第三百七十六話
僕達はまた同じ宿の同じ部屋へと帰ってきた。たった半日でオアシスのごとく潤った僕らの財政の、その恵みを一番に浴びたのはやっぱりミラだった。やっぱりって言うとなんだかアイツがいやしんぼみたいだな……そういう意図は無くって。
やっぱり、何よりも先にミラを甘やかしてしまう悪い癖が出たというべきか。僕もマーリンさんも本当に甘やかしいだなぁ。
そんなわけでさっきまでかっこいい顔で高度な魔術を行使していた小さな魔術師は、今はお腹いっぱいご飯を食べて、満足げにマーリンさんの腕の中で眠ってしまっていた。
「うふふ……でへ……かわいいなぁ、やっぱり。でへへ……」
「可愛いでしょう? だからもう二度と突き放すようなことしないであげてくださいよ? そいつの落ち込みようと来たら……」
分かってるよう。と、なんとも申し訳なさそうに眉をひそめて、マーリンさんはぐっすり眠っているミラの髪に顔を埋めた。それは僕の…………っ。しょうがない、今は許してやろう。
どこまでいってもミラはマーリンさんに甘えたいし、マーリンさんもミラを甘やかしたい。
一瞬だけそれがもう二度と叶わないものになってしまったような気がしたから、ふたりともお互いをかつて以上に大切にしようと思っているのだろう。なんともまあ可愛らしい話じゃないか。
「しっかし、今日のミラは凄かったですね。あれは……あの成長、あの魔術は、マーリンさん的には予想してたことなんですか? ああいう技術を身に付けさせる為に、今まで課題を出していたのかなー、って。まあ素人なりに色々と思うところがあって」
「んー、どうだろうね。確かに僕はミラちゃんに、身の丈にあった魔術を覚えて貰うつもりだった。事実、彼女は可変術式なんてものを編み出して使いこなしてくれてる。だけど……うーん、やっぱりどうだろうと言うしかないね」
なんだそのふわふわな回答は。まさか何も考えてなくて、行き当たりばったりでそれらしい課題を出しているんじゃないだろうな……? 今日のあの魔術も、全然予想してなかったけど勝手に成長してくれたからヨシ、みたいな…………
「……あの魔術については、ミラちゃんも言ってた通りだよ。あの程度ならやろうと思えばいつだってやれた筈なんだ。ただまあ……うーん、なんと説明しようか。あくまで僕の立てた仮説だけど、ミラちゃんにとって、魔術による戦闘は手段に過ぎない。だから、君を守る為に常に全開で戦うことに躊躇が無かった。何かあってからじゃ遅いから、ほんの僅かでも出力を落とすなんて考えに至らなかった。この子の依存っぷりを見てるとそう思えてくる」
「うっ……それは…………耳が痛い話ですね」
責める意図は無いんだよ。と、僕に優しく微笑みかけて、マーリンさんはゆっくり上下する小さな背中をさすり始めた。
ミラもそれが心地快いのだろう、ぎゅうと抱き着く力を強めて嬉しそうに頬ずりを………………あんまりもぞもぞ動くんじゃない。僕はあんなものを鷲掴みに…………ごくり。どうしてもうなんの感触も覚えていないんだ…………っ。
「それだけ君が頼もしくなったんだろう。僕が側にいるから、僕の命令だからでは片付かない。君の窮地には簡単に約束なんて破っちゃうしね、もう何度も目にしただろう」
「あ、あはは…………出来るだけ無理させないように気を付けます……」
お願いね。と、また笑って、マーリンさんはゆっくりミラを抱きかかえて立ち上がる。そしてそのままベッドに座っていた僕の隣にやってきて腰を下ろした。
な、なんですか……デュフっ。あの……慣れてきたし仲良くもなったとは言えですね、あんまり気安く接近しないで頂きたく…………んふっ。いい匂いする……女の子の甘い香りでござるよ…………
「…………ありがとう、アギト。正直もう二度とこんな風にこの子と…………君達と触れ合えないって覚悟してたからさ。でも、やっぱりまだ怖い。またふたりに何か災厄が降りかかったらと思うと……」
「大丈夫ですよ、俺達なら。もし悪いことが起こったら、その時はまた甘やかして慰めてください。マーリンさんがいればミラはそれで幸せになれますから」
君はどうなんだい? と、ちょっとだけ意地悪な顔で尋ねられた。ううむ、それ答えるの、ひたすらに恥ずかしいんですけれども。
