第三百八十七話
ダメだ、これ以上は耐えられない。上がりきった心拍に息が詰まる。
時間は朝の五時少し前だった。何度もトイレと部屋とを往復しているうちに体力を消耗して、遂にはトイレに篭りっきりになってしまった。ダメだ……ダメだダメだ! いくらなんでもこんなの…………こんな……
「……こんな終わり方があってたまるかよ…………っ。どうして戻れない……っ! どうして切り替わらないんだ…………っ! 僕は……アギトは本当にもう…………っ」
昨日とは違う理由で不安と恐怖が津波のように襲い来る。このままじゃミラは…………あんなやり方にしか答えを見出せないくらい弱っている今のミラは、あの夢のように本当に壊れてしまう。
なんとしても戻らないと……っ。でも……でも、どうやって……? どうやれば戻れる、切り替わる。どうしたらまたアイツの元へ…………っ。
「——っぷ——おえぇっ…………ぐっ…………ううぅ……」
切り替わりの条件は結局分かってない。ただ、二日以上経過した状態での睡眠がトリガーになっているのだろうと、今までの経験からここだけは確定なのだろうと思っていた。
じゃあその歯車が狂った理由はなんだ、それとも別の条件があったのか? 昨日僕を追い詰めた問題もまだ何ひとつ解決していない。そして、それが解決しないと、今襲ってきている問題を相手することすら…………
「…………げほっ……とにかく…………眠るしかない……」
何があっても、切り替わるのは睡眠時だった。気絶や……そう、死亡でもきっと構わないのかもしれない。とにかく意識が途切れることが条件なんだろう。となれば今はとにかく眠るしか…………
「…………ごめんなさい、店長。ごめん、兄さん」
フラフラになった体を引きずって部屋に戻る。そして僕はスマホから充電ケーブルを引き抜いて、板山ベーカリーへと電話を掛ける。仮病でもなんでも使って今日は休もう。休んで、とにかくこの問題を解決するために全力を…………
『——お電話ありがとうございます。板山ベーカリーです』
「……っ。お疲れ様です、原口です。その……すみません、体調を崩してしまって……」
今、僕はどんな顔をしているのだろう。そして、電話越しの店長はいったいどんな顔でこの嘘を聞いているのだろう。
すごくつらそうだ。分かった、今日はとにかく安静にして。しっかり治して明後日またよろしくね。と、そんな店長の優しい言葉に涙が出そうになる。
僕は今、ひどく身勝手な理由で……それも、この世界とすら関係の無い理由で、大切な人達を裏切ろうとしているんじゃないだろうか。
「…………でも…………それでも…………っ」
スマホを枕元から遠ざけて布団に潜り込む。どうなってもいい、この際僕なんてどうなってもいいんだ。これでみんなの信頼を一気に失ったって構わない。兄さんに……みんなに見捨てられて、もう二度と社会に戻れなくなったっていい。
今はただ、たったひとりで苦しんでいる妹の所へ…………っ。ミラの所へ行かなければ。行かなければならないのに…………っ。
「………………眠れ……変われ…………っ。早く…………早く切り替わってくれ…………っ」
ガチガチと歯が音を鳴らす。恐怖心に身体の芯から凍り付きそうな程の寒気を感じた。布団にくるまってむしろ汗だくになっていてもおかしくないくらい暑い筈なのに、流れる汗は背中の冷や汗だけだった。
このままではとても寝付けない。玄関の扉が開いて閉じる音を二度聞いて、それでもまだ寝付けずに布団とトイレを行き来する。時間は午前八時半、もうかれこれ二時間以上こんな事ことばかりしていた。
「…………っ。なんで…………なんでだよ………………」
どうしても眠れない。いいや、眠る眠らない以前に布団の中で目を瞑れない。目を瞑る度にアイツの……あの夢の中に出てきた邪悪な笑顔が浮かんできてしまう。
違う、あんなものミラじゃない。ミラの笑顔はいつだって僕に安らぎをくれた。暖かくて明るい、それこそ太陽のような存在だった。それがあんな…………あんな顔になるわけが…………っ。
このままでは無理だ、眠れっこない。流石にそれくらいは悟って、僕は急いで着替えて家を出た。向かう先はお店じゃない、少し離れたドラッグストアだ。
何かあるだろう、睡眠薬とかそういうのが。なんだっていい、この際何をしたって構わない。とにかく眠って、向こうの世界へ行かないと。
「……開店九時……っ? くそ……三十分…………スマホくらい持ってくれば良かった……」
着替えだけ済ませて走ってきた僕のポケットの中には、所持金全部突っ込んだ財布しか入ってなかった。
