第三百九十七話
まだ空が白みがかった朝早くに僕らは出発した。こんなにも早くから出ないと辿り着けないのか…………じゃあ歩いていくのを諦めたら良いのでは? 馬車でもなんでも、一本道で目的地がすぐそこなんだから使ったら良いのに。なーんてことを考えたのは、朝靄が晴れる直前までだった。
「——っ! ぉお……うおおぉ……」
「あはは、良いリアクションだね。そう、これからここを渡るんだよ」
街を出て一時間ほど歩いた時点で、水の音が聞こえていた。流れの速い川だろうか、ざぁざぁと激しい音のように感じていた。そして……その理解しがたい光景を目の当たりにしたのは、更に数十分後のことだった。
「…………これ……いったい……」
さしものミラも、この光景は予期出来なかったようだ。いいや、見えていても理解出来ていなかったと言うべきだろう。僕らの前に現れたのはきっと“滝”だった。
きっと、なんて冠詞が付いているのにはきちんと理由がある。僕らの視界のど真ん中、目指すべき方角の地面が、およそ半径数十メートルに渡ってくり抜かれていたのだ。幅の広い川があって、そしてそれを地下世界へと飲み込むかのようにぽっかりと。
そして、向かう道のその先には、川を渡る為のものなのか、穴を飛び越える為のものなのかも分からないような、大きな大きな橋が架かっていた。
「こんなことって…………っ。ま、まさかまたマーリンさんが地形を変えたとかじゃないでしょうね⁉︎」
「あはは……僕ってそんなにめちゃくちゃな奴だと思われてるのか……ショックだよ……」
ああっ! 説明もしないうちから凹まないで! だってそう思うしかないじゃないか! 明らかにおかしい、自然に起きるってのかこんなのが!
もしも……もしもここが、実は海抜十うんメートルの高地だったとして、この川が山を下る途中で落っこちているのなら理解出来る。
でも……ここの高さは知らないけど、どう見たって海には続いてない! あ、いや……この深い穴を進むと海って可能性は…………? ええと……? あ、あり得る……の? こんな馬鹿みたいな大穴が……自然に…………?
「僕も詳しくは知らないんだけどさ、ここは昔からこうらしい。なんでも、地下空洞が崩落したとか。年々この大穴も広がってるらしくてね、実は結構工事やらなんやらでお金を食われる存在なんだよ。管理は国の負担だからね……」
「…………え? いやいや、そうじゃなくて! お金の話とかどうでもよく……ああもう空気読めないなあ! こんな……こう……いかにもパワースポットって感じの…………うぐぅ、うまく言い表せない……っ。超自然的というか……神秘的な光景で……」
どうどう、落ち着いて。と、つい興奮してしまった僕をなだめ、マーリンさんはちょっとだけ苦笑いしながらまたその大穴へと視線を戻す。
そうだ、ミラ。ミラはどうしてる。こんなもん見せられたらきっと喜ぶぞ! こんなの見たことない! すごい! アーヴィンにも欲しいっ! って! ミラ! どこだミラ! ミラ……ミラ?
「…………ミラ? お前そんなとこで何してんだ……?」
いかん、勝手にはしゃいで落ちたら大変だ。と、あたりをキョロキョロ見回すと、穴に背中を向けて、ぷるぷる震えながらしゃがみこんでいる小さな生き物を発見した。な、なんだ……? 何やってんだあいつ……?
「えーっと……おおい、ミラちゃん……? どうかしたのかな……?」
「…………い……」
い…………? い……いいぃ? なんだろう、凄いの“い“かな? ちょっとニュアンスが違いそうだ。ううむ、とんでもない。の“い”かな? うーむむ……それもちょっとだけ違うような……
「ミラ? ほら、見てみろって。凄いぞ、マイナスイオンとかドバドバだぞ。よく分かんないけ——」
「——ひぃゃあああああ——っ! 押さ——っ⁉︎ バカ! バカアギトっ! 押すんじゃない! 押す…………揺蕩う雷霆・改——ッ‼︎」
バチンッ‼︎ と、空気を切り裂いて、ミラは無理矢理向きを変えようとした僕の腕を弾き飛ばし、橋から反対方向へと跳び上がった。強化魔術を使ってまで何してるんだお前は⁉︎
「——他の道を行きましょう——ッ‼︎ 海は危ないです! 危険です! 近づいたらダメですっ! 他の…………この際馬車でもいいから他の道を行きましょう——ッ‼︎」
「おま…………はあ。泳げなかったな……そういえば……」
泳げるわよ! と、随分遠くから負け惜しみが聞こえた。そうか…………まあ、この深さだから、海だろうと海じゃなかろうと落ちたら……落ちたら…………ぼ、僕も怖くなってきた……っ。高所は……高いとこはダメだって言ったでしょうが! 病院の屋根なんて比じゃないくらい高い……っていうか深い。こんなとこに落ちたら………………ひぃいいいっ!
