第四百三話
ぼうっとぼやけた視界がだんだん定まっていく。見慣れない天井、嗅ぎ慣れた匂い。そして…………どこか懐かしく感じてしまう首元の生暖かさ。ご無沙汰でしたね……
「……はあ。まあ、それだけ落ち着いて来たってことかな。よしよし……」
腕の中でむにゃむにゃと寝ぼけながら僕の首筋を甘噛みする愛らしい妹に、昨日の彼女にこれと似ているなんて思ってしまったことを心の中で謝罪する。いくらなんでもこんなに甘えん坊さんじゃ無いもんね。
少し前までは毎朝毎晩のように噛み付かれてたって思えば……うん、やはり久しぶり。噛み付いて甘えるだけの心の余裕が生まれたと前向きに捉えておこうかな。
僕らは朝早く……からは、ミラが全くと言って良いほど起きなかったから……なんて、そんな毎度おなじみな理由でお昼前から行動を始めた。
街から街へ、という移動ではない。これまでの危険が伴う無防備な旅に比べて、いくらか心も休まる街中の移動と言った趣なのかな。
仮にも王都。こんなに寂れていても、ここは王都を名乗る広い広い街の集合のひとつなのだ。
「しっかしどうにも慣れないな、あの光景は」
「こら、滅多なこと言わないの。ほんとアンタは……」
ばしっと太ももを叩かれ軽口を咎められた。僕らは今、役所の受付ロビーで長椅子に座って、マーリンさんの帰りを待っている。いえ、すぐそこにいるんですけどね。
姿も見えるし声も聞こえる。凛とした表情で周囲の人間にテキパキと指示を出すその人こそが、星見の巫女様だ。
そう、僕らは街中にある騎士団の駐屯所のひとつを訪れたのだった。
「早く会いたいなぁ……えへへ。元気かなぁ」
「元気だろうよ、あの人は。でも、オックスが居ないのは残念がるかもなぁ」
当初の予定通り、僕らはエルゥさんの捜索…………約束を果たす為に、彼女の行方を追って貰おうと、マーリンさん直属の配下である騎士団に助力を依頼しに来たのだ。
はあ…………これ、本当に大丈夫なんだろうか……? 思いっきり職権濫用じゃない……?
勇者の精神的なケアと言えば多少は聞こえはいいけどさ…………ううむ。
単に友達と会わせてあげたいから探してくれ、って部下に命令してるのだから…………うん、ダメだと思う。
「……っと、帰ってきた。お疲れ様です、どうでした? 流石にそんな理由じゃ動いては……」
「うん、バッチリ任せておくれよ。三日も掛からず探し出せるだろう。まあ……もう帰ってしまったとか、まだ辿り着いていないとか。そんな場合は別だけれどね」
嘘だろ、動いてくれるのかよ。びしっと親指を立てて、任せてと言う頼もしい姿は、なんと言うかこう………………なりふり構わねえな、って。そんなにミラに気に入られたいか。
と、そんな冗談は置いておいてだ。確かにこれで、数少ない嬉しいイベントにフラグを建てられた。とてもプライベートで子供っぽい理由で駆り出される王都中の騎士の皆様には本当に申し訳無いが、とりあえず憂いをひとつ積荷から降ろしてしまえそうだ。
「さて、じゃあ先へ進もうか。少し進めば馬車が出てる。歩いて行くも良し、それに乗るも良し。そこまでの道のりで決めてしまおう」
「馬車……ですか。まあ、乗れるなら俺は乗りたいですけど…………なんで今更……?」
今更ってものでもないのさ。と、マーリンさんは何やら含みを持たせて言葉を濁した。
なんだろう、名物馬車なのかな。車内放送が凝ってるとか。いや、車内放送ってなんだよ。馬車だぞ、聞こえるかよそんなもん。ガタガタうるさすぎて話し声もちょっと聞き辛いのに。
そんな気にも留めなかった疑問の答えを、僕らはその馬車乗り場に辿り着くまでの道のりで理解することになった。
僕らはただひたすら変わらぬ景色の中、街を歩き続けた。変わらぬと言っても、本当に何から何まで一緒なわけじゃない。
家の形、古さ、それから人の顔。同じというのは本質が、という意味である。それはつまり……
「ふたりにまだこれらに感動する心が残っているのなら、僕は喜んで付き合うとも。けれど……そうだね。気の利かない言い方をすれば、ただの住宅街だ、ここからは。観光施設や名所も無い、本当に人々の生活があるだけの場所。歩いて見て回っても、目新しさ、面白さは薄い。僕みたいに歳をとると流石にね」
そう、旅行に行って見るものと言えば、その土地にある観光スポットや地域ならではの建物なんかだろう。テーマパークに行くことだってある。
けれど、普通は住宅街を練り歩くことを目的とはしない。