息が上がっていて苦しい。ただでさえ息がしづらいってのに、酸欠気味な体が痺れて立っていられない。入り口付近で壁にもたれかかって、たった三十分の地獄のような時間を震えながら待った。
長い長い、それこそ丸一日そうしていたんじゃないかってくらい気の遠くなる時間を耐えて、僕は開店と同時に睡眠薬を探した。睡眠導入剤、というのは売っていたが、それが本当に眠れるものなのかは知らなかった。ただ、飲んですぐに眠れる睡眠薬なんてものが売ってていいのかも分からないから。
僕は急いでそれをレジへ運んで、そしてまた走って家へと戻る。朝から吐きっぱなし、そしてこんなに走って疲れたんだ。眠気のひとつくらい来てくれてもいいのに、むしろ上がった心拍に興奮状態が収まらなくて、とても寝付けそうに無かった。
「一回何錠…………なんでもいいよもう! 五個くらい飲めばすぐ眠るだろ!」
急いで蓋を開けて錠剤を水道水で流し込む。そしてそのまま部屋へと戻って、急いで布団を被った。目を瞑るとやっぱりあの笑顔が浮かんで来た。
「——消えろ——ッ! お前なんて知らない……ミラはそんなに弱虫じゃない——ッ! バカにするな! アイツは…………ミラは……っ! ミラは勇気あるヒーローなんだ——ッ!」
バシンバシンと両手で頰を叩き、何度も現れるその幻想を振り払う。大丈夫、ミラは大丈夫。絶対にあんなことにはならない、絶対に心を折られて挫けたりしない。それを証明する為に、僕は急いで戻らないといけないんだ。だから……
「…………眠れ……眠れ……っ。さっさと切り替われよ…………っ!」
もうまぶたの裏には真っ暗な世界しか映らなかった。変われ。変われ。眠って、変われ。そんな念が祈りなのか、それとも懇願なのかはもう分からない。
必死に目を瞑って、それでも抜けて行かない手足の感覚に憤りさえ覚えた。それでも…………その瞬間が訪れた時にはすぐに分かった。
僕の頰に何か熱いものが触れた。声が聞こえた。女の子の声。元気が湧いてくる暖かな声だ。明るくて通りの良い……でもそうだ。うん、やはり彼女には似合わない、とても不安そうな声色で——
「————アギト…………っ。アギト…………アギトぉ…………ッ」
「…………ミ……ラ……」
瞼を開けるまでもない。目の前にはミラがいる。眠ったまま動かなかった僕の体に跨って、わんわん泣きわめくミラがそこにはいるのだ。
ゆっくりと目を開いて、その顔がぐしゃぐしゃになっているのを知った時には抱き着かれていた。今まで味わった中でも最も強い力で、ミラは両腕で僕を思い切り抱き締めてまた大声をあげて泣き出した。そう、両腕で……
「——ッ! ミラ…………っ」
「わぁああん! アギト……アギトぉっ! もう……起きてこないかと思った…………死んじゃったかと…………ッ。うわぁぁああんっ!」
両腕の感触に僕の涙腺も緩む。良かった、全部やっぱり夢だったんだ。安心と心配と、それ以上に目の前で泣いている少女への愛情から、気付くと僕はミラを思い切り抱き締め返していた。
小さくて弱々しい体だった。それを潰してしまわぬように、それでももう二度と離さない為に。ミラが抱き締めるよりも強く、ミラが向けてくれる愛情よりも深く。僕はただ、全霊の力で少女の心と体を受け止める。
「まったく、寝坊癖もここまでくると病気だよ。おはようアギト、気分はいかが?」
「……マーリンさん……」
声のする方へと目を向ければ、椅子に腰掛けて優しげに微笑むマーリンさんの姿があった。見れば、そこら中に魔術陣や用途不明の器具が転がっている。
もしかしなくても、僕を起こす為に……いいや、僕に起きている何かの異常を調べる為に手を尽くしてくれたのだろうか。
「魔術的にも医学的にも君はただ眠っているだけだったんだけどね。それにしたってあまりにも起きてこないもんだからさ、ご覧の通りさ。この世の終わりかというほど取り乱すミラちゃんに、正直僕も本当に君が死んじゃったんじゃないかって気が気じゃなくなってしまったよ」
「…………すみません、ご迷惑おかけしました」
謝る相手が違うだろう。と、マーリンさんはまだ泣き止まないミラに視線を送り、そしてすくっと立ち上がって部屋のドアに手をかけた。
「……アギト、ちょっと話があるからさ。ミラちゃんが落ち着いたらで良い、僕の部屋まで来てくれ。すぐ向かいの部屋を借り直してるから」
「……はい」
そう言ってマーリンさんは部屋を出て行った。
ぐすぐすと嗚咽を漏らしながら、体を震わせながら僕の名前を呼び続けるミラに、僕もその度に返事をする。大丈夫。ここにいる。ここにいるよ。だから…………
この生活はいったいいつまで続くのだろう。いつまで続けられるのだろうか。そんな漠然とした不安が、また僕の心の中に入り込んで来た。




