第四十七話
それを彼女に問い正そうか、そうしたとして果たして答えてくれるだろうか。手の中にある身元不明の名前に、最後に見た彼女の表情を思い出す。キツく当たってしまっていただろうか。あれでまだ十五歳の少女だ、僕が思っているよりずっと脆い所もあるかもしれない。お腹を空かせている頃だろう、早く帰ったほうがいいかな。
「…………いやいや、好きすぎるだろ……」
無限に湧いてくる彼女への心配事に頭を抱える。いくらなんでも絆されすぎだ。それでもどうしても一歩が踏み出せず、僕は何をするでもなくただぼうっと彫り込まれた名前を指でなぞり続けた。
レア=ハークス。彼女の母だろうか、姉だろうか。案外父かもしれないし、祖父母の形見という線も。推理をしようにも、彼女の肉親についての情報はあまりにも少なすぎる。結局、僕は無為に時間を潰しているだけだった。
「……地母神様は知っているんだろうか」
その塊を持ってきたのは——持って来させたのは、地母神様か御付きの神官であるのだろう。ダリアさんももしかしたら何か知っているのだろうか。僕はベンチに掛けていた重い腰を上げ、神殿を目指して走り始めた。市役所からもそう離れていない、少し近付くだけでもその存在感に圧倒される、この街で一、二を争う大きな建造物だ。そんなもの見落とすまいとタカを括っていたのだが……
「あ……れ? 確かこの辺に……? さっきのところ左だったかな」
僕は何もない広場に辿り着いた。綺麗に石畳で舗装された、何もない——あまりにも無駄に広げられた違和感すらあるその広場に、何度記憶を掘り起こして道を辿っても至ってしまう。そして次の違和感に気付いたのは、そこから伸びる四方への道を行ったり来たりしている時のことだった。
「……あの人、何であんなに端っこを歩いて……」
何処からくる人もどの道へ行く人も皆わざわざその広場の端を歩いているのだ。まっすぐ突っ切ればいいものを、どうしてかわざわざ…………っ⁉︎
「——っ! 僕はいつこの広場を横切った……?」
おかしい。何かがおかしい。僕はたった今、北に抜ける道から南に向かって真っ直ぐ歩いていたはずだった。南に抜ける道を——後から変に補修したのか、石畳のグラデーションがおかしくなっている道を目指して歩いていた。影は僅かだが自分の真後ろに伸びていた筈だった。それがどうだ。僕の足下には、あまり使われていないのか、草が隙間から伸び始めてしまっている、さっきまで視界の左側にあった筈の東へ向かう道が伸びているではないか。
「…………なんだ……なにがどうなって……」
影の方へ振り返ればその先には確かにさっき立っていた道があって……ああ、どうなってる! 僕は目を瞑って反対側、西へ向かって走り出した。
「…………なんでっ! どうなってる!」
きっとこの辺りだろう。躓かないかと心配しながら走って僕は目を開けた。足下には補修痕のある石畳があって、僕は間違いなく南に立っている。混乱ではなく恐怖が僕を支配し始めた。
「真ん中……広場の中央に行けば……」
「いえ、それは不可能です」
背後から聞こえた女性の声に驚いて、僕は振り返りざまに足を縺れさせて思い切り尻餅をついた。
「……ダリアさん……?」
今朝と同じく修道服姿のダリアさんがそこには立っていた。僕は彼女が口にした不可能という言葉よりも、この見晴らしのいい場所の、一体何処から彼女が現れたのかということに強く疑問を抱く。
「神殿は貴方の立ち入りを許可していません。六日後、ハークス市長と共にまたいらしてください」
一体どういう事だ。まるで許可がなければこの広場に立ち入ることすら出来ぬとでも……
「……もしかして、ここにあるんですか?」
「お答え致しかねます」
彼女はそうとだけ言って広場の中央へ…………消えていった。比喩でも何でもなく、彼女は忽然と姿を消したのだ。その場に座り込んだままの僕の横を通り過ぎて、確かに広場の中央に向かって歩いて消えた。ああ、頭が痛くなってくる。一体どうなっているんだ、この世界の神殿というのは。
