第四百十二話
お腹が重たい……重たい………………重たい……? はて、なんでお腹が重たいんだっけ。ええと、そうそう。美人の涙に絆されて、お腹いっぱいなのに更に無理してご飯を食べて…………
「…………この腹の中には何も詰まっていない筈なのに…………はぁ」
ムクリと起き上がり、たるみにたるんだだらしない自分のお腹をさする。はあ……ため息も出るよ、そりゃ。
痩せよう痩せようと考え始めて、いったいどれだけ経ったよ、ええ? 痩せてないことが問題なんじゃない、痩せようという努力をここまでまだ何もしていないのが問題なのだ。はあ……
「…………切り替わった……な。よし……」
ぼつりと何気なく呟いた独り言に、馬鹿な考えは消え失せる。
切り替わった、異常無し。これから僕は毎日…………二日置きか。当たり前に来てくれるとは限らないと、この朝を疑い続けなきゃならないのか。
はああぁ…………気が滅入るぅ。楽しかった出来事も美味しかったご飯も全部押し流されそうだ。
それでも僕の……秋人の一日は始まる。まだ真っ暗な外を見るに、お腹の苦しさに寝転んでいるうちに眠ってしまったのだろう。
ま、興奮続きで疲れてたから…………子供じゃないんだからさぁ…………がっくりですよ。はしゃぎ疲れて寝ちゃうなんて笑い者じゃないか、まったくもう。
今朝だけでもう何度目かも分からないため息をついて、僕はパソコンを起動する。
ゲームじゃないよ、決して。こっちの世界でやることは多い。だからこそ、降って湧いたようなこういう浮いた時間を使って、両方の為になる調べ物をしておきたいのだ。というわけで……
「家庭農園…………無農薬…………おいしい…………と」
おいそこ、小学生の夏休みとか言うな。旅が終わって帰ったらやらなきゃいけないんだから、野菜作り。
アイツも楽しみにしてたし、それはもう嬉しそうな顔で。僕も僕で正直期待してる。野菜がどうこうってよりも、あの暖かい街でのスローライフが。
こっちでは忙しく働いて、向こうでは長閑に畑を耕したり旅をしたり…………えへへ、なんだかとっても幸せな生活じゃない?
「………………分かってるよ。でも……」
頭の中でガンガンと嫌な音が鳴っている錯覚を覚える。これは……秋人の声だろうか、それともアギトの声だろうか。分からない、それすらも。
けれど……ずっと同じことを繰り返している僕の声が聞こえる。この生活はいつまで続けられるのだろうか、って。そんな問題があるのは分かってる。でも…………
日が昇るまで調べ物に没頭…………出来る性格じゃないのは僕もとっくに知っていた。気付けばモニターにはゲーム画面が映っていて、久し振りにAoWでキル数を積み上げ…………積み………………罪。下手になってる…………っ。しばらくやってなかった内に…………下手くそに…………罪ッ!
僕からコレを取ったら何が残るってんだ! うう…………あ、ボイチャは繋いでません。ふたりともまだ寝てるからね。
「うぐぐ…………思い通りにマウスが動かない…………キー入力が追いつかない……っ。何故だ…………どうして戦えない…………っ」
チャットログに流れる偽物乙の文字。そしてスマホの方にやってくる、垢乗っ取られてますよという通知。
う、うるさいよ…………そんなに下手になってるのか、客観的に見ると…………そうかぁ。
くっ…………アギトとして…………あ、ハンネの方ね。向こうじゃなくてこっちのハンネの…………………………今ってハンドルネームって言わないの——ッ⁉︎ それはよくって。
「…………えーっと……偽物じゃないよ。久々にやったら下手になっ……………………PCスペックがもう足りてなくてガッタガタだったよ。買い替えるまでは辛抱かなぁ……と」
なんで見栄張ったの……? そういうの、やめたんじゃなかったの…………? だって? 本質が変わるには…………数ヶ月って時間は………………っ。
三十年かけて育て上げた僕の本質を変えるには! この二ヶ月半という時間は短過ぎるんだよッ‼︎
ニートだもんな。ついに親の脛をかじり尽くしたか。もうおしまいやね。等々、なんとも涙を誘うリプライの嵐に………………よぉーしやってやろうじゃねえかテメェらオラァ! ちょっと表出ろやぁ! とはならなかった。
ふふ……僕も大人になったからね。所詮は顔も知らない相手からの罵倒、そんなの無視ですよ無視。相手するだけ体力の無駄って言うか? ま、こんなことする暇なやつの相手なんてしてたら、僕まで同じところまで落ちちゃうって言うか?
だからこの大量のリプも平気な顔でスルー…………はっ、ハゲちゃうわ! まだ禿げてな………………お、お前会ったことないだろうが! 禿げてないわ! 禿げて……ハゲじゃねえって言ってんだるぉおお‼︎
「…………ぐっ……どうして僕には煽り耐性が無いんだ…………しかもどうしてお前達はこの反応を見て本人判定するんだ…………っ。傷付くぞ…………心は……繊細なガラス細工なんだからな…………っ」
終わりやねって言うのやめて、本気でアイデンティティの喪失を危惧して息が切れてくる。禿げもやめろ、禿げてないわ。童貞は今関係無いだろぉぉおおおッ⁉︎ ぐぅ……コイツら…………どうしてこうも僕の弱点を的確に…………
「……ふふっ……くっそぉ…………楽しいな、勝てないのも」
気付けば僕はデス数ばかり積み上げていた。勝てない、倒せない、生き残れない。立ち回りが下手になった? エイム力が下がった? やっぱりスペック不足でカタついてる?
