気に走り回っていたさっきまでとは違う、以前来た時の畏まったものとも違う表情でミラは僕を見つめ、そして胸を張って神殿へと入って行く。僕は彼女がとったこの行動の意味を、まだ理解していなかった。