第四百三十二話
昨日、花渕さんはお店に来て僕をからかっていた。それまでとなんら変わりなく、明るく元気でそれでいて何か企んだ笑顔を浮かべて笑っていた。
きっと彼女は答えを見つけたんだ。
時間の使い方が分からない。何をしたら良いのか分からないなんて不安はもう蹴り飛ばしたんだ。
彼女はまず、お店のことを全力で解決するって道を選んだ。きっとそうだ、間違いない。あの子は僕と違って、答えを見付けて歩き出しているんだ。
——凄いなぁ——。僕はあの時、無意識にそう呟いていた。その在り方の潔さ、気高さ。恐怖や不安に対して真っ向から立ち向かっていく勇敢さ。
まだ幼い少女の背中に、僕はまた強く憧れを抱いてしまったらしい。
「…………よし」
時刻は午前十時。ふたりはもう出発した。僕のバイトはお休み。今日はきっと、花渕さんに恥じない生活を送ってみせよう。そう誓った今朝だった。
まずは何をしようと考えて、結局これまでに出したアイデアをひとつも実行に移せていないことを思い出したのはすぐのこと。
それで立ち止まってはいかんと両拳で太ももを叩き……おう……思いの外痛い……っ。料理を覚えるのだ、まず手始めに。
これは一番最初に思い付いた、こっちでもあっちでも役に立ちそうなスキルの習得の第一歩である。
「さて……ふむ。この際向こうでも作れそうな、なんて贅沢は言わないでおこう。経験値の無い状態で欲張っても仕方ないしね」
完璧を求めるあまり手が止まる経験を積み上げに積み上げた結果、一周回って開き直りの境地に至っ…………至れてはない。でも、とりあえずと割り切るくらいは出来る。
ええと……うーん、僕でも作れそうなご飯か。こういう時こそお手元の便利端末、スマートフォンの出番ですよ。
えーと……料理、簡単、素人…………素人って単語にいやらしさを覚えるのは、もう僕が純粋な心を忘れてしまったからだろうか…………?
「……ふんふん、煮物はやっぱり難しいのね……フライパンひとつで簡単炒め物集…………ふむ」
炒め物なら向こうでも作れてしまうのでは? だって鍋があって火があれば良いんだろう? 電子レンジとかオーブンとか、そういうものが必要無いなら条件は同じだ。
ふふ、図らずも理想的な解に辿り着いたではないか。これはやはり天命だったんだな、なんて。それだけ原始的で分かりやすい調理ってことだろう。
「えーとなになに……まずキャベツを一口大に切り、水にさらす。玉ねぎはある程度の厚さを残して焦げ付きにくく……よしよし」
刃物の扱いなら任せろ! いや、あんまし胸を張れるもんじゃないけどさ。
これでもナイフ一本で魔獣から逃げ回り続けた男よ、多少の反撃の際にちっとは経験値も溜まってらい。いや、普通に果物くらいは向こうでも切ったりする機会はあるから……
「ざっくざっく……ふふふ、我ながらなんと手際の良いことか。さーて次は……えー、五分から十分ほどしたらよく水を切り、フライパンにサラダ油を大さじいっぱい引いて温める。この際テフロン加工フライパンの場合は…………て、てふろん?」
突然訳のわからない単語をぶち込むのやめてよ。心が折れるじゃないか。
ふむ……なんだか分かんないけど、うちにあるフライパンがそんな大仰な加工をしてあるとは思えない。
しかし、テフロン加工フライパンの場合は、温め過ぎると傷んでしまうので〜と書いてある。
万が一、このフライパンが母さんがへそくり叩いて買った最高級のテフロン加工品であった場合、悪くしてしまっては迷惑千万と言うものだ。石橋猛連打だ、安全にことを運ぼう。
「……ふむ、油がよく伸びるようになったら…………の、伸びる? ええと、十分温まっている証拠。もし白い煙が出ているようならば一度火を止めて…………ああっ! ちょっと見てないうちに煙が!」
石橋を叩き壊してしまった。慌ててコンロの火を止め、僕はここへ来て先にレシピを読み込むという正解に気付いた。遅いよ、このバカチン。
「なになに……温まったらラップをかけて三十秒ほど電子レンジで温めた野菜を…………で、電子レンジ使うのか……」
結局使うんかいな。ええとなになに……一度温めることによって野菜に熱が入り、生煮えで芯が残ってしまう失敗を避けられます。慣れて来たらそのまま…………ああ、なるほど。
つまり、僕にはレンジを使わなければ出来ないと言いたいんだな⁉︎ やってやろうじゃねえかこの野郎!
