第三十六話
眠ることにした、と言ったな。あれは嘘だ。眠れるわけがない。勘弁してほしい。小鳥が鳴き始めたじゃないか。散々走り回ったその晩、僕は悶々としながらひたすらに朝を待った。アーヴィンに来てから、既に二度目の完徹である。
だってしょうがないじゃない! ミラがもぞもぞ動く度に首元はこそばゆいし、焦げ臭いのと血生臭いのも大概だけど、合間合間に女の子の匂いするし! 下手に動くと呻き声あげてギュってしがみつくんですよ! 下手なこと出来ないし、下手なことばっかり浮かぶし……それどころじゃないんですよ!
「……っん。あれ、寝て…………」
「…………オハヨウゴザイマース……」
先日の惨劇が脳裏をよぎる。痛くないはずの臀部に熱が宿り、あの時の恐怖が胸の内から湧いて……
「……ん、おはよ」
存外彼女は平然としていた。いえね、その反応もそれはそれで傷つくんですけれども。
「アンタ背中あったかいわね。あー……だめ、二度寝しそう……」
「起きて。お願い、起きて」
流石にもう何時間ずっとこの体勢でいるだろうかと、考えるのも嫌になるほど節々が凝り固まっている。特に背中、常に緊張に晒されていただけあって今にも千切れそうなほどだ。
「……うん、わかってる。すぐ……」
寝る! それ寝るやつ! っていうか起きてるんならあんまり顔近付けないで! 自覚持って‼︎
「…………んー、アンタちょっと汗くさ……ッッ⁉︎」
何やら失礼なことを言いかけて彼女は飛び起き……たりするから、声も上げられずに、また力無く背中の上で縮こまってしまった。汗臭い、というのは最近の秋人的に傷付くワードベストスリーに入るので出来れば聞きたく無かった。
「おっ、起きた! 起きたから! 下ろして! もうヘーキだから‼︎」
「えっ傷付く……」
いつか母さんと兄さんに言われた時の三倍は傷付いた。そうか、臭いか。おじさん、臭いか……お嬢ちゃん。あはは、こりゃあ参ったね……
「ちがっ……ほら! 血とか泥とか! いっぱい汚れたし! その、ね⁉︎」
「泥……はまあそうだけどさ。そんなこと言ったらミラの方がいっぱい……血……」
あ、間違えたわこれ。文句を言おうと振り返ると、顔を耳まで真っ赤にして瞳を揺らす少女がいた。うん、間違えた。すぐに鉄拳が飛んで……
「……………………かった……?」
「……買った?」
飛んでこない鉄拳を待つのはやめて目を開くと、彼女は今にも泣きそうな顔を背けていた。買った? いえ買います。何か知らないけど喜んで買います。
「…………やっぱり私……臭かった……?」
「ッ⁉︎」
これは……マズい。彼女は既に血生臭さ埃っぽさについて自覚してしまっている。変に臭くないといえばきっと機嫌を損ねる。本で見た。下手なおべっかは逆効果だって本で見た。しかしなんとかしなければ。“臭かったけど気にならなかったよ”はダメだ、フォローになってない。“臭かったけどむしろそれがいい”だと完全に変態だ。“臭かろうが君は君さ”なんて馬鹿か! 言えるかそんなクサいセリフ! 臭いだけに! って馬鹿!
