第四十五話
「では、また後ほど」
僕とロイドさんは脱衣所の扉の前で別れた。彼はこれから食材の仕入れだろうか、僕は上司のお迎えだ。風に吹かれる度火照った体に清涼感が取り込まれていく様な、気持ちのいい朝だ。僕が女風呂の前……まで行く訳にもいかないので、彼女が出てきた事だけ分かるくらいの位置で待ち続ける。氏との談笑もあって僕の方が長風呂だったのか、昨日に比べてずっと早くに彼女は抱えられて姿を現した。
「アギト、別に堂内で待っててくれていいのに」
「そう言う訳にもいかないだろ。ほら」
しっとり濡れた髪を首の後ろで纏めた彼女に、僕はいつも通り背中を向けてしゃがみこんだ。昨日同様シスターの手伝いもあって、すぐに彼女を乗せて帰ろうと思っていたのだが、一向に背中には体温が感じられなかった。
「ミラ? どうかした?」
地面ばかり映していた視界をぐるりと彼女達の方へ向けると、ミラもシスターも何かに警戒するような険しい目つきで僕より向こうを睨んでいた。
「……明るい栗毛の、翡翠色の瞳をした童女。貴女がミラ=ハークス市長ですね」
「童っ……はい、ハークスは私ですが」
童女という言葉と、それに過敏に反応する彼女につい吹き出しそうになる。なるほど確かに、彼女は外見だけで言えばまだ十かそこらの童女だろう。しかし、目の前の大男は誰だろう。立派な儀礼服に身を包んで、鎧でこそないが剣を携えた、近衛兵といった出で立ちにも見える。胸にあるのは紋章だろうか。花か獅子か、太陽か……っ!
「貴女を王都ユーゼシティアへ連行する。どうか抵抗せずこちらへ」
物騒な言葉に、その場に居合わせた街の人全員の表情が重くなる。無論シスターや僕も例外ではない。しかし彼女だけは凛と張り詰めた表情を保ち続け、目を背けるでも屈するでもなくその男と対峙していた。
「……分かりました。アギト、お願い」
「いえ、貴女一人だけをお連れしろ、との命ですので」
僕におぶさろうと手を伸ばした彼女に、男は冷たく言い放った。シスターの手から離れ、歯を食いしばってようやく立っているその姿は、どう見たってまだ歩き回るまでにも回復していない。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! まだろくすっぽ歩ける状態じゃないんだ。もう少し待って貰うか、せめて俺が背負って……」
「いえ、巫女様の命ですので」
巫女様といういつかも聞いた名前が飛び出した。ミラの前に両手を広げて立ちふさがった僕に、騎士であろう男は無情に告げる。その冷酷な態度に、僕は次第にムカムカと腹が立ってきた。
「命令だからって……偉いからってこんなボロボロの女の子相手に! 一体なんなんだよ! 俺は彼女の秘書だ! 市長に同行する権利くらいあるだろ!」
気付くと目の前の大男に食ってかかっていた。もしかしたらまたやらかした案件なのでは、などとは考えるまでも無く。男は表情一つ変えず、腰に下げていた剣を抜いて僕に突き付ける。血の気が引いて、さっきまで熱かった手先指先も凍りついた様に冷たくなっていくのがわかった。
「もう一度言う。ハークスを連行する。これは巫女様の、延いては王命であると知れ」
それが本気であることは、刃以上に研ぎ澄まされた眼に理解できる。それでも僕は引くわけにはいかない。大勢と約束したのだ。彼女を守ると。
「ッ! だ、ダメだ! なんと言われてもミラ一人を行かせるつもりはない!」
「アギトっ!」
僕の返答、言い分など聞く気はないと。後ろから僕の名を叫ぶミラの声が聞こえ、剣は大きく振りかぶられた。
「——何をしている‼︎」
どよめきと悲鳴を一掃する様な雄々しい叱責がこだました。剣は納められ、男は声の方を振り返り即座に膝をついた。聞き覚えのある通りのいい声の主は、その影と僕の影とを重ねて男の前に立ちはだかった。
「これはどう言うことだ! いつ抜刀許可が出た! よもや要人に危害を加えようと言うのではあるまいな‼︎」