「まず豚バラ肉を炒め……う、うまく剥がれん。箸に刺さる……折れ曲がってくっつく…………焦げるぅ! 豚肉難っ⁉︎ う、嘘だろ⁉︎」
はい、これもひとえに僕の調理経験が皆無なのが悪いです。あとは単純に鈍臭いのとか。
でも……うん。えへへ……最近は料理を自分で作るようになったんだーって花渕さんに自慢したいからね。
実際のところどうなんだろう、勝手に料理とかしないんじゃないかって思ってしまってるけど。やったらやれそうだよね……あの子なら……
「次にキャベツ、玉ねぎ、もやしを入れ、塩胡椒を振り適度に炒める。この際入れる野菜によっては下準備が変わるので、特に根菜類の硬い野菜を入れる場合は茹でる、蒸す、或いは電子レンジによる加熱でしっかりと柔らかくしてから……いやいや、入れないからスルーで良いじゃないか、ここは」
大体、最初の材料一覧に無いものを入れる前提で書くんじゃない。後から言うな、後から。そして塩胡椒はどんなもん振るんだ? 適度に炒めるって? ふわふわとした言葉を使うんじゃない! ああっ! 黒い! 既にキャベツが黒いよ! なんで⁉︎
「くっ……このっ…………長い箸使い難いな! 全然ひっくり返せないんだけど! ちょっ……待っ…………ああっ! キャベツが!」
見るに耐えかねて火を止めた時、そこにあったのは多少黒い程度の野菜炒めであった。
あれ……? も、もしかして……っ! で、出来てる! やった! やったよ! 僕にも出来たんだ!
「ふふふ……さて、お皿に盛ったよ。この後はもう何もないよね? えーと……ワンポイントアドバイス……? 慣れて来たら強火で炒めてみよう。水分が速く飛ぶようになり、より野菜の歯応えを残しながら調理することが…………強火?」
あっ、はい。そういうの先に言おう? いや、思っくそ書いてあったわ。中火で炒めましょうって書いてある。
そうか…………火は強けりゃ良いってもんじゃないのね……っ。
着けてから消すまでの間ずっと最高火力だったよ……そりゃ焦げもするか……
「と、ともかく出来た! よし、昼ご飯にはまだめちゃめちゃ早いって言うか、全然お腹も空いてないけど出来ちゃった! あれ……? 考え無しに行動し過ぎじゃない…………?」
どうしてお昼ご飯の時間まで我慢出来なかったんだっ! この馬鹿! 料理してみたいって好奇心が勝ち過ぎた、全然お腹空いてないよ。けど……食べないのもな。
「……まあご飯食べなきゃ入るでしょ。いざ、いただきまーす。ふふふ……これからは店長の代わりにお昼を作ることも…………?」
なん…………だろう、これ。僕は野菜炒めを作った。事実、目の前にあるのは少々焦げたものの野菜炒めだ。
スマホに映されているレシピにも、簡単シンプル野菜炒め入門と書いてある。
けれど、口に入って来たそれは…………なんだろう。少なくとも、炒められた野菜ではあるんだけど……
「…………味がしない。塩胡椒が足りなかった……? あとなんか……ゴリゴリ……キャベツがゴリゴリする。焦げてるくせに火が通ってない……? お、お肉は大丈夫だよね⁉︎ 最初に炒めてるし……というか豚肉の生焼けは怖過ぎるし……」
