第三百八十五話
ふたりが家を出て数十分が経った。僕は……何も出来ずにただ布団の中で目を瞑っていた。
なんてこと無いただの休日なんだ、今日は。別に何も無い、本当に何もありっこないんだ。
そうだよ、切り替わりが必ず二日に一回だなんて誰が言った。僕が勝手にそう思っていただけ……これまでたまたまそうなっていただけかもしれない。
事実、向こうで徹夜して三日目を迎えたこともある。その時は…………
「……そうだ、別になんてことは無いんだ。こうしてこっちに一日長く居たくらいなら、半日寝坊するくらいで済む筈だから…………だから…………っ」
背筋が凍る。どうして……どうして切り替わらない……? 願っても願わなくても今まで当たり前に起きていたことがどうして起きない。
いったい何があったんだ。思い当たる節がたったひとつ……たったひとつなのに、最悪のイメージが浮かんでくる。
「…………死んだ……のか……? ゴートマンに襲われて……あの後…………アギトは…………っ」
僕のことを守ってくれていたミラはいない。僕はたった一人で無防備に眠ったのだ。後を尾けられていて、部屋を割り出されて。窓を割って侵入されたら…………っ。
そうだ、僕はこっちで眠らない限り、向こうでは起きられないんじゃないのか……? だったら…………っ。眠っているアギトは……そのまま………………っ!
「——違う——っ! そんなわけないだろ……っ。別の部屋とはいえミラがいる、マーリンさんだっている。ミラも……マーリンさんも…………」
ふたりに僕のことを気にかけている余裕はあったか? ミラはかなり精神的に参っているように見えた。そもそもあんな危険な行為をするに至った時点で、アイツは相当追い詰められていた筈だ。気付けない可能性だって多いにありえるだろう。
じゃあマーリンさんは……? もっとダメだ。あの人はただでさえやることが多くて、僕らにばかり気を割いていられない。それに…………あの人も相当切羽詰まっている感じだった。そこへあんないざこざをまた持ち込んで…………っ。
「…………ふたりとも…………そんな余裕無かったんじゃないのか……? 自分のことで手一杯で……僕を守る余裕なんて…………」
違う。違う違う、違う——っ! そんなわけない、そんなわけが…………っ。
そうだ、この切り替わりのメカニズムにはまだ未確定な部分が多い。二日目の睡眠後に切り替わるのではなく、切り替わるタイミングが…………要は、向こうで目が醒めるタイミングが、こっちでの二日目の夜ってだけなのかもしれないんだ。
疲れ切ってたし、ここのところ寝不足気味だったアギトの体が、睡眠を欲しているだけかもしれない。だから、ちょっと長く眠ってて、その所為で切り替わらないだけ……だって……
「……そうだ……そうだよ。いくら慣れてきてても精神的に相当疲れてたんだ、自覚も無いうちに。それに……あの男と面と向かって余計に神経をすり減らした。大怪我もして、治療して貰ったとはいえ体力も相当減っていた。だから……そう、だからまだ起きてないだけで——」
せり上がってきた吐き気に、僕は慌ててトイレに駆け込んだ。嘘だ…………嘘だ嘘だ嘘だ——ッ! 死んじゃいない、アギトは……僕は死んでなんかいない——っ!
でももし……マーリンさんでも見えない程小さな傷があって、そこから毒を流し込まれてて。って、そんな時限式の攻撃があったのかもしれない。それとも……単にもう助からない程の手傷を負っていたのかも——ッ。
違う、違うんだ! そんなわけない、そんな簡単に人が死ぬわけ…………っ。
「——っ! うぅ——おえぇっ…………はあ…………はあ……うぷっ——」
ミラは一度死んだ。ただ、勇者の力を持っていたからというだけで生きながらえた。
でも僕にはそんなものない。アイツよりも弱っちい僕があの男の前に立ちはだかった時点で、こうなるのは明らかだっ————
「——違う——ッ‼︎ 死んでない…………僕は死んでない…………っ!」
ガタガタと体が震える。時間の進みがあまりにも遅い。どうして、何が起きている。吐き出すものも無くなるほど吐いて、そうしてまた布団に戻ってもまだ震えはおさまらない。
違う違うと何度唱えても頭の中にはアギトの死という最悪の可能性が浮上して——
「——そうしたら……アイツはどうなる……? 僕が死んだら……ミラは…………勇者は…………っ!」
アイツはこれからどうなってしまう。ミラはまだ心が弱っている。僕にあれだけ激憤していたのも、全部僕を大切に思ってくれてのことな筈だ。だったら…………? 僕の死を目の当たりにしたら…………ミラは…………?
「…………違う……死んでない…………死んでたまるかよ…………っ。約束なんだ……ふたりに約束があるんだよ…………」
ずっと帰りを待っているって。側で支えて助けるって。約束してるんだよ、ミラともマーリンさんとも。死んだなんて……そんなわけない、そんなのが許されるわけがない!