「…………あっ! 名前のこと、聞きそびれた」
ある意味当初の目的だったダリアさんとの接触を果たすも、混乱に質問することを忘れさせられてしまった。ポケット越しにそのゴツゴツした感触を確かめながら僕は大きくため息を吐く。ああ、馬鹿らしい。帰ろう。帰って、謝ってご飯に行こう。さっきまで何をクヨクヨ悩んでいたのか。と、目の前で起きた超常現象に、小さ過ぎる悩みは掻き消された。むしろ、彼女に神殿について尋ねよう。彼女のことは……いつか彼女自身が話してくれるまで待てば良いや。僕は少し軽くなった足取りで市役所まで走った。
市役所に辿り着くやいなや、入口の前には何やら人がごった返しているのが見えた。市役所だし何か申請や認可待ちの人がきていてもおかしくはないのだが……何やら様子がおかしい。お見舞い……と言うには随分どよめいて……
「ああっ! ちょっとアギトさん! 何やってたのさ!」
人混みが僕に気付くとその中から一人のおばちゃんがそう言った。はて、今日僕に来客だとかそんな予定はなかったはずだが……
「どうかしました……?」
「どうか、じゃないよ大ごとだよ! 今朝はちゃんとしてたって言うから期待してたのに!」
今朝……? 一体何を……? 状況が飲み込めていない僕をおばちゃん始め五、六人が引っ張って、人混みが割れてその中心へと連れて来られた。そこには泥だらけになって横たわるミラの姿があった。
「なん……っ⁉︎ ミラっ! なんで……っ⁉︎ 何があったんだよッ‼︎」
彼女はやはり痛むのだろう体をゆっくり起こして、真っ赤に腫らした目で僕を見て、泥だらけになった口を大きく開けて……
「……ミラ?」
ボロボロと涙を流し始めた。と、同時に周囲の人の視線が僕に集中する。え? ちょ、ちょっと皆さん? なんで僕を睨むの⁉︎
「ちょっ⁉︎ ちょっと、どうしたのさ! あ、すいません、通ります。ミラ! ミラってば⁉︎」
わんわん泣く少女の元に駆け寄ると、その弱々しい姿からは想像も出来ない程強い力で服を掴まれた。彼女は何か、縋るような顔で、身体を引きずりながら僕の腕をよじ登ってくる。そしてすっかり僕の腕の中に収まると、一層大きな声で泣き始めてしまった。
「ごめっ……ごめんなざい! ごめんなさいっ!」
ひたすら謝り続ける彼女に僕の混乱はより一層増して、周囲の目もどんどん険しいものになっていって。僕はわけもわからず必死で彼女をなだめ続ける。
「ミラっ⁉︎ ミラってば! どうしたのって……違うんです! 僕は別に何もしてなくて⁉︎」
気付くと空気は完全に僕が悪者であると言うものに。どうしてこうなった。もしかして彼女は僕がめっちゃ怒ってるとか思って……いやいや、それでもこんなに泣きわめくだろうか、泣きわめくまい! むしろ大人しくして……くれないか。ともかく誤解を解こう。どう勘違いをしているのかも分からないが、彼女の誤解も。周りの誤解も!
「ひとりに……しないで…………っ」
虫が鳴いたような小さな懇願だったが、確かに空気が変わるのが分かった。僕がどうとかではない、散々僕を悪漢として見ていた街の人の目が変わったのだ。どこか……バツが悪そうな……? 落ち着きを無くし、この場から離れ始める人も現れる。
「行かないで……アギト……」
「……っあ、ああ! ちゃんとここにいるから! いるからな!」
おかしい。彼女はこの街の人に愛されて…………? 見たこともない程取り乱す彼女を抱きしめながら、僕はあまりに温度の違う場の空気に神殿のことなどとは比にならない疑念を抱く。何故彼らは僕を責めるのをやめた? 彼女のことをみんなあんなに自慢げに、愛おしげに語ってくれたじゃないか。それならば何故——何故こうして泣き縋る少女に、誰も声を掛けてあげないんだ————
彼女が落ち着いたのは周りに誰もいなくなって、それからもう暫くした後だった。