まあ……でも、日頃の感謝なり恨みなりはきちんと言葉にしておこう。うん、今更何を恥ずかしがることがあるだろうか。もっと恥ずかしいこともしてるんだし…………
「……俺もやっぱり……ミラのこと抜きにしても、マーリンさんとは一緒にいたい。本当はオックスともあんなとこで別れたくなかったです。欲を言うなら、エルゥさんとか、ユーリさんとか。マグルさんとか、出会って一緒に時間を過ごした人達と、ひと時でも離れ離れになるのは嫌です。勿論それは無理だって分かってるし、ソイツの手前もう一度会えるって口にはしますけどね」
「そうだね、それは僕もそう思う。叶うなら、出会った人々みんなと一緒に過ごしたい。けれどそういうわけにはいかない。なら……次の再会をより良いものにする為、楽しい土産話をいっぱい作っておこうって僕は思うよ。ふふ、君達との冒険をユーリに話すのは楽しみだなぁ」
それはそれは……果たしてどんな顔をされるだろう。釘を刺しておいたのに、無茶苦茶させないようにとあれほど言ったのに……なんて恨み言を言われても文句を返せない。いえ、そんな人じゃないって分かってはいるんだけどさ。
「…………良いなぁ。俺にはそういうの話す相手は…………」
「……? アギト……?」
感傷がつい口から溢れたのは何故だろう。それは……向こうではここの話を出来ないから? 大切な家族ふたりに、こっちの家族のことを自慢出来ないのが歯痒いから?
確かにそうだろう、けど……それだけじゃない。はあ、これはそろそろ本格的にホームシックだ。アーヴィンに帰って……なんて前提で物ごとを考えると、少し胸が苦しくなる。
ロイドさんやボガードさん、神父さんにシスター。神官様に……ダリアさんも。この冒険が終わったら、きっとみんなに自慢話をしてやろう。みんなの大好きな市長様と一緒に、魔王を倒してきたんだ、って。
「…………いや、いっぱい居る。うん、思ってたよりいっぱい居るや。こいつの話を、活躍を聞かせたい人が大勢いる。俺も早くアーヴィンに帰ってみんなに言いふらしたいです。ミラはこんなにも可愛いんだぞーって。いや……みんなもう知ってるか……」
「あはは、ミラちゃんはあの街じゃ大変な人気者だったみたいだからね。でも、そうだね……今更なことでも、きっとみんな笑って聞いてくれるよ。楽しい話は何度聞いても楽しいものさ」
そういうものかな。まだぐっすり眠っているミラを、マーリンさんはゆっくりと抱き上げ、そして僕の膝の上へと優しく返してくれた。
おお、お帰り可愛い僕の妹よ。すっかり眠ってしまってぬくぬくになった小さな生き物は、抱き着く相手を求めてすぐにその小さな手を伸ばしてくる。でへ……お兄ちゃんだぞー? いい子いい子。
「さて、じゃあそろそろ…………かわいそうだけど起こそうか。昨晩は色々あって出来なかったからね、新しい課題を出さないと」
「お、鬼…………っ。こんなになるまで寝かしつけておいて、今更起こそうって言うんですか…………っ」
君を悪者にするつもりは無いから。と、困った顔でマーリンさんはミラを肩をぽんぽんと叩いてやさしく声をかける。起きて、とか。ちょっとだけ話を聞いて、とか。
だが…………その程度で起きるような眠りの深度ではない。それはそれはもうぐっすり、海底に沈み込んでしまったかのように眠りこけている。これを起こすのは至難の技だぞ。
「……しょうがない、物を使うのは僕の流儀ではないんだが……」
「物で釣っても起きるかどうか分かんないですよ? こんなになっちゃったらなかなか……」
任せて。と、何やら自信ありげに、マーリンさんはカバンの中に手を突っ込んだ。なんだろう、ご飯かな? さっきいっぱい食べたとはいえ、こいつの食欲には本当に限りがない。甘くて美味しいアップルパイでもちらつかせれば、案外あっさり……
「…………それ、なんです? ペンダント……?」
「これもまあ、簡易的な魔具のような物さ。見ててごらん」
見ててって……まあ目の前どころか至近距離で行われるわけだし、嫌でも目には入るんだけど。
マーリンさんは翠の石のはめ込まれたシンプルなペンダントを、ゆっくりとミラに近付け…………おや、てっきり首に巻くものかと思っていたのに。そのまま石を頰に押し当てて、何やら目を瞑ってしまった。え? なに? 冷たさで起こそうって話?
