第四十四話
僕は硬い床に目を覚ました。日はすっかり上っていて、アラームならとっくに鳴った後だろうか。まだひりつく火傷跡を撫でて僕はゆっくり起き上がった。
「——ぎと————ぎとぉ——」
誰がギトギト中年だ! 壁越しに何か僕を、あっちの方の僕をバカにする意図は無いうめき声が聞こえる。なんて弱々しいモーニングコールだろうか。
「ごめん、今起きた。すぐ行く」
昨日は早く寝たのだが、いかんせん昨日夜更かしをしてしまったツケだろう。昨日昨日とうるさいのはもうご愛嬌。秋人としての昨日、僕は久し振りに夜更かしをした。髪の色はオレンジをベースに褐色を混ぜ込んだ方が良いのか、はたまた茶色系に赤を足していくのが良いのか、とか。髪型がどうにもしっくりこないが、寄せる方法はないものか、とか。体型は……すとんっとしておけば、まあ……とか。キャラクリがしっかりしたゲームはそんなにやらないものだから、つい楽しくなって気付けばとっくに日付が変わってしまっていたと言うわけだ。
「入るぞー。入るからなー」
未だ慣れない女子の部屋へ入ると言う行為に、僕は念を押す様に呼びかけてからそのドアを開いた。そこには昨晩散々思い浮かべていた少女の姿があった。
「おはよ。やっぱり私が起こさないとダメみたいね」
そう笑うと彼女はこちらに手を伸ばして何かを催促する。わかったから。と、僕は急かす彼女を宥めながらその体を起こして背中を差し出した。のすっと軽い体重全部が預けられたのを確認し、僕はゆっくり立ち上がっていつも通りの道を歩き始める。
今日は少し風が強く、陽に照らされて痛む火傷をちょうどよく冷ましてくれた。ふわふわと視界で揺れる彼女の髪を見て、昨日のキャラクリはそこそこ上手くいったと心のどこかでガッツポーズをする。きっと今日は何も起こらない。起こさせない。彼女の代行を平和にこなして一日を終えるのだろう。そんな甘い希望は教会に辿り着くほんの僅か手前で早速打ち砕かれた。
「ミラちゃん! なんだか今朝早くからあなたの事探し回ってる人達がいてねぇ。王都から派遣されてきたって言ってるんだけど……」
「王都から……私を、ですか?」
ふと数日前の騎士団と、その長であるユーリさんの姿が思い浮かんだ。同時に、彼女の忠告も。傷口ではない何かがズキズキと痛み始める。
「……ミラ、今日は大人しくどこかに隠れ……」
「隠れないわよ。一市長が国から呼び出しくらって逃げられるわけないでしょう。それにまだお風呂も入ってない」
さては後半が主目的だな。しかし、彼女の言うことももっともだ。大体隠れられる場所も無いし、ううむ。それでも彼女をその王都からの使徒と引き合わせるのは、どうしても何か胸につかえて良い気分ではない。もしかしたら彼女が……
「とにかく教会へ行きましょう。言っとくけど、あんたちょっと臭うわよ」
「臭っ⁉︎ え? ほんと?」
ことを教えてくれた輸入雑貨屋の奥さんにお礼を言ってまた歩き始めた僕の、最近とてもナイーヴになっている部分に彼女は鋭いナイフを突き立てた。よっぽど本気で落ち込んで見えたのだろう、彼女は慌ててフォローを入れ始めた。そう見えるも何も、本気で落ち込んだのだから無理もないのだが。
「ほ、ほら。男の子だし、暑いし、ね? いっぱい汗かくから! ちゃんと毎日お風呂入らないといけないわよー、って。あのね? その、アンタが臭いとかそんなことは言ってないのよ?」
「いいよ…………うん、確かに昨日はお風呂短かったし……それのせいだよ……」
「…………あうぅ……ごめんってば……っ! そうだ、ほら!」
彼女をからかいたい半分、本気の悩み半分。いや、悩みが七割五分か。そんなやりとりの最中、彼女は何か思いついたように僕の頭をペチペチと……動けない分僕の首から上へのボディ(?)タッチが多くなった気がするが、ともかく嬉しそうに叩いていた。
「私も、アギトの匂い好きよ!」
「もう殺してくれよッ‼︎ ごめんなさいならいくらでもするから掘り返さないでくれよ‼︎」
無邪気な顔でとんでもないことを口走る彼女に、つい語気を荒げて許しを請うた。お願いだから僕の恥ずかしいセリフコレクションinアーヴィンを思い出させないでくれ! それに……
