第四百四十話
朝がやってきた。自分が眠っているのか、起きているのかもよく分からない夜が明けたのだ。
部屋に掛けてある時計を見るに、マーリンさんならもう起きている頃だろうか。よく僕らを起こしに部屋へやってきていたくらいの時間だ。
「……ミラ、起きてるよな」
「うん。寝付けなくて……」
寂しがり屋の集まりだ、本当に。
そもそもあの人と僕達は、ずっと一緒の部屋で寝泊りしていたわけじゃない。ここの所そういう機会が連続していたってだけ。
だから、そもそもとして自分の部屋がある筈のこの場所で、僕らと一緒にいないことを疑問に思う方がおかしいんだけれど。
それでも……おやすみなさいを言う間も無く姿が見えなくなってしまっては、不安になるってものだ。
またあの人が、何処か僕らからは遠い場所へ行ってしまうような気がして。
「よし、探しに行こうか。もう起きてる頃だろうしさ。お前の鼻なら探せるだろ?」
「人を犬みたいに言わないでよ、もう。探せなくても探すわよ」
犬みたいなもんだろうに。ゆっくりと体を起こしてそう言うミラに、頼りにしてるぞと優しく頭を撫でながら声を掛ける。
すると、寂しい寂しいと顔に書いてあるくせに、撫でられるのはやっぱり嬉しいようで、ぐりぐりと甘え始めてしまった。こらこら、今はそうじゃないぞ。
「……ほんと、前にも思ったけどさ。いつの間にやらすっかりマーリンさんの虜だな、俺達」
「えへへ、ふふ。当たり前じゃない。国民全員を虜にした物語の主役なのよ?」
それを言われると確かに。手櫛で髪を梳かして、僕はミラの頭から手を離す。名残惜しげに眉を潜めたが、やはりマーリンさんに会いたい気持ちが勝るんだろう。ミラはすぐに立ち上がって、早く行きましょうと僕を急かした。
「さ、ここがどこか知らないけどはやいとこ探すわよ。どっちにしたって、この後どうするか相談しなくちゃならないんだから……? あれ?」
「そうだな……? あれ? あれって……どうかしたのか?」
急ぐミラの背中を荷物をまとめてすぐに追いかけると、ドアの前で立ち止まってしまった彼女の姿が目に入った。
どうかしたのか? と、問いかけると、ミラは険しい顔でそのドアを指差して振り返った。
「……これ、引き戸…………じゃないよな。てことは……」
「…………どうやら私達、勝手に出て行ける状況に無いみたいね」
部屋に見当たる唯一の出入り口。赤塗りの木製の扉には、ドアノブが見当たらなかった。
押してみてもびくともしないし、引いてみようにも手掛かりがない。
少し強めに押してその反動で無理矢理手前に開けてみようとしたが、ガチャガチャと何かに突っかかっている音がした。鍵はしっかり掛かっているらしい。
「壊す……わけにはいかないか。もしここが王宮なら、マーリンさんにも迷惑が掛かるもんな……」
「そうね、それは本当に最後の手段。他に出口が無いか探してみましょう。窓があるんだから、壊すなら最悪そこから……」
バレにくい方を選べば良いって話じゃないよ? そして、別に窓ならバレないってもんでもないよ?
はめ込み式でおよそ開く気配の無い窓を見ながら、僕はそんなことを思ってしまう。しかし……残念ながら、バレてでも抜け出すってことも不可能そうだ。
「…………ここ、本当に王宮……なのか……」
「アギト? どうしたの……うわぁ」
寂しい。早くマーリンさんに会いたい。その感情は全く薄れていない。
けれど、初めて近付いた窓から見下ろす景色に、僕らは息を飲むしか無かった。
窓から出ても、そこには足掛かりになりそうなものは無い。そして飛び降りても助かるような高さに無い。
煙を吐きながら走る汽車の姿が小さく見える。これまで寄ってきた街並みが一望出来る。
僕らは今、随分と高い場所にいるようだ。
「…………マーリン様がいないと、こんな景色もちょっとだけ味気ないわね。アギト、早く出口を——」
こんこん。と、ドアが二度鳴らされた。胸が高鳴ったのを自覚した。ミラの表情が一気に明るくなったのが分かった。
マーリンさんだ——っ。いつも繰り返してきた朝の出来事に、条件反射的に僕らの身体はそう確信した。それがそうである保証など何も無いままに。
「っ——マーリンさん————」
「——巫女様がお呼びだ。支度をしろ」
聞こえてきたのは男の声だった。立て付けのいい扉が静かに開き、そこから顔を覗かせたのはマーリンさんではなかった。
それと同時に、彼女と縁深い太陽のシンボルを胸に宿した騎士でもない。厳つい髭面の男は、どうやら役人のようだ。
「マーリン様が……っ。準備は整ってます。連れて行ってください」
「……よろしい」
男は僕らになど興味無さげで、ただ業務を淡々とこなしているという風に見えた。
無駄口をたたかず、僕らの様子や動向を窺うこともせず。ただ黙って僕らの前を歩いてどこかへと向かっている。
