第三百九十四話
アラームの音に目を覚ました。なんてことの無い、いつも通りの朝。本当に当たり前の繰り返し……の筈だった。
「…………っ」
心臓がバクバクと脈を早くしている。どうやら、僕の中にそのトラウマは深く刻み込まれているらしい。
ただ眠るだけ、ただ起きるだけの日常的な繰り返しが怖い。切り替わらなかったらどうしようという不安は、いつしか勝手に切り替わっていたらどうしようという不安をも呼び込んでいた。
だが、抱いた恐怖も人と接すれば、ある程度緩和されるものだ。母さんと兄さんと食卓を囲むと、気付けば僕は寝起きの不快感なんてコロッと忘れて家を出ていた。
なんだろう、ちょっとだけ浮き足立っている感じがある。悪い意味ではない、良い意味で。ゴタゴタしててちょっとだけ久しぶりなんだ、お店で働くのが。
いや、実日数的には三日ぶりなんで、大したもんじゃないんだけどさ。体感時間的にはとっても久々と言うか……ね。だから…………ちょっとだけワクワクしていた。というのも……
「おはようございまーす。おお……昨日来たから知ってたけど…………感慨深いものが……」
「おはよう原口くん。なんだか嬉しそうだね」
嬉しいですとも! いつもならコロッケパンに占領されている、お店の中でも比較的目立つ棚に、これでもかと並べられた見慣れないパン。
そう、今回のイベント用に作られた期間限定の新商品。秋の味覚、かぼちゃとさつまいもの蒸しパンがそこには顔を連ねていた。まあ……売り始めたのは日曜日なんだけどね。雨で全然お客さん来なかったから……
「いやあ……へへ。遂に来たって感じで……そうだ、売れ行きはどうでした? その……日曜日は…………あの……」
「あはは……そうだねぇ、日曜日は残念だった。でも、中々良い反応を貰ってるよ。いつもよりお子さん連れが良く来てくれるし、やっぱりイベントの効果はありそうだ」
よしよし、そりゃ良いこと聞いたぞ。となれば…………今日来ると言っていた花渕さんも、そう不機嫌ではないだろう。ふふ……あんまりどやされずに済みそうだ。え? 考えることがセコい? う、うるさいな! 尊敬も感謝もあるけどやっぱり怒られるのは嫌なんだよう! それも一回り以上歳下の…………別にそこは良いや。
年齢が云々ではなく、単純に呆れられるのがとても堪える。仲良くなってきたからこそ、良い目で見られたいのだ。
着替えてタイムカードも切って、さあ働くぞ! いつでもかかってこい! と、気合を入れてすぐだった。いつもよりもちょっとだけ遅れて花渕さんがやって来たのは。
いえ、別に遅刻とかではないです。本来なら出勤日じゃない都合、ちょっとだけ入りの時間が遅いのだ。人件費も無限じゃないからね。
「っ。お、おはようアキトさん……大丈夫……なんだよね……?」
「お、おはよう花渕さん。大丈夫……だよ?」
うっかりときめき死するところだった。僕の顔を見るや否や心配そうな目で、か細い声でそんなことを尋ねる甲斐甲斐しさ…………とても見覚えがある。ふふ……やっぱり似てるなぁ、アイツと。一度会わせてみたいものだ。仲良しになれるかなぁ。
「……絶対無理しないでよ? しんどかったらすぐに言うこと、分かった?」
「あはは……風邪ひいた子供みたいな扱い……大丈夫だよ、ありがとう」
絶対だからね。と念押しして、花渕さんはバックヤードへと消えて行った。そんな様子を見て、店長はなにやらほほえましそうに笑っているではないか。やいやい、見せもんじゃないぞ。
「…………笑いごとじゃないですよ。はあ……どんだけ僕は頼りないんだ……」
「逆だと思うよ、僕は。頼りにしてる、大事に思ってるからこそ気が気じゃないんだろう。僕はあの子が気にしてる君の姿を直接見たわけじゃないからさ。話に聞いて、良くないことがあったんだろうと想像することしか出来ないけど」
良くないこと……か。そうだ、あれはあまりにも良くない出来事だった。何が一番問題かと言えば、両方の生活を一気に脅かす点だろう。
もしもこっちに切り替わらなくなったら……その時僕はどうするだろう。どうしたら良いのだろう。
アイツを……ふたりをどう説得して足止めをする。そして、何に怯えているのだという問いにどう答える。
こっちのこと、僕の正体について打ち明けることは避ける。そう決めた以上選択肢はそう多くない。
きっとどうしようもなくなって、上の空で旅を続けてしまうだろう。そんな危険な状態をあのふたりが心配しないわけもないし……
「…………良くないこと……だよなぁ」
もうあんな出来事は起きない。そう思いたいが……果たしてどうなるか。大体、切り替わるメカニズムも分かってないんだ。何をどうすれば対策出来るかなんて分かりっこない。
しかし、不安も恐怖も忙しさの前には無力。集中してさえいれば怖いものなんて何も無い。それは、奇しくもかつて至った逃げの極致と同じ答えだった。
あの時はゲームに、今はアルバイトに。とにかく、自分に降りかかっている厄介ごとを忘れてしまえる、そんな時間が堪らなくありがたかった。