「………………ん……んん…………ふわぁ……」
「っ⁈ ほ、本当に起きた……っ⁈」
叩き起こされた時みたいな不機嫌さも見せず、ミラはゆっくりと体を起こして大きな目を擦り上げた。
ふふんと何やら得意げになっているマーリンさんに、僕はひたすら説明を求める。何をやったんだ! そんな簡単な方法があるのなら先に教えておいてくれ! 毎朝大変なんだぞ、こっちは!
「これは別に特別なものじゃない。魔力伝導の高い鉱物を用いて、魔術的な要素でミラちゃんに訴えかけたんだ。感知能力が高く、その上で優秀な術師であるこの子限定の——」
「——ん…………んんーっ…………マーリン様も…………」
なにやら自慢話の途中だったが…………残念ながら、その方法はあまり有効ではないようだ。というか………………
「…………や、やってくれましたね貴女…………っ!」
「いや、ごめん……この展開は予想してなかった……」
ミラは不機嫌になること無く、寝ぼけた笑顔のままマーリンさんの手を引っ張って、そのまま僕のことも抱き締めて眠りに就いた。
マーリン様も。と言った通り、ふたり分の体温で温められて眠りたいらしい。だが…………これはマズイ。何がマズイかと言うと…………マーリンさんが近過ぎるっ!
「ミラちゃん、ちょっとだけ起きて貰ってもいいかな………………ね、寝てる……っ⁈ たった今起こしたところだったよね……? もう寝て…………ええ……っ⁈」
「うぐっ…………ちょっ……あんまり動かないで………………っ」
今すぐに離れて! 今すぐ! と言いたいのに、ミラがどっちのこともガッチリ掴んで離そうとしない。これは…………とても困る。
マーリンさんは困った顔でミラを起こそうと、新たな課題を発表しようとしているが、しかし現実は無情である。
それにしても、どうして今朝あんなことがあったのに平然としていられるの……? 色々あったでしょ? だから…………もうちょっと警戒心を抱いてくれてもいいんじゃない…………?
それからすぐ、しょうがないか。と、マーリンさんはそのまま器用にシーツを手繰り寄せて、ミラを起こさないようにゆっくりと横になった。あの…………もしかして、しょうがないって…………? しょうがないからこのまま寝よう……とか、そういう……?
「灯りは……勿体無いけど、消せそうにないからこのままでいいかな。じゃあおやすみ、明日も頑張っていこう」
「え……? え………………っ? 寝るの……? このまま寝るの…………っ⁈ ちょっと待ってよ! こんな状況で…………も、もう寝てやがる……っ」
マーリンさんもマーリンさんで寝付くの早いよっ! どうしてこんな状況で…………男女が同じ布団の中にいる状況で眠れるんだっ!
せめてもの抵抗として、僕は必至にふたりに背中を向け、ぎゅうと目を瞑って早く意識が途切れるのを待った。どうしてあんなことがあってもなお意識してくれないんだよ…………ぐすん。




