第三百八十六話
ゆっくりと瞼を開く。体が少しだけ軽い気がした。目の前の景色は秋人の部屋じゃない。
ああ、切り替わってくれた。切り替わってくれたんだ。よかった、眠れたんだ。眠れて、きちんと切り替わって。これで……これでまた僕は…………
「——っ! アギトっ! よかった、目を覚ましたんだねっ!」
「…………マーリンさん……?」
体を起こすと、そこには涙を浮かべたマーリさんの姿があった。なんだ、泣くほど心配してくれたのか。なーんだ…………ちぇっ。でも、その心配って弟的な意味での心配でしょう……? はあ……男として見てくれればなあ、これで。
がっくりと肩を落とす僕に駆け寄ってきたマーリンさんの表情が酷く焦っているものだと気付いたのは、そんな彼女が僕の肩を掴んで体を揺すってきたときのことだった。
「早く支度して! 早く……ミラちゃんはもう先に行ってしまったよ! 早くしないと追いつけなくなる!」
「……ミラが…………? 先に…………っ⁈ なんでっ⁉︎」
良いから支度しろ! と、マーリンさんは僕の体を引っ張り起こして無理矢理服を剥いだ。いやんえっち! あ、そういうのは今はお望みではない。成る程成る程……寂しいこと言うなよぅ。
急かされるままに鎧を着てまた服を着直す。あれ? 一応鎧だけは脱いで寝たんだ、僕。っていうか今何時……? この様子だとやっぱり僕寝坊した感じだよね……
「先に行ったって……その、クエストにですか? 俺のことなんてほっといてマーリンさんも付いて行ってあげれば…………そんなわけにはいかないですよね……はあ。すいません、頼りなくて」
「いいから! 着替え終わったなら急いで! 僕が先行する、走って付いて来るんだよ!」
そう言ってマーリンさんは部屋を飛び出して行った。うむむ……相当焦ってるなぁ。うぐ……悪気は無かったんだけど、かなりやばいタイミングで寝坊したんだなぁ、僕。というよりも…………うん。正直ちょっとだけ納得だ。
ミラはもう僕を危険地帯へと連れて行きたくないだろう。あんな真似された後だ、当然そう考える。だったら……眠りこけていたのはとても都合が良かったんだろう。はあ……
「…………このバカアギト。ちゃんと謝って色々しっかり決めごとをしないとな。もちろん僕の方も」
バシンと両手で頰を打つ。ナイフよし、結界陣入りのホルスターよし。他の荷物は…………別にこれといって持ってないから関係無し! なんでほぼ手ぶらなんだお前は……
「っと、いけない。待ってくださいマーリンさん! 今行きます…………マーリンさん…………?」
部屋を出ると、そこには乾いた地面が広がっていた。嘘……だろ……? もしかして地形ごと変えてしまうほどの魔獣が…………っ⁉︎ マーリンさんが焦る理由をやっと理解した気がした。今僕達はとんでもない異常に巻き込まれているってのか……?
「っ! マーリンさん! どこですか…………マーリンさーん! 嘘だろ……もう見えないほど遠くへ行っちゃったのか……?」
目を細めて遠くを睨んでも、周囲を見回しても、彼女の姿が見当たらない。
嘘……置いてかれた…………? ちょっと⁉︎ 嘘でしょ⁉︎ 僕のこと置いてかないでよ‼︎ なんて呑気な考えじゃいられない。僕のことを置き去りにしてしまうほどやばい状況なんだ。それ程までにミラに危険が迫っているのだ。
「…………っ。走って追い付けるかは知らないけど……足跡はあるからなんとかなるよな……」
目の前にぽつぽつと続く、マーリンさんのものと思しき足跡を見つけた。いや、歩幅広いなオイ。自分で歩幅は小さくって言ったくせに。それもこんなに硬くて滑りやすい砂地で…………?
