第三百九十九話
目を覚まして体を起こして、それからホッと胸を撫でおろす。気付けば心臓は脈を早めていて、満タンのペットボトルをひっくり返した時のように、トットットッと小刻みにその精神の不安定さを警告しているようだった。
切り替わった、という安心感。いったいいつまでこの不安と戦い続けたら良いのだろう。もしもこの生活に終わりが来るのならば……せめてその時までには……っ。
「…………よし。大丈夫、切り替えろ」
ぎゅっと力の入りづらい拳を握って布団を出る。何も問題は解決してない。けど、それでも時間が止まるわけじゃない。
ネガティブな感情は一度しまい込んで、出来るだけ前向きな考えをひねり出し、僕は今朝もキッチンへと向かった。
今朝のご飯は兄さんが作ってくれた。僕は何も出来なかった……わけではない。ふふん、これでも進歩しているのだ。兄さんの邪魔にならないようにトースターでパンを焼いたとも。ぐっ…………幼稚園児、保育園児のお手伝いレベル…………っ。圧倒的……無力……っ。
だ、だけど今日はしょうがないのだ。余り物を温め直して、それからくず野菜を使ったニラ抜きニラ玉を兄さんがチャチャっと作って。どうしてニラ玉の玉子はこんなにも美味しいのだろうか。それはよくって。
とにかく、手伝える部分が、皿洗いと母さんのトーストくらいしか無かったのだ。
「いただきまーす。むぐむぐ……うんうん、どうしてニラ玉の玉子はこんなに美味しいのかな。普通の炒り卵とは違うよね、なにかが。もぐもぐ」
「そりゃあ……違うだろう、めんつゆの分だけ……」
めんつゆ。そうか、この強い旨味成分はめんつゆの仕業だったのか。そうか…………そりゃそうか……味付けの差だよな…………うん。
ニラ玉の玉子だけが奇跡的に美味しいのだという僕の勝手な神話は崩れ去ったが、そのかわり有益な情報を手に入れた。ってことは、スクランブルエッグをめんつゆで作ったら美味しいんじゃない? え? そういう話じゃない?
「ところでアキ。体は大丈夫なのか? あんなにゲロゲロだったけど……」
「うっ……うん、もう平気。いや、その節はお騒がせを……って、それを言ったら兄さんの方こそ大丈夫なの?」
今のところはな。と、やけにしかめっ面で答える兄さんに少々不安になる。だがその理由はすぐに判明して、そして一緒に安心を運んできてくれた。
昨晩の残り物の味付けが薄いのだ。ニラ玉も食べるけど、それでもちょっとだけだし。兄さんのメインのおかずはそっちなのだが…………濃い味付けが好きな兄さんにとっては、ちょいと味気ないんだろうな。
でもまあ、それは我慢しておくれ。また倒れたら…………うう、今倒れられたら前以上に取り乱しそうだ。
「とりあえず気になってたことも解決したし、体調もすっかり元通りだよ。いや……まあ、元通りじゃダメなんだけどさ、僕の場合……」
「まあそう焦るな。正直、挫けてやめるなら二ヶ月以内だろうと思ってたからな。客観的に見たらよく続いてると言われる頃だ。よっぽど大きなきっかけがあったんだな」
うぐぅーっ。そ、そういう言い方はよしこちゃんだよ……っ。
だが……うむ。我ながらよく投げ出さずに続けられていると思う。まあ投げ出したくなるほど嫌なもんでもないから、変なことでもないんだけどさ。
でも、もしも花渕さんと打ち解けなかったら…………成る程、確かに辞めてたとしたらそのタイミングか。
それが……うふふ。週に何度も一緒にケーキ屋さんに通う仲だもんね。まあ………………目的が僕の友達に会うってとこは気に食わないんだけどさ。爆発しろ。
「……そうだね。きっかけも大きかった。でもそれだけじゃダメだったよ。兄さんに手伝って貰って、みんなに支えて貰って。うーん……あんまり成長してないって感じてしまうくらい、色んな人におんぶに抱っこだよ」
「そうかそうか、それは良かった。おぶって貰った分はいつか返すとして、その縁は大事にしろよ。人間の成長の半分は、人間関係の拡大とも言えるからな」
そういうものかね。確かに、人脈と言うか……知り合い、友達は増えた。その分ゲーム出来なくなって、ネットの友達とはちょっと疎遠気味だけどね。それもSNSでは繋がってるからよしとするか。
他愛も無い家族の会話を楽しみ、そしてそのまま僕は晴れやかなテンションでお店へと向かった。うん、そうなんだよ。なんやかんや楽しいのだ、花渕さんに罵られ…………ち、違う! このバイトが! 優しい店長とツンデレ気味な可愛い後輩上司(?)と一緒の職場が楽しいの!