目的地に着くまでの間、見知らぬ土地の人々の暮らしに想いを馳せるくらいはあるかもしれないけれど、それは本質ではない。所詮はおまけの要素だ。
「確かに……馬車から見る景色でもこと足りそうってのが俺の意見です。あんまり他人の家をジロジロ見るのも、良いようには取られないだろうし」
「あはは、君も案外スレてるね。馬車も通っていないような獣道を通るわけでも、自然を感じながら街と街の間を行くわけでもない。この行為に楽しみを見出せるほど純粋な心は、残念ながらとっくに失ってしまった。だけどミラちゃんなら……と、思ってね」
成る程、確かに。僕はこれで一応三十路なわけで、子供の豊かな感受性はとっくに失われ…………おい、家から出なかったくせに、見飽きた風な口を聞くなって言うんじゃない。そもそもそういう事に感動を見出せないから出不精なんだよ、分かれよ。
けど……ミラはそうじゃない。と、思う。家々の並びひとつ、地面の石畳の装飾ひとつすらも新鮮なのだ。
アーヴィンしか知らなかった幼い彼女にとって、確かにそれらはまだまだ感動する余地を残して……
「……そうですね、馬車に乗りましょう。ここまで来たら……って思いもあったけど、これだけ歩いてこうも変化が無いのは…………」
「…………お前って変なとこで大人だよな、悪い意味で」
なんでよ! と、睨まれてしまった。だって! そうじゃん! いつもいつも子供っぽいくせに、なんていうかこう…………子供らしい可愛げがまるっと失われてる時があるじゃん!
昔はそれを外見不相応、歳不相応な大人びた雰囲気とか勝手に思ってたけどさ。
「何よ、いつも馬車に乗りたいって駄々こねてたのはアンタのくせに。大体ね、この旅の最初の目的を忘れないでよ。私は。市長になるために。色んな街の姿を。見て回りたかったの。よ! 自治の手法や文化を取り入れたいとは思っても、街の作り自体をどこかに寄せる気は無いの! アーヴィンはアーヴィンの良いところがいっぱいあるんだもの、モノマネの街にする気は無いわよ」
「……おお……なんだかそれっぽいこと言ってるな……」
ふしゃーっ! と、けたたましい雄叫びと共に飛び掛かって来るミラを、避けることも防ぐことも出来ず、僕はまたしても無残な結果を迎えてしまった。痛いんだってばッ!
しかしこいつの言うことにも一理ある。ミラは街が見たいのだ。それは街の仕組みであったり、街に根付く文化であったり、または街の持つ特性であったり。つまり、欲しいのは街の作りや人々の性質ではないのだ。
それはあくまでもアーヴィンの住民が作り上げるものだから、彼女は街のみんなが何かを作りやすい土壌づくりをしたいのだろう。
「……よしよし、大変だねお前も。子供みたいなわがままで歩いてると思ってたお兄ちゃんを許しておくれ」
「むぐ…………まあ、アーヴィンの外の景色が見たかったってのも、まったく無かったわけじゃないわ。けどそれも、ここじゃあんまり望めないしね」
私はあくまでアーヴィンの為に旅を始めたの。観光じゃないんだから。と、どこか得意げに語るミラだが……これまで幾度となく平らげて来たご当地グルメの数々を僕は忘れていない。アーヴィンで再現するのは無理だって分かってる食材でも美味しそうに食ってたくせに…………
「そっか、ミラちゃんも馬車に乗る方を選んだか。うん、じゃあそうしよう。少し行けばもっと綺麗で栄えた街に出る。そうしたら…………ふふ。きっと歩いて行くよりもずっと濃厚な思い出が作れるかもね」
「…………? なる……ほど?」
後のお楽しみだ。と、マーリンさんは首をかしげる僕らの頭を撫でて、ずいずいと先へ進んで行ってしまった。
ふむ、徒歩よりも濃厚な思い出……か。いや、徒歩だから思い出が多くなるわけではないのでは? 徒歩だから見落とさなかった思い出ってのはあるだろうけどさ。
でも、わざわざ言葉にするってことは、何か特別なイベントが起きるんだろうか。
「…………ところで、やけに馬車に乗る乗らないに拘りましたね。理由は聞きましたけど……なんだか他に事情がありそうですね……?」
「うっ……妙なとこで鋭いね、君も。別に、昔の思い出話だよ」
思い出話……ですか。それはつまり、十六年前の旅の?
そう尋ねても、お茶を濁されるばかりで答えては貰えなかった。
やってきた大きな馬車に少しワクワクしながら乗り込んで、僕らはこの先で待ち受けているさらなる感動とワクワクに胸を躍らせた。まさかそれが、予想出来る範囲を軽々飛び越えてくるものだなんて、文字通り思いもよらぬ光景が待っているだなんて考えもせずに。




