第四十二話
午前六時。随分規則正しい健全になったものだと思いながら起床する。彼女のモーニングコールももう必要ないかもしれないな。目覚めて一番に僕はスマホに手を伸ばして、SNSのDMボックスを開いた。どろしぃさんからの返信は……あったあった。
『返信、そして参加表明誠に感謝ですぞ。今住んでる都道府県と、それから日時の希望があれば教えてくだされ。出来るだけみんなの金銭負担を平等にしたいものでしてな』
なるほど金銭的負担、か。金銭的……金……
「母さんに頼み込んでみるか……」
いや、オフ会のアイデアを出したのは母さんだし。母さんの発案がなければきっとこの話も受けていなかっただろうし。うん、やめよう。いくらなんでもそれは筋が通らない。が、それはそれとしてお金の件は頼み込もう。オフ会するのに必要だからって言えば……いや、ちゃんとバイト決まったら返そう。うん。
「えーと、日付は毎日がエブリデイなので問題無いです。住所は……」
返信から間髪開けずにポコンと着信SEが鳴った。どろしぃさん、朝早いんだな。
『おっと、同県とは。もしかしてポチ公とか分かりますかなw』
ポチ公。ポチ公とは駅前にある忠犬、というわけでも無さそうな、元気に走り回る姿をした犬の銅像。それの地元での愛称であるが……はてもしや。
「ポチ公ってあの駅前のブサイクな銅像の犬ですよね? 地元ですわーそれ」
『んんwwwまさかの同市wwwこれは運命的なものを感じますな』
「もしかしてどろしぃさんもT市? シティボーイ発言とは(疑」
『Twwww市wwwwですぞwwwてかめっちゃ都会だしスタ○あるんですぞ(震え声』
「スwwwタwww○wwwガラガラなんだよなあ(白目」
ほうほう成る程。どうやらどろしぃ氏は同郷だったらしい。話をすればする程、あまりにも通じすぎるローカルネタに疑う余地は一片も残らない。
『ところで今日は時間ありますかな? 優雅にwwwコーヒーでもwwwいかがwww?』
どこか古くさいネットスラングの多いこと多いこと。というかもう見ないような化石すぎるスラングも垣間見えて……ダメだ、最近涙腺が緩い。別に良い思い出も無かっただろと自分に言い聞かせながら、同志との会話を楽しんだ。
「スタ○? ねえスタ○w?」
『スタ○馬鹿にするんじゃありませんwwwこの町ではイ○ンに次ぐ都会要素なのですなw』
「イ○ン(迫真)これは田舎(確信」
『もうやめて! T市の人口密度はもうゼロよ!』
「滅んだ(絶望」
『壊w滅wそれはそれとしてどうです? 一杯奢りますぞ』
僕は返信の手を止めた。別にどろしぃさんと会うのが嫌とかではない。オフ会に参加する以上結局顔を合わせるのだから、それが遅いか早いかの違いだ。だが、それでも……それでもその一歩を踏み出す勇気が無い。
「……意外にも、会ってみたら美少女かもしれない」
僕は突拍子も無い、心にも思ってないことを呟き始めた。勇気を出す為のおまじないでは無い。何かの拍子に背中を押すものを探して。
「実はゲンさんかもしれない。めっちゃ気の合う人かもしれない。五千兆円くれるかもしれない。予想通りの気さくなおっさんだと思う。行けばきっと楽しいと思う」
なんでもいい。なんでもいいから背中を押して欲しい。止まってしまった手を見つめながら、僕は思い浮かぶだけの都合のいい展開を軒並み呟き続ける。
「行けば仕事が決まるかもしれない。時間が巻き戻って子供からやり直せるかもしれない」
そしてついに僕の止まっていた心は一歩を踏み出した。
「……きっとミラなら背中を押してくれるかもしれない」
奢りなら行く。店長! ヤサイニンニクマシアブラで。と、ついに返信する。それまでほぼノータイムで交わされていたやり取りに初めて既読から五分弱の間が空いたが、どろしぃさんからの返信はやっぱりすぐだった。
『拙者はアブラナシヤサイニンニクカラメで。じゃあ混まなさそうな時間に行きましょうかなw』
少しだけ前に進めただろうか。いやこんなのは、でもどうだろう。僕は自分でも笑っているのがわかる程久し振りに表情筋を動かした。因みにここ十数年外食なんてしてない僕にとって、先の呪文に特に意味は無い。聞き齧ったものだ。
午前十一時。成る程確かに、お昼前で学生もOLもいなさそうな時間だ。どろしぃさんと約束を取り付け、さて……と、重たい腰を上げる。僕はまず、やらなければならないことをする。
「母さーん……ちょっといいかな……」
僕は何の臆面も無く、母さんに小遣いを貰いに行った。違うんだ! バイトしてちゃんと返すから! 流石に奢って貰う気満々の手ぶらではマズイでしょ!