け、決して変な趣味に目覚めたりは…………うん、無い……そんなのではない…………筈。
「おはようございまーす。そうだよ……別にそういう趣味は…………ぶつぶつ……」
「おはよう原口くん。どうかしたの? なんだか浮かない顔で」
「おはようございますー。あらまあ、あなたが原口さん。よろしくお願いします」
あ、はい。よろしくお願いしまーす。はあ……そうだよ、僕にそんな趣味は…………よろしく⁇
うっかり流してしまいそうだったが、全く聞き覚えの無い声と姿がお店にはあった。な、なんだ⁉︎ お客さんじゃないのか⁉︎ い、いったい何者だ⁉︎
「ほら、ちゃんと挨拶しないと。今日からパートで働いて貰うことになった西さん。基本的には配達をお願いすることになるから、あんまり顔を合わせる機会は多くないかもしれないけど。それでも、忙しい時はお店を手伝って貰ったりもする予定だよ」
「は、はあ……じゃないや。はじめまして、原口です。よろしくお願いします」
はい、よろしくね。と、にこやかに笑っているのは、僕や店長よりも更に歳上かと思われる、恰幅の良いおばちゃんだった。
どこかこう、気を張らなくても大丈夫な感じがする。なんだろう……オカン力に溢れている。バブみとかママとかではなく、オカン。
ほら、アンタちゃんとご飯食べんと大きくならんよ。干し芋あるで食べときん。またそうやってピコピコばっかりやってまあ、目ぇが悪くなるに。みたいな、親戚のおばちゃんムーヴをかましてきそうだ。
「…………そっか、配達の。おお……この間話してたばっかりなとこだ。なんてタイムリーな」
「なあなあでどうしようかなーなんて言ってられる問題じゃなかったからね。西さんとは町内会で面識があってね、事情を話したら手伝って貰える運びになったんだ」
おおう、またしても店長の人脈だった。なんというお友達内閣(誤用)だろうか。それにしても……ううむ、それってつまりはまた花渕さんに無断で、ってことになるのかな? また拗ねそうだけど……
「そうそう、今日も花渕さん来るみたいだからね。流石にこのままだと何連勤になるか分かんないから振替でお休みにはしたけど、顔を出しに来るって。まだ君のこと心配してるみたいだよ」
「うぐぐ…………そんなに心配されると逆に凹む……っ。そこまでフラフラに見えたのか……」
だいぶね。と、呆れて笑う店長と、それからなんのこっちゃ分かってなさそうだけど、微笑ましそうに僕のことを見ている西さんから逃げるように、僕は着替えを済ませにバックヤードへと引っ込んだ。
悪い人ではないんだろう、店長が声をかけたくらいだし。しっかし……大丈夫かな、花渕さん。まあそう何にでも自分が自分がー、って噛み付くような子じゃないだろうけどさ。そういうんじゃなくてこう……あの子と西さんとの相性はどうなんだろう、って。
上手く合わせられる子だけど……ほら、初めはトゲトゲしてたからさ。実は人見知りで、慣れてない相手にはそういう態度しか取れない、みたいなことが無ければいいけど。
お昼も過ぎて、少しずつ営業に並行して片付け作業に取り掛かり始める。その日の板山ベーカリーはそう忙しくはならなかった。かといって売り上げがマズイって程でもない。僕の許容量が増えてある程度は楽にこなせるようになったから、というのもある。
そしてそれ以上に、店長と花渕さんがふたりして築いて来たお店のノウハウ……上手な回し方が機能しているのが大きい。物の配置や作業の効率化が効果を発揮しているのだ。
「…………おそるべし十六歳。はあ……何気ないトングの位置ひとつでも、頭使ってると違うんだなぁ。はあぁ……」
別に悔しいとか悲しいとかではなく、もうこれは感嘆のため息だ。勿論、だからって自分じゃこうはなれないって諦めるつもりも無いけど。
がんばるぞ! と、思う前に、すげえ……ってなってしまう。ちょっと落ち着いて働くと見えて来る細かな計算に感心していると、入口のベルが来店の合図を鳴らした。いらっしゃいませ。と、元気よく振り返ると、そこには噂の花渕女子が立っているではないか。な、なんてタイムリーな。
「おっす、アキトさん。大丈夫……そうだね。うん、安心した」
「あはは……ご心配おかけしてます。今週は皆勤賞だね…………ごめん」
謝るくらいなら変なボケしなくても良いのに。と、見透かされたように笑われてしまった。
うう……だって、僕の所為で一日多く働いてるもん。本当は今日働く予定だったのに、それもズラさせてしまって……何か予定があったらそれを台無しにしてしまった可能性だってある。
あれ、考え出したら申し訳なさがどんどん湧いてくるぞ? 今度ケーキ奢らせていただきますので…………
「っと、そうだ。今日から新しくパートさん入ったから会っておいた方がいいよね。店長、花渕さん来ましたよーっ。西さんって今そっちにいますかーっ」
別にいつでも会えるのに。と、どこか呆れた顔で突っ込む花渕さんだったが……ほら、さっき言ってたから。配達メインだからあんまり時間合わないかもってことだし、やっぱり挨拶は出来る時にしとかないとね。
キッチンから現れたふたりに軽く頭を下げる花渕さんに、西さんはなんだか驚いた表情で見つめていた。
「うぃっす店長。それと……はじめまして、花渕でーす」
「花渕……まあ、やっぱり! 美菜ちゃん! 美菜ちゃんよね! こんなに大きくなって! おばさんのこと覚えてない? 流石に覚えてないわよねえ、こんなに小さな頃だったもんねぇ。美人になったわねぇ」
おっと? 面識がある感じ? チラリと花渕さんの顔色を伺うと、疑問符を頭の上に浮かべて訝しげな顔をしているだけで、互いに知っているわけではなさそうだった。
しかし……ううむ、美菜ちゃん。名乗ったわけじゃない下の名前を知っていたのだから、やはり一方的にでも面識はあるのだろう。
この新たなる戦力西さんが、まさか板山ベーカリーに波乱をもたらすとは思いもよらなかった。こんなドキュメンタリーチックな引きもたまには良いよね?




