第四百十六話
背中は寒い。お腹も寒い。顔の辺りは温くて、右手だけやたらホカホカしてる。ホカホカというか……もちもちぷにぷに、ポカポカで幸せな気分になる。
はて、これはなんだろう。ま、まさかまたマーリンさんが……っ! ま、まままマーリンさんの……もちもちぷにぷになのかっ⁉︎ なんて勘違いは発生しない。触り慣れた幸福発生装置を、今更他のものと間違えてたまるか。
「……よしよし、お腹苦しいから乗っかるのはよそうってか。可愛い奴め」
ゆっくり目を開ければ、すぐそこにはミラのつむじがあった。後生大事そうに僕の右腕を抱き締めて、その手のひらを枕にして眠っている甘えん坊で優しい妹。
うむ、早寝した甲斐があった。普段より長くこの可愛い寝顔を愛でる為なら、友人からのゲームの誘いを断腸の思いで断りもするよ。
「ぷにぷに……ふふっ、本当にお前のほっぺは柔らかいな。癒される……自己治癒はお前しか治らないけど、お前の存在で周りもみんな元気に出来ちゃうな」
可愛い可愛いたったひとりの妹。可愛過ぎてもうやんなっちゃうね。でも……でもね、大好きなお兄ちゃんが苦しくないようにって気遣いが出来るんなら…………せめて掛け布団は独り占めしないで欲しかったな。
シーツでグルグル巻きになってるミラの姿に、初めは半分ずつ一緒に被ってたのを、寒くなって全部巻き取ってしまったんだろうと推測出来る。
簡単に想像出来る光景だ。うん、まず間違いない。だって……
「…………さっぶ。うう……ぶるぶる。おいで、ぬくぬく湯たんぽちゃん。はあ、ぽっかぽかだなぁお前は」
寒いんだよ、リアルに。なんなの? 秋なの? 秋……四季はあるんだろうか……? そこら辺はあんまり分かんないけど、とにかく暖を取る為にもミラをゆっくりと抱き寄せる。
こんな時間に早々起きやしないだろうけど、寒さで目を覚ましたらかわいそうだものね。
「…………よーしよーし。お前はほんっとうに可愛いなぁ」
ミラが愛くるしさで生命の頂点に立っていることは今更疑う余地も無いけれど、昨日コイツと同い年の少女が見せてくれた逞しさがこの無防備さを際立たせるというか。
あの子はこうはならないだろうなぁって。いや……あの男の前では割と緩んでる気もするけどさ……
「むにゃ……んん……? アギト……起きた……?」
「ああっ、起こしちゃったか? ごめんな、ぎゅうってしてやるからもうちょっと寝てて良いぞ。まだ時間も早いしな」
ああ、起きちゃった。目を擦りながらぐりぐりと擦り付いてくる癖に、珍しく二度寝をしようとする素振りも見せずにゆっくりと大きく伸びをするミラに、ちょっとだけ寂しさを覚える。
うう……お兄ちゃん離れなの……? 立派になるのは嬉しいけど……今はもうちょっとだけ甘えん坊でいてくれてもいいのに……なんて。僕の的外れな不安に、ミラはすぐに答えを返してくれた。
「…………ふわぁ。んん……お腹すいた……」
「……ごめん、あんな時間に寝ちゃって……」
ぐるぐるぐると低い音がミラの身体から響いてきた。ごめん……お昼ご飯食べたとこで寝ちゃったからね、僕が。
晩ご飯も食べずに寝ちゃったのか、それとも手持ちの食糧で軽く済ませてしまったのか。
マーリンさんが買い物に行って帰って来るまでの時間をコイツが堪えられるわけもないしな、きっとその間に寝ちゃうだろうし。いや……流石にそんな本能に忠実に出来てない…………よな?
「ご飯食べに……は、まだお店も開いてないか。食べるもの何も残ってないのか?」
僕の問いに、ミラはふるふると首を横に振って悲しそうな目で俯いてしまった。やっぱそれで晩ご飯をよしにしちゃったのか。
うう……僕のせいでロクにご飯も食べてないなんて。申し訳なさで胸が張り裂けそうだよ……
「……やっぱりもうちょっとだけ寝とけ、お店が開いたら起こしてやるから。それとも……お腹空いて寝付けなさそうか?」
「んむ……アンタねぇ……はぁ。なんだか今朝は随分子供扱いじゃない……? いつもそうだけど……」
おや、なんだか不機嫌になっちゃった。それでもやっぱり離れて行こうとはしないから可愛いよね、えへへ。
ごめんごめんと謝って、抱き締める力を更に強めて、ついでに背中もさすってやる。
よーしよしよしよし。ふふん、コイツがちょろいだけかと思ったけど、あの子にもお墨付きを貰ったからね。僕のなでなでスキルは結構なものだ。
「んんーっ。ふふ……えへへ。ほんと、今朝は随分可愛がってくれるじゃない。どうかしたの?」
「どうもするかよ、いつだって俺はお前を可愛がるのに全力だ」
お兄ちゃんが妹を可愛がるのに理由がいるかよ。えへへとあざとく笑うのが僕に甘やかして欲しいからだってんなら、その目論見は残念ながら大外れも甚だしいな。
なんたって! そんなことしなくても! お兄ちゃんはミラを全身全霊で甘やかしちゃうからなぁ! よーしよしよしよしよしよし——
「——おい!」
「——っ⁈ ま、マーリンさん……? い、いつのまに……」
べスッと脳天から衝撃が走った。声のした方を振り返れば、そこにはなんだか不機嫌な顔で僕に手刀を振り下ろしたままのマーリンさんがいた。あら、居たのです……? ええと…………なぜそんなに不機嫌なの?