「……まぁ血生臭いけど、俺ミラの匂い好きだし……別に……」
やらかしましたね。ええ、完全に胴体着陸失敗です。フォロー出来てない上に気持ち悪い発言をかまして、さあゆっくり拳が振り上げられて…………
「なっ……に言ってんのよ、バカ」
ぽかっという可愛い感じの擬音が似合いそうな鉄拳を貰った。そう言えば今の彼女は、あの世界さえ狙える鋭い右もヘビー級すら脅かす重たい左も取り上げられているのだった。力無く振り下ろされた拳に、忘れていた比較的重大な事実を思い出す。
ならば、やることは一つだろう。
「大好きだぞぅミラの匂い。特に汗かいてちょっと酸っぱくなった様な匂いなんて特に。今もほら、寝汗だか涎だか俺の汗だかわかんないけど、背中いい具合にビッチャビチャになって——」
「——〜〜〜〜〜〜っ⁉︎」
流石にやりすぎた感がある。というか背中は九割がた自分の汗だろうに。最小モーションで繰り出されたヘッドバッドが、軽口ごと僕の脳天を撃ち抜いた。微妙に恥ずかしい思いをしてまで得た成果がコレとは……
「降りる! もう降りる‼︎ 降ろして! 降ろせ‼︎」
「ちょっ、暴れない。どうせまたおぶるんだから」
彼女も彼女でまだまともに歩けそうもない自覚はあるのか、不服そうにまた定位置に戻った。多少の成果はあった様で、もじもじといじらしい姿を収めることが出来る。
「さて市長殿。本日のご予定は?」
「……なによそれ。今日はいつも通りお風呂入って、仕事して、お昼過ぎたら神殿に伺って、帰ってきたらまた仕事よ」
ふむ成る程。どうやら彼女には自覚が足りないらしいが……それはまたおいおい知らせるとしよう。まずはお風呂……はシスターに預ければいいだろう。出来れば関わりたくない、というかあの剥き出しの嫌悪感と面と向かい合いたくないが。
「じゃあ行きますか」
やはり微妙に機嫌が悪くなる。そんなに号令係……仕切りたがりが過ぎるな。きっと立派な鍋奉行になるだろうなんて考えながら、僕は彼女を背負ったまま教会を目指した。うっかりしていたのだが、道中衆目に晒され、ちょっとした羞恥プレイを味わう羽目になってしまった。昨日同様下らない話をしながらの道中は、きっと早足になったのもあっただろうが、いつもより短いものだった。
僕のことを未だにゴミを見るような目で見てくる小柄なシスターにミラを預け、傷心そのまま僕は泥と血と、名残惜しいが彼女の匂いを落とした。違うんですって。別にそーゆー性癖とか、出てくるなゲン! 脳内に湧くな! やめろ!
「おう、相変わらず早いな」
早くないわ! ごめん早いかも……いや違う! ホントどっかいけこのクソジジイ! べ、別にミラとシスターが裸でくんずほぐれつなんて想像してたわけじゃないんだからねっ! っと、くだらないことを考えている僕に話しかけてきたのは、錬金術師のボガードさんだった。そう言えば彼も、ゲンさん同様そう言った話題をやたら振ってくるイメージがあるが……
「……なんだ、随分警戒されてんな。忘れたか? この街一のしがない錬金術師、ボガードさんだ」
「いえ、覚えているから今は警戒を……っていうか前から思ってたんですけどその名乗りなんなんです」
相変わらず……自信をなくす。そういうのは隠して欲しい。銃刀法違反だろう。彼は何も言わず僕の横に腰を下ろして、気の抜けた声をあげながら熱い風呂を堪能し始めた。
「……大変だったみてえだな」
「…………俺は……別に」
少し沈黙が過ぎるのを待ってから、彼は僕の体を見ながらそう言った。僕もまあ擦り傷切り傷、それと仲間の数も増えたが、それ以上に火傷もある。だが、こんなものと言いたくなる程、ボロボロになった二人の姿が頭にこびりついていた。
「もしまた危ない仕事をするってんなら、忘れずうちに来な。市長に見られたら笑われるかも知れんがな。私も私でお前とは縁があると思っているし、やはり若いのが危ない目にあうのは好まん」
いつかの忠告じみたお願いとは違う、単純で素直な善意だろう。きっとそれは僕だけじゃない、彼女に対しても向けられている。いや、きっとなんて曖昧なことは無い。間違いなく彼女にも向けられているだろう。
「……じゃあ俺は、ボガードさんの所に厄介にならない様に祈ってますよ」
そうだな。と、笑う氏と別れ、いつもより入浴を短く済ませた。どうあっても彼女より先に出て待っていたかったのだ。彼女のことだから、遅れると無理して本堂まで行って待っていそうだからな。
それからしばらくして、シスターに抱えられた彼女と女湯の前で合流した。それまでに散々浴びた冷たい視線と、たった今追い打ちに食らったシスターのあからさますぎる嫌悪感に、温まった体とは裏腹に心は底冷えしていたがそんなことも今だけだ。膝をついた姿勢で背中を向け、彼女の搭乗を催促する。
「ほら乗った乗った。鈍行でよければだけど」
「なによそれ。まったく」
そんな他愛もないやり取りをして、僕はシスターに抱えられながらやってきた彼女をおぶって目的地に…………ああ、くそ。
めっっっっっっっちゃいい匂いする…………