「まあ、まあまあ。五千円もあれば足りるかしら」
「……ど、どうなんだろう。ちょっと調べてみる」
事のあらましを説明して、今日と、それからそのうちに開かれるオフ会の資金提供を承諾して貰った。心なしか母さんも嬉しそうに見えるのだが、正直僕としては心苦しかったし、何より遊びに行くだけで喜ばれる現状をひどく反省した。
「そうだアキちゃん。遊びに行く前に美容院行っといで。面接でも見られてると思うわよ」
「美容院か……それもそうだよね」
そう言われてみれば、伸びっぱなしで薄汚いロン毛のおっさんに清潔感など無い。服装と違って、鏡なんて見なくなって久しい生活をしていると、自分の容姿、特に顔なんて頭に無かった。美容院代も、と言って僕に二枚の紙幣を渡すと、母さんは自分の出勤仕度に戻っていった。え? 髪切るのってそんなにお金かかるの? 桁一個間違えてない?
今朝もまた二人を見送って、そして僕も追いかける様に家を出た。近所に床屋だとか美容院なんて無いものだから、なんとかしてバスに乗って駅まで行かなければならない。くっ、小学生のお使いじゃないか、これじゃあ。
「とはいえ、なりふり構ってられないしなぁ……」
二人が買ってきてくれた服の中でもよりカジュアルな……見栄を張った言い方をしたけれど、要は歳相応な服装に着替えて颯爽と家を後にした。玄関の鍵はきちんと指差し確認した。よし行こう。僕はバス停に向かう途中、必死になってバスの乗り方を検索しながら歩いていた。
ぶぶっとバイブが鳴る。分っちゃいたけど、やっぱりどろしぃさんからのDMだった。
『拙者、これより人前に出られる身なりに整えるため遅れるやも。誠に申し訳ござらん』
なるほど。と、一緒に送られてきた謝罪している画像に頷いた。
「許さん。こちとらこれから髪を切りに行くから遅れてしまうかもしれないというに」
『おふぅwww超w奇w遇www』
似た者同士なのだろうか。出身が同じで趣味も合って。きっと彼は僕の様な落伍者では無いだろうが、それでも少しだけ気が楽になった。駅が終点だから降り損ねることも無く、僕はこの街で一番栄えている“風”の駅前の商店街にやってきた。“風”というのは、こんな時間でも人がいないのと、そもそもシャッター街になって久しいという背景があるのだが……今は置いておこう。
少しゆっくり歩いていると、クルクル回る白青赤のサインポールを発見した。床屋然としたその店構えに、僕はそれが床屋であると——僕の様なものがいく床屋であると確信した。なにせ店構えがボロい。そして暗い。両脇と向かいをシャッターの閉まったテナント募集の張り紙付き物件に囲まれ、すぐそこにゴミ捨て場があるにも関わらずダンボールが店先に積まれている。ここだ、ここなら僕でも気兼ねなく入ることが出来る。渡された額的に、母さんはもっとおしゃれで、かっこよくパーマとか当ててくれる様な。それこそカリスマ美容師とか、そんなお店に行くことを期待したのかもしれないが。僕は! ここに! 決めたんだ!
「あーい、らっしゃーい」
からんからんと鐘を鳴らしながらドアを開けると、無愛想で全くこちらも見ずに新聞に首ったけな親父の声だけが響いた。うん、間違えたかもしれない。
「なんだい見ない顔だな。お客さんじゃぁねえか、めんどくせえ」
「めん…………どうも」
客の顔を見るなりいきなりめんどくさいってのはどういう了見だこの……
「適当に座っててくれや。バリカンどこやったかな……」
ほんっとうに店選びを間違えた。こんなことなら緊張とか場違いとか、そんな細かいこと気にせずちゃんとした店に入るべきだった!
「あ、いえ。お忙しいなら僕はこれで……」
退散しよう。一刻も早く。そう決心して僕はそそくさとドアに手を伸ばす。その時、待ちな。と、後ろから声をかけられた。
「逃がさねえよ金ヅル。さあ座んな。どうして欲しい? 貴○花か? 朝○龍か? 稀○の里か?」
がしっと肩を掴まれ、僕はガムテープで補修された席に座らされた。ちょっと待って! 全部結ってるよね⁉︎ 選択肢が横綱しか無いよね⁉︎ こうして僕は、はじめての床屋さんというイベントに進入することとなった。