「ありがとうございましたーっ。ふひぃ、疲れた。でも……本当にいいペースで売れてますね。これなら……」
「うん、これならお店も軌道に乗ってくれるだろう。今回は本当に花渕さんのお手柄だね。僕じゃこれは思いつかなかった。始めるタイミングもバッチリだったしね」
花渕さんは店長の言葉に少しだけ気を良くしたのか、誇らしげに胸を張って、任せてよ。と、鼻を鳴らした。しかし……それでもその表情はどこか浮かないものだった。
僕には十分忙しかったけど、彼女には没頭出来る程の忙しさではないんだろう。僕と違って、抱えている不安から逃げることも出来ず、仕事と並行して戦っているんだ。それは……なんとかしてあげたいものだけど……
「花渕さん、先にお昼休み入っちゃって。原口くんももう大丈夫そうだし、今日はありがとう。早めに上がって貰うことになりそうなのは心苦しいけど」
「いえ……っ。わっ……ああう……」
色々とワタワタした後、彼女は出来るだけいつも通りにハイハイと返事をして、昼食を食べにキッチンへと向かった。ふふ……余裕無さ過ぎて、いつものキャラを演じることすら覚束ないじゃないか。可愛いなぁ…………これが僕の所為じゃなければ、そんな呑気なこと思ってられたのに。はあ……
「……僕がしっかりするのが一番手っ取り早いよな。よし、頑張るぞ」
その意気だよ。と、店長に背中を叩かれ、僕は入れ直したやる気と元気で午後もバリバリ働いた。
しかし……たしかにお店は繁盛してるだろう。でも、今日は花渕さんがいてコレだったんだ。もしも…………もしもこのまま人気が出て、更にお客さんが増えたとしたら…………っ。も、もっと頑張らなければ…………
話通り花渕さんが先に上がり、そしてその二時間後に僕もタイムカードを押した。ふふふ……ものごっつ疲れた……っ。張り切ったからってのもあるけど、やっぱり新しい仕事が増えると、気を回すことが増えて手が追いつかなくなるね。いや……花渕さんは絶不調なのに余裕でこなしてたけど。
うう……うちのエースの足を引っ張った挙句、自分はそのフラフラな彼女よりも役に立たない…………お荷物じゃないかぁ……
「お疲れ、アキトさん。その……色々話しちゃったからさ。私は報告も兼ねて行ってくるけど……」
「お疲れ様…………はひぃ。うん、僕も行く。一応メールはしたけど、心配して貰った以上は直接お礼も言っときたいからね」
行ってくる。とは、勿論魔女の田んぼことデンデン氏のところへ、だ。うう……僕の件が無ければ、ただの微笑ましい光景だったってのに……っ。
いかんな、今日はこの子に対しての申し訳なさばかりで……切り替え切り替え。しっかり元気になったと証明すれば、きっとすぐに立ち直ってくれる。その為にも、さっさと本調子を取り戻すべきだ。
そういう意味では、デンデン氏はうってつけの相手と言える。オタクってのはな…………好きな話で同士と盛り上がってる時が一番キラキラ輝いてるんだ…………っ! はい? ギトギトテカってるだけ…………? や、やめろよ…………人が気にしてることを…………っ。
これもまたちょっとだけ久しぶりの道を歩いて、僕らは甘い香りを漂わせる、氏の城でもあるお店へとやって来た。閉店間際だと言うのにまだお客さんがひと組だけいて、その間はこう……とてもそわそわしながら、入り口付近で待機することにした。
だって……僕らが入ってスイッチ切れたら困るもん……。あんなダメ人間みたいなところ、他のお客さんに見られるわけにはいかないし……
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。さて…………何してるんですかな、ふたりとも」
「いや……その口調が出たら困るもんだから……」
流石にお客さんいる前ではやらかさないですぞ。なんて溜息をつかれてしまった。でも……花渕さんと一緒に初めて来た時、思いっきり出したよね……? っていうか、そのまますっかり定着させちゃったよね……? 全然信用ならない……お客さんいる時は絶対に入らないようにしよう…………
「……それで、大丈夫そうですかな。まったく、美菜ちゃんがどれだけ心配してたと思ってるでござるか。美少女を泣かせるのは罪ですぞ罪、ギルティ。今日は麦茶でござる、アギト氏だけ。お徳用パック麦茶で我慢するでござる」
「あっ、一応出してはくれるのね……ありがとう。でも……うん、それは僕も痛いほど身に染みてるよ」
別に心配とかしてないし。と、弱々しく抵抗する花渕さんの姿に、抱き締めて頬擦りして撫で回してそのまま眠ってしまいたいほど胸を打たれてしまった。
ああ…………っ。やっぱり似てる、うちの可愛い妹とよーく似ている。でも……たったひとつだけ違う点があるとすれば…………っ。アイツみたいに抱き締めようものなら…………捕まる…………っ! 違法…………この可愛い女の子は…………違法なんだ………………ッ‼︎
僕はあまりにも日常化し過ぎて堪えるのが大変な衝動をなんとか押さえ込み、無事前科持ちになること無く家路へと向かった。だ、誰がロリコンじゃい! 僕はあくまでも歳下の歳上おねえたまがだな——ッ!