「…………あれ…………この地面……どっかで…………?」
しばらく走るとようやく人影が見えた。岩にもたれかかって休んでいるみたいだった。
僕がいないことに気付いて待っててくれたんだろうか、それとも疲れただけ? うーん、この程度で疲れるとは思えないから…………さては焦って転んで足を捻ったな?
まったく、意外とドジっ子属性ありそうだもんな。でへ……そしたらしょうがない…………うへへ……おんぶして行ってあげようじゃないか。
これはしょうがないことだから、下心とか無いよ? でへ、背中におっきくてやわらかいモチモチがふにふにするかなぁ……なんて考えは一切…………
「——オックス……? オックスっ! おい! どうしたんだよ! なんでお前がここに…………っ!」
「……が…………っ。アギト……さん……」
そこにいたのは、ぐったりした様子で目を瞑っていたオックスだった。怪我をしてるのか……? 手で押さえている脇腹からは血が滲んで…………っ!
「……急い……で…………っ。急いでください……ミラさんが……っ! このままじゃミラさんが……っ」
「ミラが……? おい! オックス! くそ…………水は置いてくから、すぐにアイツ連れて戻るから待ってろ! 絶対無茶するなよ!」
オックスは足跡の方を指差してミラの名前を出した。このままじゃ……って……どういうことだよ……っ。
カバンの中から水筒を引っ張り出して、投げるようにそれをオックスの手元に置いて僕はまた走り出す。いったいミラに何が起きようとしてるってんだ。いったい何がどうなって…………っ。
「…………ここは…………」
しばらく走ると、今度はゴツゴツした岩場に出た。また……またしゃがみこんでいる人影が見える。ミラ……? マーリンさん……? 急いで近付くと、そこに現れたのはエルゥさんの姿だった。
「……今度はエルゥさんまで……っ。大丈夫ですか? エルゥさん!」
「……アギトさん…………っ。ごめんなさい…………私が……私が止めないといけなかったのに…………っ」
止める……? それはミラを……ってこと……? エルゥさんは涙を流しながら、オックスと同じように靴底の形をした泥の点々を指差した。泥は岩の間を抜けながらどんどん上へと登っているようだった。
「…………ミラがこの先に……? エルゥさん、すぐ戻ります! 魔獣がいるかもしれない、隠れててください!」
この岩場……どこかで…………? いや、今はそんなのどうでもいい。ゴツゴツして歩きにくい足場をひょいひょいと走り抜ける。
教わっておいて良かった、走り方。まるで自分の体じゃないみたいに軽々進む足に、頼もしさすら感じる。岩場を抜け、そして——
「————どうなってんだよ……これ…………っ」
そこはアーヴィンだった。間違いない、ここはアーヴィンだ。アーヴィンの……俺達の…………っ。市役所があった筈の場所だった。
また……また誰かが倒れている。ひとりじゃない、ふたりでもない。大勢が横たわって僕を見上げていた。
「…………ゲンさん……ユーリさん…………っ。ロイドさんに……えっと、クリフィアの……ポーラちゃん。それに…………マグルさん……エンエズさん……っ」
これはどういうことだ……? 今僕は何を見ている……? いったい僕の身に何が起きている……?
皆一様に口を揃えて、ミラの名前を呼んで一方向を指し示していた。ミラが…………みんなが指差す先に……ミラがいるのか……? ドクンと心臓が迅る。何が……何を…………っ。みんな僕に何を見せようっていうんだ…………
「…………魔術翁…………ダリアさん…………っ! マーリンさんっ! 良かった、追いついた……っ。いったいここは……どうなってるんですか⁈ なんで……なんでまた俺達はアーヴィンに——っ⁉︎」
少年魔術翁の横を通り過ぎ、神殿の守人の視線を受け。僕は遠くで佇んでいたローブ姿の巫女の側に駆け寄った。そして…………いいや、しかしと言うべきだろうか。
「……ミラちゃんが…………アギト……急いで……」
「…………どうしたっていうんだよ…………何が…………っ」
彼女もまた、指を差してミラの名前を口にするだけだった。何が起きている。アイツの身に何が起きてるっていうんだよ……っ!