「申し訳ありません、サー・イルモッド。この男が抵抗をするもので」
ユリエラ=イルモッド。甲冑を着込んでいたあの時には顔をしっかり確認出来なかったが、この声と目……蛇の魔女の寝ぐらから脱した僕らを迎えに来た、あのユーリさんに間違いなかった。
「もういい、戻れ。いつか以来ですね、アギト殿。この度は部下がとんだご迷惑を」
「い、いえ……」
ユーリさんに言われ、大男はすぐさま立ち上がって何処かへ走っていった。連行する、と言う程だ。きっと何処かに馬車か何か停めてあるのだろう。僕の関心はそこで大男からユーリさんへと移り変わった。短く刈り揃えられたブロンドヘアの外見の若さからは想像つかぬ、威厳ある偉丈夫。そんな彼が、今は穏やかで虫も殺さぬ様な目で僕らと接している。
「……実は、巫女様から命が出たのです。帰路に就くやいなや、やはりかの勇者を一目見たい。連れてこい。と」
さっき見せた雄々しい姿とは打って変わって、どこか気苦労の絶えない疲れ切った表情で彼は言った。成る程、地位がどれだけ上がっても上司のわがままというのは付いて回るのだな。
「大変なんですね、ユーリさんも」
「ええ、お恥ずかしながら」
ミラは警戒しろと言っていたものの、彼は随分気さくというか、接しやすい相手であった。勿論、礼を欠いてはならない相手であるというのはわかっているのだが、第一印象の力と言うべきか。彼の見せる穏やかさはロイドさんに通じるものがあってどこか親しみやすい。
「こほん、失礼。我々も巫女様の命で動いた以上、手ぶらというわけにもいかぬ故。どうか此処に約束をして欲しい。完治した暁には、王都にて巫女様に拝謁して頂くと」
「……分かりました、イルモッド卿。アーヴィンの長として、必ず」
ありがとう。と、にっこり笑って、ユーリさんは深々と礼をして立ち去った。彼の姿が見えなくなるまで、僕はその背中を眺め続け……そして……
「…………ッ⁉︎ アギト! アギトっ‼︎」
紐が切れたマリオネットみたいに、その場に膝を突いてへたり込んだ。
「……み、みらさん。おんぶはもうちょっとまって……」
力が入らない。文字通り緊張の糸が切れて立っていられなくなる程に。そんな僕に彼女は呆れた様に笑って、そしてしゃがみこんで背中にのしかかってきた。
「……かっこ悪い。シャキッとしなさい」
「う、うるさいな……」
まだ力は入らなかったが、彼女の匂いと体温に、驚く程速くなっていた心音は落ち着きだして、指先の感覚も戻っていくのがわかる。気付けば辺りには野次馬が大勢いて、こんなザマを晒しているのだと思うと顔が熱いくらいだった。
それから……数分かな? 十分は経っていないくらいで、ようやく僕の膝はバネを取り戻した。腰を抜かして女の子に宥められている様な格好でいることが恥ずかしくて、時間が随分遅く感じたのだがきっとそのくらいだ。ようやく彼女を背負って立ち上がった僕の肩を、ツンツンと控えめに突っつく感触がした。
「……見直しましたよ。あなたのことを勘違いしていたようです」
それは僕をゴミを見るような目で蔑んでくれた……もとい、蔑んでいたシスターだった。いや、彼女だけじゃない。野次馬していた街の人みんなが笑って僕を見つめていた。
かっこよかったぞ。見直した。これからも市長をお願いね。とは去り際に言われた激励の言葉だ。さっきまでとは別の恥ずかしさで、僕はお礼もそこそこにそそくさと退散した。
「……かっこわるーい」
「う、うるさいって。慣れてないんだよ……」
小馬鹿にした様な言葉に余計に気恥ずかしくなって、いつもよりずっと早足で僕らは帰宅した。すると今度は市役所の前でまた別の来客に見舞われる。
「貴女は……神殿の……」
「名乗っていなかったですね。私のことはダリア、と。今日は神官様の使いで参りました」
僕とミラは彼女の言葉に顔を見合わせ、そして老爺の言っていた褒美を持たせるという言葉を思い出し、現金にも心を躍らせた。