「あはは…………川なんだけどね、一応。大丈夫だよ、橋は鉄骨で組んでるし、警備もしっかりしてる。メンテナンス費用だって馬鹿みたいにかけてるし……」
「ああっ! なんでそんなフラグ立てるんですかこのお馬鹿マーリンさん! 絶対落ちるやつだ! なんらかの攻撃を食らって橋ごと落とされるやつじゃないですかそれは! ミラ! 戻るぞ! こんなとこにいたら危険だ!」
あんまりにも突然現れたのと、それから常識はずれだったからちょっと魅入ってしまっていた。違う違う、そうじゃないだろ! 僕はマーリンさんにこのチキンハートを買って貰ってるんだ! 発揮しなくてどうする、いまここで!
どう見たって事件が起きる、絶対に人が落ちる! しかもご丁寧に安全さを有識者(?)がしっかり説明してくれてるんだぞ‼︎ こんなもん絶対に落ちるに決まってる、絵の具の青は青いってくらい当然の帰結だ。
ミラの反応は正しい、むしろ僕が呑気過ぎたんだ。慌ててミラのところへと走っていって合流すると、ミラは真っ青な顔で僕の方を見て、ぶんぶんと頷いていた。急ごう、急いで道を戻ろう。こんなとこにいたら気がおかしくなる。だって…………だって穴の底全然見えないじゃないですかーっ! やだーーーっ!
「…………はあ。凍てつく足枷」
さあ逃げるぞ! と、ミラと一致団結して走り出そうとした瞬間、僕らの周囲にひやっとした空気が流れ込んできた。
そして、強化をかけているミラでも反応出来ないほどの…………いいや、反応しても無意味なほど高精度に、それは僕らの手足を封じ込めた。ち、ちべたいっ⁉︎
両手首、両肘、両膝、両足首をそれぞれ結束バンドで束ねるみたいに、逃げられないようにマーリンさんは僕らを拘束した。
ちょ、ちょっと待って⁉︎ こういうのって普通、手首足首だけじゃない⁉︎ 肘膝までガッチガチに…………ガチで身動きひとつ取れないんだけど⁉︎
「……ごめんね、ふたりとも。他の道ってなると…………ちょっと今日中には厳しいからさ。目を瞑っててくれればすぐだから」
「ちょっ……ちょちょちょちょっ⁈ 担がな…………持ち上げないで⁉︎ 持ち上げ…………おひゅ——」
ふしゃーっ! と、いつになく威嚇行動をとって抵抗するミラと、抵抗するすべを持ってない僕を軽々担ぎ上げて、マーリンさんは橋へと足を掛け…………ひんっ。
し、死んだ…………っ。僕らの冒険はここまでだ……もうおしまいだぁ! せ、せめて自分の足で……女の人の細腕に命運を委ねるなんて——っ!
や、やめて! 不安定な持ち方しないで! 穴が見える持ち方しないで! ぎゃああああっ⁉︎ 揺す——っ‼︎ 揺するんじゃあねぇええ——ッ‼︎ こんな時にイタズラとか要らないんだよぉ——ぉおお————ッ‼︎ やめ——っ……やめ………………ひぃん。
阿鼻叫喚といった僕とミラとを担いだ彼女は、他の通行人からはどう見えていたのだろう。地獄のような時間は体感的には無限にも感じられた。まあ……何百メートルもあるわけじゃないから、ものの数分だったんだろうけどさ。そうじゃなくって……
「…………ひぐっ…………ゆる…………ぐすっ……許さないからなぁ…………すんっ……」
「…………ごめんって……」
そりゃ駄々こねたのは僕らが悪いけどさぁ‼︎ だからって…………っ。だからって怖がってる人間を意地悪に揺すったりしたらいけないでしょうがよぉおっ! こわっ……怖かったんだぞ……っ。本気で……本気の本気で怖かったんだからね…………ぐす。
「……ミラちゃん…………は、放心してるね。意外な弱点があるもんだ……」
「ぐす…………マーリンさん、責任持って俺とミラを安全なところまでキチンと運んでください。別に腰は抜けてないですけど、責任があると思うんです。別に立てなくなったとかはないですけど」
ごめんね。と、どこか周囲の視線を気にしてかフードをいつもより深くかぶるマーリンさんに、僕らは改めて橋から遠い柔らかい草地まで運んで貰った。
うう……本気で怖かった、人目を気にして恥ずかしいとか言ってられないくらい怖かった。だって橋ギィギィ鳴ってんだもん! 怖いよ! 落ちたら死ぬんですよ⁉︎ なのにこの人は僕らのこと揺らしてからかうし! 絶対許さんからな! 絶対…………絶対…………ひぐっ。
僕らが旅を再開したのはそれから十数分後。冷静さを取り戻して、周囲の視線にいたたまれなくなってからのことだった。