言霊は聞こえなかったが、ばちばちっという音が聞こえた。僕の体に強化をかけてくれたのか。これなら……そうだ、すぐに追いつける。足跡はまだ先に続いて………………?
「……血…………?」
足跡が赤黒く変色していくのが分かった。違う、これまでのものとは違う。これは血だ、踏みつけた血を後に残しながらアイツは進んでいるのか。だが……いったいなんの……?
そんなのは追い付けば関係無い、走れ。頭で命令を下すよりも先に体は動いていた。走って走って、走ったその先は…………やはり、神殿だった。
「————なんだよ——これ——」
目の前に広がっていたのは、魔獣の死骸の山だった。どれもこれも全て完全に死亡しているのがはっきりと見て取れる。それ程にまでぐちゃぐちゃになっていた。
吐き気は不思議と湧いてこなかった。一歩……また一歩と打ち捨てられた血肉の中を進む。遠くに動く物が見えた。けれど……それがなんなのかすぐに理解して、ぎゅうと胸が締め付けられる。
「……魔竜……まだいたのかよ…………っ!」
気付けば走り出していた。そこにはきっとアイツがいる。ミラが戦っている。遠くで揺れているその影が魔竜のものだなんてのはすぐに分かった。けど…………それが何を意味するかを僕は理解出来ていなかったのかもしれない。
「——ミラ————っ!」
遠い、あまりにも遠い道のりだった。丘のようにせり上がった坂を越え、僕の視界に入ってきたのは、魔竜の返り血を浴びて真っ赤に染まったミラの姿だった。
さっきまで動いていたの魔竜らしき生き物は、とっくに腹を突き貫かれて絶命していた。
「…………あ。アギトだ」
「……ミラ…………良かった……無事で…………っ‼︎」
ミラは無邪気に笑って僕の方を振り返った。あどけない子供のような表情に一瞬だけ心が緩む。そして…………その緩みを咎めるように絶望感が押し寄せてきた。
ミラは片方の袖をはためかせながらこちらへと駆け寄ってきた。
「…………ミラ……お前……その腕…………」
「腕……? ああ、うん。食べられちゃった。傷は治るのに食い千切られたらもうダメみたい。やっぱり再生じゃなくて治癒なのね、勇者様の力は」
べっとりと血に塗られた顔で、ミラはあまりにも綺麗な笑みを浮かべていた。
なんの汚れも知らない無垢な子供のように笑って、ミラは肘から先を失った腕をこれ見よがしに振ってみせる。
何を言っている……? これは……こんなのが本当にあのミラなのか…………? 戸惑う僕なんてお構い無しに、少女はまたニッコリと笑って——
「——もう千切れないように戦うね。えへへ、大好きだよ。アギト——」
「————っはぁ——ッ‼︎ はあっ——はあっ——夢…………っ?」
飛び上がるとそこは秋人の部屋だった。夢……だったらしい。心臓がバグンバグンと喧しい。今にも潰れてしまいそうなほど痛い。僕はいったい何を見て——見せられて——
「——うぷっ——おえぇぇっ! うげっ…………おえっ…………」
耐えられず僕は胃液を吐き出した。サラサラとしたやや黄緑がかった液体が布団に染みを作る。
僕は何を見た。あれは……あんな邪悪な笑顔がミラの…………ッ! 違う……違わない……違う! あれは夢だ……あんなのはただの夢で…………
「——違う…………今、何日目だ……っ! 四日目か……一日目か…………っ! あんな景色が本当なわけない……でも……だとしたら僕は…………っ」
切り替わらなかった。眠っても切り替わってくれなかった。もしも切り替わって、あの景色が真実だとしたなら…………っ。
足を引きずりながら僕はまたトイレに向かった。吐き出すものも無いのに、僕はいったい何をしてるのだろうか。