第四十話
着信十件。昨日——二回分の昨日で上がりに上がったテンションと労働へのモチベーションは、瞬く間に地に落ちた。そうか、いや当然だ。僕は昨日……ええいややこしい! こちらでの昨晩、僕は何かから逃げる様に応募のメールを送ってすぐに眠った。しかしどうだろう。返事はその直後、電話にて。うむ、日取り時間を決めると言うのに、何度もメールでやりとりするのは確かに非合理だろう。応募したのは六件だった筈、と言うことは……やはり時間をおいてもう一度、二度と着信が入っている電話番号もある。
さて、どうしようか。もちろん、この履歴の番号に電話して面接して貰うのが正しいだろう。こちらから要望があって始めた連絡を、こちらの都合で勝手にやめると言うのは人としてどうだと言う話なわけだ。わけだが。だが。
「…………うーん、無理」
アギトの時に見せた勇気と度胸は、というか昨晩兄さんに見せた勇気の一片すら今の僕には無い様な気がした。だって、いや。変わると決めたのだから言い訳はよそう。でもだ。でも仕方ないじゃない。今更もう一回、一体なんて言って電話すればいいって言うんだ。
僕はまた逃げるようにスマートフォンを持ったまま布団に潜り込んだ。僕に勇気をくれたあの少女の姿を思い浮かべては今の情けない自分に落胆する。二日後、一体どんな顔をして向こうに行けばいいんだ。
無為に時間だけを消費していく。小さい足音がし始めた。母さんがもう起きたのだろう。画面の右上に小さく表示されている五時五十分の文字に頭が痛くなってきた。もう三時間にもなる。ああ、またこの三時間の記憶がない。熱くなる目頭を押さえて僕はようやく布団を蹴っ飛ばして飛び起きた。
「アキちゃんおはよう」
「うん、おはよう母さん」
味噌汁の匂い、出汁と味噌の独特の香りを漂わせるキッチンで母さんは笑っていた。今朝は……魚焼きグリルに火が入っているところを見ると、焼き魚に味噌汁。それから漬物と納豆も付いていたら良いなぁ……じゃなかった。二日ぶりに嗅ぐ和食の懐かしい匂いについつい心が緩む。
「おはよう二人とも」
少し急ぎ足で兄さんもやってきた。僕も母さんも、新聞を取りに行ったその背中におはようと返す。そうだ、兄さんになんて言おうか。あれだけ大見得を切ったのだから、やっぱりもう一度電話をしてちゃんと面接をして貰うべきだろうな……
玉ねぎとワカメの味噌汁をすすってほっこりしていたのも束の間、家の中は僕一人になった。さてどうしたものか。いや、やはり電話をして……しかしなんと言えば……と、グズグズ考えているだけで十時半を過ぎた。アギトの体に比べて体感時間が随分早く感じる。これが歳をとると時間があっという間に過ぎる、というものなのだろうか。それとも……
「……じゃあ、行きましょうか」
なんとなく彼女の真似を、口調まで寄せてしてみた。ああ、もしかしたら彼女はこうやって自分を奮い立たせていたのかもしれない。僕はようやくスマートフォンの画面を着信履歴一覧に切り替えて、リダイヤルする決心をつけるところまでやってこれた。
「……ふー……すー、はー。よし」
唯一、三回着信があった番号をタップして電話をかける。秋人史上、最も緊張している瞬間だろう。電話は三度目のコールを待たずに元気な男性の声へと変わった————
結論から言おう。ミッションは成功した。今日の午後二時面接に来て欲しいと、ようやく一件の面接を取り付けることが出来た。いや、なに。確かに気付いたのは午前三時だったが、そんな時間に電話しても仕方なし。きちんと時を見計らっていたにすぎんのだよ僕は。
この調子で残りも……と思ったところで、僕は重大なことを思い出す。はて、二人に買って来てもらった服はどうしたっけ。何しろ昨日のことも三日前なもので、普段使わないものなんて意識してないと覚えていられな…………あれ……?