ふむ、とても美味しいとは言えない出来だ。絶望的に味が無い。や、野菜の甘味を楽しむための料理だから……という言い訳も、端の焦げたキャベツや片面だけ黒いもやしを前には通用しない。
っていうか玉ねぎ辛っ! ほぼ生だからめちゃめちゃ辛い。鰹節かけて醤油を垂らして食べたい。
へへ、兄さんの酒のつまみをたまに貰ってたんだよね。あれ美味しいよねえ。じゃなくて。
「…………うん、これならいけるな。よしよし」
全然良くないだろって? 良いんだよ、これで。最初から全部上手くいくとは思ってないさ。
味が薄いのは、味見もせずに味付けを目分量でやっちゃったから。
焦げてるのは、腕前の割に火が強かったから。
生焼けなのは、電子レンジを使うか、或いは中火でゆっくり加熱してたら解決しそうだもの。
全部僕の経験不足が引き起こしたミスだ。原因が分かるなら対処出来る。
「……まだアイツには食わせらんないな。もっと練習しなきゃ」
早過ぎる昼食を終え、僕は明日以降の昼食の為にレシピを読み漁った。
電子レンジも冷凍食品もばっちこいだ。もうそんなのに拘らない。やってるうちに、きっと無しでも出来るようになるさ。
実技経験も勿論欠かせないから、母さんが帰って来てからは、晩ご飯の準備を教わりながら手伝った。
自分ひとりでやってみて分かる、母さんの手際の良さたるや。感心、感動を超えて、恐怖すら覚えている僕に、兄さんは随分苦い顔で笑っていた。
さて、じゃあこのまま熱が冷める前に、レシピを頭に叩き込んだ状態で次回に臨めるようしっかり復習を……
「……とはいかないか。今日は早めに寝ないとな」
おやすみ。と、ひとり呟いて部屋の電気を消した。あんまり進歩無かったなぁなんて後悔もあるけど、それは今は置いておこう。それどころじゃない、だって…………
背中……あったか……はふぅ。何やらすんすんと匂いを嗅いでる食いしん坊の鼻息が聞こえる。あと腹の音。ぐるるる、ごろろろ、って。はいはい、分かってたよ。
「……アギト…………」
「よしよし、そんなにお腹空いたか。早起きした甲斐があったよ、まったく」
目の前には、とてもしょんぼりした顔で僕の起床を待っているミラの姿があっ…………目の前に? あれ? 背中あったかいけど……これは…………っ⁉︎
「っ⁉︎ ほぉうっ⁉︎ こっ……この柔らかいのはまさか……っ!」
「むにゃ……ふふ……えへへ…………」
マヌケな腹の音に和んでいた心臓にとんでもない衝撃が走る。も、もももしかしなくても、この背中に当たってるむにゅむにゅは…………っ!
まっ……待って! ぎゅうってしないで! あっ……まっ…………好きになっちゃうからっ! もう好きだけど!
「むにゃむにゃ……んむ…………へへ……僕がついてるからね…………安心……むにゃ……」
「〜〜〜っ! 安心出来るかこの……あっ、待って……っ。ちょっと……あひゅう……頭撫でんな…………はふぅ」
そういえば三人くっ付いて寝たんだったな!
なんとも頼もしい寝言をのたまいながら僕の頭をぎゅうぎゅう抱き締めて撫でてくるマーリンさんに、僕は……僕は…………っ! もう辛抱たまりませぇん!
トキメキ度が振り切れた僕は、目の前でまだしょんぼりしたままのミラを思いっきり抱き締めて撫で回すことでそれを発散した。ちくしょう……ふたりして可愛過ぎるだろ…………っ!