それは当然のことなのだが、少しだけ無警戒にも思えてしまうのは、僕が緊張しているからだろうか。
豪奢な内装の廊下をしばらく歩き、僕らは六人の衛兵が番をする大きな扉の前に案内された。
やはり、あの人は立場ある人だったのだな、なんてボケたことを考える余裕も無い。
この先にマーリンさんがいる。僕らの大好きなマーリンさんが待っている。早く入りたい、会いたいと焦りばかりが募っていった。
「……失礼します、巫女様。件の二名、お連れいたしました」
件の……というのは、一緒に連れてきていたふたり組ということだろうか。その真意は掴めなかったが、ともかく扉は開き始めた。
ゆっくりと、慎重に。何かを警戒しているのか、衛兵達は剣に手を掛けて周囲を窺っているように見えた。
しかし、そんなことは僕らには関係無い。僕らに用があるのはこの扉の先——
「——ご苦労。もう下がって良い」
聞き慣れた声が響いた。
扉の向こうの部屋の中は、随分と簡素なものだった。
仕事をする為のものだろう、机と椅子と棚と、それと紙の山。
窓も無い部屋の中を照らしているのは、無数の照明球と呼ばれた電球のようなものだけ。
そして、そんな無機質な部屋に似つかわしく無い大きなベッドがひとつ。
そのちぐはぐな部屋は、あまりにも部屋の主と不釣り合いに見える。
そんな場所に佇んでいたのは、暗い青色のドレスに身を包んだ星見の巫女様だった。
「——っ! マーリンさん——」
「——慎め——発言を許可した覚えはない————」
いつの間にやら頰は綻んでいたことだろう。さっきまで緊張に早くなっていた脈も、きっと歓喜と興奮によって昂っていた筈だ。
マーリンさんだ。とても綺麗な装いで物静かにしているものの、そこにいるのは紛れもなくマーリンさんなのだ。
だから、僕もミラも、喜びのあまり声を掛けて駆け寄ろうとした。
しかし——それを許さなかったのもまた、マーリンさんであった。
「下がれ。と、言ったのが聞こえなかったか。私に三度同じことを言わせるつもりか」
「っ。はっ! 失礼します」
そこにいたのは、マーリンさんであってマーリンさんでは無かった。
役人と思しき男は彼女の言葉に逡巡し、そして頭を下げてすぐさま部屋から出て行った。
そして扉が再び閉じられると、僕らと巫女様だけの空間が出来上がる。
目の前にいるのは星見の巫女様だ。いつもの朗らかなマーリンさんではない。いつかみせた冷たいのっぺらぼうのような女性でもない。
騎士達を相手に指揮を取る、真っ直ぐで力強い目をした人だった。
「……マーリンさん……っ」
「慎め。そう言った筈だ。お前も私に同じことを三度言わせるつもりか」
びびっと背中に電気が走った気がした。高圧的なわけではない。当たり前だけど恐怖なんてない。
しかし、目の前の女性の厳格さに、僕の背筋は自然と伸びていた。
口を真一文字に結んで、僕は黙って頷いた。そんな僕らを見て、彼女はこちらに寄れと手招きする。
「…………はぁ。そんな顔しないでよ、ふたりとも。おいで」
「っ! マーリンさ——」
大きな声を出さないの! と、ミラに口を塞がれた。な、なんでだよう!
一歩、二歩と近付く度に、その人がやはり僕らの知るマーリンさんだということがよく分かった。
凛と張り詰めていた顔は次第に優しい微笑みに変わって行き、僕らが目の前にやってくると、両手を広げておいでと囁いてくれた。
囁いてくれたのに! どうしてかミラは僕の口を塞いで背後を窺っていた。
「ふふ、おバカアギト。ふたりともごめんね。大丈夫だよ。ここにいるのは、君達の大好きなマーリンさんだ。君達のことが大好きなマーリンさんだよ」
「わぷっ……えへへ。マーリン様っ」
マーリンさんはまた小さな声でそう囁いて、涙を浮かべながら僕達のことを抱き締めた。
手が冷たい。そう感じたのは寒色のドレスを着ているから? そんなわけはない。事実冷たいのだ。どうして? それは……
「バカアギト。マーリン様にも立場ってものがあるのよ。旅の間に散々聞かされたでしょう。この建物の中には、マーリン様をよく思っていない人も多くいる。弱みを見せるわけにはいかないのよ。張り詰めてないと、ずっと戦ってないといけないの」
「…………それで外に聞こえるようにあんなことを……」
ごめんね。ごめんね。と、今にも泣きそうな顔で、マーリンさんは囁きながら僕のことをぎゅうぎゅうと抱き締める。
や、やめ……やめないでください。もう少しだけ……もう少し…………もっと、ずっと。
ほんの僅かな間の別離が、僕らの中のマーリンさんを随分と大きくしてしまっていたらしい。
ミラとふたりでマーリンさんを思い切り抱き締め、僕らは三人揃って静かに笑い合った。本当の本当に、寂しがり屋の集まりだ。