「どうか……しました…………か——いてっ⁉︎ な、なんで叩くんですか⁉︎」
「あのね……はぁ。説明が必要かい?」
必要ですよ! さっきよりも気持ち強めに振り下ろされた二撃目に、僕は涙ながらに訴える。いえ、痛いとかはそんな……そういう物理ダメージはほぼ皆無です。ただ……その、ね。
腕を振りかぶって、振り下ろす。その動作を目の前でやられると…………ッ⁉︎ ち、違う! 忘れろ! い、いかん…………っ! 昨日不意打ちで襲い掛かったあの興奮も合わさって雪崩れ込んでくる……っ!
うぐ……か、考えるな……感じもするな…………っ。この人はもしかして着けてないんじゃないかとか……余計なことを考えるんじゃない——っ‼︎
「…………あの、どうしても理由が思い当たらなくて。いえ、その……昼間っから惰眠を貪ってしまったことについては本当に申し訳なく……」
「……そうじゃなくて…………はあぁ」
僕が寝てたらミラが動きたがらないし、それってつまり昨日の半日を潰しちゃったってことなんだよね。あれ…………? 全然謝らなきゃいけない問題じゃない……?
そうじゃなくてとは言ってくれたけど、それはそれとして人としてダメじゃない? あ、後でちゃんと謝ろう……
「……ふたりだけで盛り上がんないでよ。寂しいの、僕も。君が寝ちゃってミラちゃんはここから動かないし、ちょっと買い物に出かけたらその間に寝ちゃってたし。早起きして待ってたら、ふたりだけでなんだか……」
「おう……思ったより可愛い理由ですね、また。子供じゃあるまいし……」
うるさいなぁ。と、不服そうにミラを僕から引ったくって抱き締めるその人は、とてもこの国の政治に口を挟む巫女様とは思えないほど子供のような表情をしていた。
ああ……まだ僕がギュってしてるターンなのに……っ。けれど、ミラは僕に抱き締められている時よりも七割増しくらいで気持ち良さそうな、そして幸せそうな顔をしているんだ。
ううぅ……そんなに…………そんなにおっぱいが好きかよぅ……
「ふふ……いい子いい子。アギトと違ってミラちゃんは喜ばせ上手だね。気の利かないアギトと違って。冷たいどこかのアギトと違って」
「言いたい放題……はあ。分かりましたよ、構ってあげますからそんなよく分かんない拗ね方しないでください」
むーっ。と、頬を膨らませて異議を申し立てるマーリンさんに、これではとてもあの子よりも歳上には見えないなぁとため息を漏らしてしまう。
いや、ほんと…………はぁ。僕より本当に半分も歳下なのかよ、あの子。柔らかな胸に包まれてクッソだらしない顔でデレデレしてるコレと同い年…………ありえんでしょ……
「……なんだか今日のアギトはちょびっとばかし大人ぶってる感じだね。別に無理しない範囲ならいいけど、それで僕まで子供扱いするのはどうかと思うぞ」
「べ、別にそういうわけじゃないですけど……それと、マーリンさんを子供扱いしてるのは、普通に言ってることとやってることがミラと同レベルだからです」
不意に飛び火したことに驚いて、ミラは溺れかけていたマーリンさんの谷間から慌てて飛び出て僕に抗議し始めた。おう、そんなになってもまだ起きてはいたんかい。
私と同レベルって、私がまるで子供みたいじゃない! と、ぷんすこ怒ってはいるものの…………
「いやいや、お前はおこちゃまだよ。どこからどう見ても甘えん坊の小さなおこちゃま。あんまり可愛いと抱き締めて撫で撫でしちゃうぞ?」
「むきーっ! だーれがおこちゃまよ! そんなこと言ったらアンタも子供じゃない!」
どういう理屈だそれは。頭が良いって褒められてた魔術師ミラと、目の前で駄々をこねてるだけの妹ミラちゃんが同一人物にはとても見えない。
はあ……いかんな、ちょっと一回リセットしよう。あの子があまりにも僕の先を行く所為で、変な大人スイッチが入ってる。
説明しよう。大人スイッチとは、大人―な行動をとりたくなる精神的な切り替えスイッチである。説明終わり。まあ……なんだ。
「…………はぁ。いや、お前がまだ街で市長として……あ、いや。仮の市長として、俺の上司として振る舞ってた頃の夢を見てな。あの頃からしたら随分とまあ……幼児退行したなぁって」
「どぅゎあれがっ! 幼児よ! このバカアギト! ふしゃーーーっ!」
それだよ! 一番は! それなんだよ! すぐに噛むな! 暴力に訴えるな! 訴えるにしてもせめてもうちょっと文明的な……知性のある攻撃方法にしろ!
野生の獣のような鋭い目で飛び掛かってくる妹を、相変わらず避けることも防ぐことも出来ずに、僕は無惨にも噛み殺されてしま……殺されはしてないけど。
そんな僕を、マーリンさんはとても寂しそうな顔で見ていた。混ざりな⁈ なんならミラ持ってって良いから! いつもみたいに混ざってきて良いんだからね⁈ 何その遠慮⁈