「……無い…………無い………っ⁉︎ 無い⁉︎」
どこにしまい込んだ……? そもそもしまったのか? どこかに脱ぎ散らかして……いや、洗濯したんだっけ? ああもう、こんなことなら普段から整理整頓して部屋を綺麗に保つべきだった! 焦りから早くなる鼓動を聞かなかったフリして、僕はゴミと物とゴミに溢れた部屋をひっくり返し始める。壁が厚くてもこれじゃあ部屋と呼んで良いかわからない有様だ。
「…………無い」
どうしたものか。もう誰もおぶっていない背中に嫌な汗をじっとりとかいていた。ああ、風呂。汗も流さないといけない、服も……どこに……
「……なんで……なんでこうなるかなぁ……」
無意識に飛び出した泣き言は、文字通り涙と一緒に流れて落ちた。情けなさで胸がいっぱいになる。僕は人目が無いことをいいことにメソメソと泣き出してしまった。ともかくお風呂に入ろう。服は……もう一回ちゃんと探せば、頭を冷やしてから探せば見つかるかもしれない。とにかく心が折れない様に、ポジティブなことを呟きながら僕は脱衣所に向かった。
「……ああっ! ああ! そうだ!」
そしてそこで目にした空の洗濯カゴに三日前の昨晩の出来事を思い出す。そうだ、僕は確かに服を着替えてカゴに押し込んだ。そして今カゴは空で、洗濯機も動いている様子はない。つまり答えは一つ。少しだけ明るくなった気分のまま僕は二階に上がってベランダを確認する。そこには二人の服や僕のボロボロのスウェットに混じって、大切な一張羅が干されていた。午後二時にはきっと間に合う。いやこの日差しだ、必ず間に合う。ならもうやることは一つ、二つ、いやもうちょっとあるかも……
僕は大急ぎでシャワーを浴びて、相変わらず抜け落ちるその様に心を抉られ、体が赤くなるまで垢を擦り落とした。この間ものすごい量捨てた筈だったが……と、自分の体から削れた様に出てくる皮脂にカナリキモイと悲しい自己採点を下して、僕は優雅に風呂上がりの牛乳を流し込む為またキッチンへと向かった。
「……やっぱり料理は出来るようになりたいよな」
ふとロイドさんの姿を思い浮かべながら、口に出来た白い髭も拭わず呟いた。以前は、彼女に何か美味しいものを食べて貰いたい、とはきっと建前で。彼女に必要とされたい、認められたい、好いて貰いたいと思っての試みだった。だが今は、新たに増えた憧れの対象に一歩でも近付きたいと思った。なに? 大して変わらん? 僕もそう思う。でも良いのだ。彼女に。から、僕が。に、文頭が変わったというだけで。
「さて、まだ時間もあるし。えーっと……」
スマートフォンでケーキのレシピを検索する。まあ……結局、彼女に喜んで貰いたいというのは変わっていないのだな。と、無意識に検索フォームに入力されたミルフィーユの文字に少し笑って、簡単とか初心者でもと書かれたページを開いていく。ふむ、オーブン。オーブンですってよ。だから無いんだってオーブン! ん? 無いのかなオーブン。いや、オーブンは無いにしても、ミルフィーユ自体はあるんだし焼くための……釜とかそう言ったものはあるのでは。なら……
「……ダメだ、分からん。今度ロイドさんに教えてもらおうかな……」
調べども調べども知らない単語ばかり増えるので、ミルフィーユへの詮索はやめにした。こちらにいる時はミラでは無く、二人の大切な家族の為に時間を使おう。となると……やっぱりご飯を作っておくくらいしか思い浮かばないのだけれど。
テレビを観ながら早めの昼ごはんを食べて、だらだらと動画を見てゲームをして。うん、時間が早いのはきっと肉体のせいではないな。僕は取り込んだ一張羅に着替えて颯爽と家を飛び出し……飛び出し? あれ? 僕は今からどこへ向かうんだ……?
「あれ……どこって言ってた…………あれ……?」
さっと血の気が引いた。無理に張り切った結果、応募件数が多くて一体どれにリダイヤルしたのか分からない。お、おおおおおちちゅけけけ! 冷静になれ、ビークール! 電話口で一番最初に聞こえた言葉を思い……出せない、緊張し過ぎて何話してたかもちょっとうろ覚えだ。え? もしかして今日の午後二時も間違ってたりしないよね? お、落ち着こう落ち着ここここ、クール! ビー、クール‼︎
「っ! そうだ、電話番号で検索して……えっと…………あれ、これ……何処だ…………?」
近所の募集片っ端から応募したツケが! 無理に頑張った結果がまた足を引っ張る。しょうがないじゃない! 十何年もすれば近所のお店事情だって全然変わってるもの! 子供の頃母さんとよく行った角の駄菓子屋さんも、この間見た時にはコインランドリーになってたもの!
とにかく住所を検索して地図を頼りに急いだ。まさかアーヴィンでは迷子にならなかったのに、こっちでやらかすなんて。家を出た午後一時、それからおよそ一時間後。僕はなんとか酒屋に辿り着いた。後に知るのだがこの酒屋は出来てから五年だそうで、当然だが僕には全く見覚えのない、縁もゆかりもない店であった。