色々あるだろうけど……一番は、僕が置いていかれたからなんだろう。
新フィールド、新ギミック、新アイテム。マイナーチェンジでもそういったものはポツポツと追加されたみたいだし、僕はそれを使いこなせてない。ああ、このゲームにもこんなに新鮮さが残っていたのか。
「……技術とは人間の欲求が生み出した夢の具現……か。そうだよな、もっと良いゲームにしたくて開発されてんだもんな。強くなりたいって欲求が薄れてた僕が置いてかれるのは当然だ」
ああ、くそう。また負けた。負ける度に少しずつ思い出される本来のアギトのスキル、培ったノウハウ。ちょっとずつ差は詰まってる、けれど決定的に何かが足りない。
そんな一歩一歩が楽しくて仕方ない。新作のゲームを遊んでるみたいだ。
こんなにも楽しい娯楽があったなんて! 負けるのが楽しいとは一度も思わなかった……って言うか、負けてるのは今もすっごく不服なんだけど! 負けても勝ちたいって思うこのワクワク感…………初めてこのゲームに出会った時の——
「——デンデン氏————?」
届いたのは一通のメッセージだった。あまりにも罵詈雑言と煽りのオンパレードな仲間からの荒い歓迎が、電池的な意味で辛くて通知をオフにしたアプリとは別。
日常連絡用、連絡先なんて母さん兄さんと店長、そして花渕さんとデンデン氏しか入っていない。そんなあんまり使ってない所からの通知だった。そして…………僕はそれに背筋を凍らせる事となる。
『アギト氏―。こんな時間にもゲームしてるなんて、久々でござるな。タイムライン凄いことになってますぞ、アギト氏へのリプで。まったくこれじゃあおちおちフォロワーさんに描いて貰ったどろしぃたんイラスト巡回も出来ないでござるよ』
ごめん、でもそれは僕の所為じゃ…………違う! そこじゃない!
慌ててチャット中だったAoWのタブを閉じ、急いで服を着替えた理由はその後。というかスマホとモニターの端に映ってる小さな数字! しまった、久々だぞこういうの!
『——ところで今日はお休みなんですかな? となると…………もしかして新作はあんまり評判良くなかった……ですかな……?』
「…………大評判だよ…………大評判だから………………っ! ひぃいいいっ! 怒られる! 遅刻したら怒られるぅうう‼︎」
もうとっくに家を出る時間だ! そして! 今日が休みなわけないだろう! ごめん、分かってるからデンデン氏もこんな聞き方してるよね! 今日は! 絶対に! 休みには! ならない‼︎ だって‼︎
「——行ってきまーす!」
「行ってらっ…………騒がしいなぁ、日曜の朝から」
ドアが閉まる音で聞きづらかったけどちゃんと聞こえたよ! そうだ、今日は日曜日なのだ! 曜日感覚がガタガタに…………うう、昨日色々あったけど、その後の二日間にも色々あり過ぎたんだよ……っ。
まだ間に合う……まだ助かる……っ。きっとあの子はもう立ち直ってすっかり元通りになってる。その節はどうもありがとう、デンデン氏。じゃなくって。息が切れる、足が重い…………っていうか体が重い。けど…………なんとか……
「——お、おはようございまーす……ぜえ……ぜえ……」
「おはよう、原口くん。あはは、寝坊した? でもギリギリセーフ。ナイスラン」
間に合った……と、安堵する間も無く、僕は着替るためにバックヤードへと向かった。間に合ったけどまだホッと一息ついていいわけじゃない。これはあくまでスタートラインに立てたというだけ。
気を引きしめろ、日曜日だぞ。新作発売からはじめての日曜日! はい? 新作の発売日自体が日曜日じゃなかったかって……? いえいえ、雨の日はノーカンなんで……
「よし、汗も拭いたし変なとこも無いな。よしよし……」
もう一度表に戻れば、そこにはキッチンからパンの並べられたトレーを持った花渕さんがやって来ていた。ビクッと一瞬だけ緊張したのがバレたらしい、それを店頭に並べると、すぐさま鬼の形相で僕の方へと歩み寄ってきた。
「……おはよ、アキトさん。うん? さっきのビクッ! は、どういうことだし? まさかまた私がやらかすと思った? 違うよね? 遅刻しかけたから、私に怒られるかなぁ……って考えたんだよね?」
「ひぎっ……お、おはようごじゃいます…………」
和かに睨むんじゃない、泣いてしまいます。グリグリと僕のお腹を拳でどつきながら、花渕さんはニッと笑って仕事に戻って行った。良かった、大丈夫そうだ。以前の頼もしくておっかない彼女の姿がそこには…………
「——っ! いったぁ…………な、何見てんの!」
「い、いや…………」
がんっ! という可愛くもなんともない鈍い音を上げて、彼女はキッチンの扉に顔からぶつかって行った。
どうやら、僕らが想像出来ないくらいあの問題は根深いらしい。
まだ本調子じゃない花渕さんに、果たして日曜日は魔の手はどのように忍び寄るのだろうか。忙しさに目を回して僕がやらかすオチはこの後八時間後に! やだよ! ポカせず乗り切りたいよ!