「…………あと、外でそんなこと言うんじゃありません! 他の男に絶対言うなよ!」
僕は小声で、周りに人がいないことを確認しながら彼女から目を背けてそう言った。
「他の……って。アンタ以外にあんな恥ずかしいセリフ言うヤツ……いな…………」
「……お願い黙らないで。わかる、俺もそんな感じだったから気持ちはわかる! だから! こっちも恥ずかしくなってくるから‼︎」
言われてから気付いたようで、もう何度見たかもわからない真っ赤な顔で彼女は背中の上で小さくなっていった。本当に僕をからかう目的だけで発した言葉だったのだろう。それはそれで……やっぱり傷付くというか。
彼女の火照った顔が治るより先に、僕らは教会に到着した。昨日よりずっと多い参拝者を目の当たりにすると、シスターに彼女を預けっぱなしにするのが申し訳なくもなる。申し訳なくなったとして何が出来るわけでも無いので、ほんの少しだけ警戒心が薄れてきたいつもの小柄な彼女にミラを引き渡して男湯に向かった。一週間絶対安静とは言っていたが、どのくらいから歩けるようになるのだろう。歩けたところで歩かせるつもりも無いが。まあでも、彼女も折角の楽しみにしている時間を、シスターに気を使うことなく堪能したいだろうし。
「……うげっ…………」
待ち受けていたのは、ある意味予想通りのごった返した大浴場だった。克服しなくてはと昨日話題に上がったことでもあるが、僕は昔から人混みが苦手なのだ。人付き合いが苦手だから、もし喋り掛けられたらどうしようか、とか無駄に緊張したり。わいわい楽しそうに話をする人を見ると、劣等感に駆られて……ああ、目眩が。
「今日もさっさと出……いや、でも臭うって……」
「アギトさん! 珍しいですね、ここで会うなんて」
揺れる天秤に翻弄される僕に呼びかける聞き覚えのある声の主は、シェフ・カステールことロイドさんで……
「……アギトさん? どうか……なさいましたか?」
「…………いえ、なんでも」
僕の弱り切っていた自尊心は息を引き取った。僕は痛ましいロイドさんの脚を見ないよう、視線をその爽やかな顔に向けた。決して他意は無い。いくら彼が誇りに思っていたとしても、やはり奇異なものを見るような目でその脚を見るのは良くないことだ、と。僕の良心がそう訴えかけたからだ。他意は無い、決して。それにしてもデカイ……
「市長の具合はいかがですか? 身体は勿論。精神的な面に、それから魔力も」
「元気ですよ。魔力は……まだ全然回復……してないんだと思います」
頭も耳の裏も、背中も脇も肘膝の裏足の裏、あらゆる汗腺が集合する場所を徹底的に洗い流し、孤独という劣等感から“は”解放された僕はゆっくりロイドさんと談笑しながら湯船にその身を沈めた。昨日より沁みなくなった傷口をさすって、目の前にある傷だらけの逞しい肉体と見比べまた新しい劣等感を抱く。
「……そうだ。ゲンさんのこと、ありがとうございました。お陰で俺もミラも助かりました」
「ゲン……はは、誰ですかそのクソジジイみたいな名前のクソジジイは」
クソ……。爽やかで礼儀正しく、紳士の擬人化の様な彼の口からまたしても飛び出す暴言に、話題のクソジジイの鼻をほじる姿を思い出した。確かにあれはまごうことなくクソジジイだっただろうが……
「失敬。しかし、礼には及びませんよ。彼を動かしたのは貴方達の熱意でしょう。結局のところ、私は彼を紹介出来ても、彼を動かすことは出来ない」
「えっと、そのことなんですけど……」
————あぁ。脚をダメにしたやつもいた————
クソジジイではない、ひとりの教師としての彼が見せた悲しげな表情を僕はまだはっきり覚えている。ロイドさんとゲンさんの間に一体どんな過去があったかは予想も出来なかったが、僕は僕が知り得た彼のことを話すことにした。彼が憂いていたこと、彼が教えてくれたこと。彼が今教えている若者達のこと。そして……
「そう……でしたか。いえ、きっと先生なら大丈夫です。僕が知る限り、最も偉大な騎士ですから」
そう言うロイドさんの目には涙が溜まって見えた。その口調からは本気で彼を案じる優しさと尊敬が感じられた。