ふたりで勇者になるって…………っ。勇者になって……世界を救って…………アーヴィンで…………っ。
「…………っ。眠れ…………眠れ…………っ! お願いだ、早く切り替われ……っ! こんな理不尽な不安なんてさっさと吹き飛ばしてくれ……こんなの………………こんなの何でもないことだったって…………はやく…………っ!」
時間は一向に過ぎない。なんて滑稽なんだろう、これでは二ヶ月前と何も変わらない。こちらの生活から逃げたくて、ただ眠りと切り替わりを求めていたあの時と——
違う、そうじゃない。今は…………今は切り替わらないといけない事情があって…………っ!
「——うぷっ…………っ⁉︎ 〜〜〜っ! ぐ…………っ」
横になっているだけで苦しい。胃液が何度も逆流してきて息が詰まりかける。その度にトイレに駆け込んで、吐き出して。まだお昼にもならない時計を睨みつけては布団に潜る。
早く眠れ、切り替われ。呪詛のようにそればかり繰り返して、頭の中では自身の死を振り払っていた。
眠れぬまま……恐怖のひとかけも解消出来ぬまま昼を迎えた。時間の進みが遅過ぎる。これもまた滑稽なもので、かつて同じことを何度思っただろうか。
あの時はこちらの生活から逃げたかった。今の僕は、向こうでの最悪から逃げたがっているのだろう。逃げて逃げて、逃げ延びられるかどうかもわからないのに逃げて。
もし…………もしもこのまま切り替わらなかったら……? この生活に終わりが来たとしたら……僕はどうする……?
そうだ、それこそなんでもないのだ。向こうのことなどこちらには何も関係無いのだ。
無かったことになってしまう……それを証明する手段も無いから…………もう二度と戻らぬものだから、何ごとも無かったかのように、また僕はここに引きこもって時間を過ごすだけの蛹に戻ってしまう……?
「…………っ。違う……違うんだ……」
布団を出たのは眠れそうに無いからだった。切り替わらない恐怖心を薄める為に、何でもいいから気を紛らわしたいだけだったのだ。
服を着替えて家を出て、向かう場所なんてひとつしかなくて。
どんな顔をしてるんだろう、今の僕は。ひどい顔でお客さんがいるところへ押しかけたら、絶対に迷惑だろう。それが分かっていても……僕にはもうそこにしか…………
「ありがとうございましたーっ。いらっしゃいませ…………アキトさん? どうしたの、今日は休みだった筈だけど? ま、もし出勤日にこんな呑気なタイミングで来られたら、流石の私の堪忍袋の緒も…………? アキト……さん……?」
なんでも良かった。気さえ紛らわせられれば…………なんでも——
なんでも良い筈が無かった。ダメだ、ダメだダメだ! ここに逃げ込んだのは悪手だった。
植え付けられる…………っ。この楽しい筈の場所に…………っ。僕の数少ない心落ち着けられる場所に、この不安の怨念が植え付けられてしまう——っ!
花渕さんの顔を見るや否やそんな恐怖に駆られ、僕は踵を返して走り出した。追っては来ない……当然だ、彼女はまだ仕事中なんだから。どこへいけば良い、何をすれば良い。これからどうすれば——
「——はっ————はっ————ぐっ——うぷっ」
走り慣れてない体で思い切り走った所為だろう、お店を視界に入れない為に曲がっただけの曲がり角で、一気に吐き気が上ってきた。まだ五十メートルも走ってない、本当に何をやってるんだ僕は。
ただ、吐き出すだけの胃液すら無かったのは嬉しい誤算だったのかもしれない。無様にその場に蹲りはしたものの、そのまま立って歩いて帰るくらいは叶ってくれた。
家に帰ってもひとり。布団にこもってもひとり。眠りに就けなくて……もうひとりの自分を感じられなくて。
たったひとりなのだ。今の僕には他の何も無い、本当にたったひとりっきりなのだ。
世界が無い、家族もいない、友人も他人も無い。そうだ、僕には…………アギトには今、何も無いのだ。
「………………っ。大丈夫、僕がいる。アギトには……僕がいるんだ……っ」
これで何度目だろうか、僕は目を瞑って布団に潜った。大丈夫、大丈夫と祈りを呟きながら、真っ赤な視界が黒くなるまで目を瞑る。
これは逃避じゃない、確認だ。もしも…………もしもこれで切り替わらないのならば…………っ。その時はもう諦める。一度忘れて、こちらの生活を優先する。
簡単なことじゃないのは分かってる。けど…………何ごとも無かったのだとこの世界が言うのならば、あちらの世界の住人ではない秋人はそれに従う他に無いのだ。
大丈夫、切り替わる。切り替わって……そうだ、ミラに謝らないと。殴ってごめん、怒ってごめん。一緒に考えよう。勇者として何が正しくて、何が間違っているのか。
そうだよ、一緒に…………まだ————まだ僕はアイツと一緒に————




